牢獄 その3

 素空は夜が更けるまで看経した。2人の咎人は既に寝入っていた。素空は暫らくして、口の中で経を唱え始め、その声が牢内に漂い始めて素空の牢内をいっぱいに満たした後、伊兵衛と井坂の牢にまで流れ始めた。

 2人は同じような夢を見た。夢の中に男と女の姿があったが、男は女を蹴落として自分だけが光の方へ駆け出そうとした時、フッと女の方を振り返り顔を見た。伊兵衛と井坂の2人はそれぞれに蹴落とした女の顔が、己の母親の顔だったのに驚いて目を覚ました。

 2人は目を覚まして、なお経を唱え続ける素空の存在に気付くと、伊兵衛は心の中で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と何度も唱え続け、やがて眠りに落ちて行った。

 井坂又之進は既に月明かりが移り過ぎて仄暗い牢内で、素空の顔を見ているとフッと金色の輝きが眼前に蘇り、畏れを感じて目を閉じた。しかし、閉じた目の中に光が押し寄せた時、井坂又之進の恐怖は絶頂に達しそのまま気絶した。

 翌朝、牢番が起こしに遣って来た時には、既に素空は起きて経を唱え始めていた。

 この日の牢番は久米造くめぞうと言い、既に昨夜の申し送りを受けていた。

 久米造は、素空の前で恭しくこうべれると、朝食の用意ができたことを伝えた。3人は朝食の膳を受けると、合掌して短い経を唱える素空を真似て合掌し、素空が箸を持つまで、自分の箸を取ることはなかった。

 朝食はすぐに済み、素空が経を唱え始めたその時、井坂又之進が言った。

 「ご坊わしにもお経を教えてくれないだろうか?喧嘩口論の果てに人を殴りつけたり、腹立ち紛れに刀を使ったりして何人も殺めて来たが、魂はあるのだろうか?死んだ後はどうなるのだろうかと夜中に考えさせられたのだよ」

 素空は笑みを浮かべて答えた。

 「伊兵衛様と同様に、南無阿弥陀仏と唱えると良いでしょう」そう言うと、伊兵衛の牢から経文を借りて来て渡した。

 「この経文はすべてを唱えなくても大丈夫です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と何度も唱えることで、魂の浄化が始まるでしょう」

 素空がそう言った時、伊兵衛が横から尋ねた。「お坊様、私は地獄に堕ちるのだろうか?散々悪行をしておいて今更言うのもおかしなことだが、あの世があるとしたなら覚悟をしておかにゃならんのよ」

 井坂又之進も同じように尋ねた。「ご坊、わしもあの世や神仏など信じないで生きて来たが、金色の不思議な輝きを知って神仏の印に触れた思いだ。本当に地獄はあるのだろうか?そして、わしは間違いなく地獄に堕ちるのだろうか?」

 素空は大いに満足だった。さながら、2人が仏道の入り口から中を覗き込んでいるようだった。

 素空が答えて言った。「神仏の存在は間違いのないことです。人は死して浄土に上がることを喜びとせねばなりません。生あるうちに悪行を為したる者は、死後にその責めを受けるのです。お2人とも、赦し難い罪を背負われて死するのであれば、厳しい責めを覚悟しなければなりません」

 素空は2人の顔をゆっくり見ながら、井坂又之進の牢に向かって話し始めた。「井坂様は既に御仏の御慈悲を受けています。御仏がその御印を御現しになった時、心が御仏の方を向いたことは幸いでした。既に償えぬ罪を犯した者には相当の責めが与えられるのですが、そのようなお方にも御仏の御慈悲が注がれることは疑いのない真実なのです。一心に魂の浄化をなさることです」

 素空は、伊兵衛の牢に向かって話し始めた。「伊兵衛様は既に御仏に向かっておいでですが、これまでの悪行は決して償えるものではありません。人がこの世で償えない罪を犯すと、後の世で厳しくその責めを受けるのです。やがて、獄門の露と消えてもそれは人が下した責めに他ならないのです。死後に償えない罪の代償を払うことは間違いのないことなのです」

 素空は、伊兵衛の気落ちした姿を眺めて気の毒に思い、言葉を選んで語った。「人はこの世で御仏の御示しになった道を幸せのうちに全うすれば、後の世では御仏の側に魂が上がるのです。これからの毎日を御仏にのみ向かって生きることは、魂の浄化を果たすことに違いないことでしょう。ご安心なさいませ」

 2人は妙な力で勇気付けられたような、不思議な思いだった。

 この日は3人の経が静かに流れ、素空の声が2人を包むように優しかった。

 夕食の時刻には、素空の経の後をなぞるように、何度も言い間違いをしながら後に付いて行った。1時いっとき(2時間)ほどで短い経を唱えることができるようになって来たが、それは素空と共に唱える時だけだった。2人は自分達が殺めた者達のことを思うと、すぐさま南無阿弥陀仏と繰り返し、1人呵責の経を唱えるのだった。

 夕食の時刻はアッと言う間に近付き、牢番の久米造が夕食の膳を運んで来た。

 3人は食事の前に経を唱え、合掌して箸を取った。久米造は2人の変わりようを、目を丸くして眺めた。食事の時に様子を窺い、逐一梶野に報告することは牢番の勤めでもあった。久米造からの報告は、梶野長次郎を満足させるものだったが、素空との約束では、残るは明日のみだった。

 夕食がすんで酉の刻とりのこく(午後六時)を回った時に、伊兵衛が、素空に語り掛けた。「お坊様、お名前は何んと言われるか?」伊兵衛は最初作次に告げられた素空の名を、ソッポを向いて聞かなかったのだが、それは井坂又之進にしても同じことだった。

 素空が名を告げると、伊兵衛は語り始めた。「素空様に連れられて、信心しますと以前にゃ屁とも怖くなかったことが、だんだん怖くなり、死んだ後まで心配になる始末でさぁ。いっそ素空様が来なけりゃよかったのかも知れねえと思いますよ」伊兵衛の心の内が素直に表されていた。

 素空は言葉を選んで言った。「伊兵衛様は、私と向き合った時から、人の心を取り戻したのです。悪行の果ては地獄への道でしかありません。この世において、地獄の責め苦をどのように伝えることができるでしょうか?想像を絶する責めが待っていると思えば、御仏にすべてを委ねて心からの回心を果たすことは、その責め苦からの解放を約束されたことと言えるでしょう。死を恐れることはありません。御仏の道を歩む者は、人の手で最も重い裁きを受けても、御仏の御慈悲は注がれるのです。怖がることなく信じることです」

 素空は、伊兵衛の心の揺らぎが信仰の道を進んでいる証だと思った。人が真っ直ぐに進めないことを知っているから、素空は自らの体を投げ打っても道を説こうとするのだった。伊兵衛への言葉は、井坂も聴いていた。

 「素空様、私は何故このような人間になったのでしょう?」井坂又之進がポツリと尋ね、素空が答えた。「井坂様の生い立ちを存じないながら、思い当たることが1つだけあるのです。これは誰にも同じように言えるのですが、己の身の育て方を間違えたからでしょう。人は幼き時から様々な違いの中で成長をし、物心付いてよりは己の意思で生きて参ります。己の身を正しくするのは己自身にしかできないことなのです。子供の頃より悪行に染まった者に育てられ、善なる心に触れることがなかった者ならばこの限りではありませんが、折に触れ、あなた様に忠告したお方もあった筈ではありませんか?善を拒んで悪事を成すは、己を育てて1人前の人間に成さなかったと言うことなのです」

 井坂又之進も伊兵衛もすっかり意気消沈してしまった。そこで、素空は最後にこう付け足した。「お2人が遅ればせながら改悛を始めたのは、お2人の喜びばかりではありません。私も梶野様も大きな喜びとするところですが、何より御仏が御喜びのことと存じます」

 すると、井坂又之進がムッとして尋ねた。「それじゃご坊は御仏を見たことがおありなのか?」

 素空は声音を変えて答えた。「私は御仏といつもお話を致しております。この目でシカと見定めたこともありますれば、疑う心などまったくないのです。また、例え見ずしても、その存在は疑うべくもありません」そして、仏の降臨について語り始めた。「御仏は何時も人の傍らに御座します。必要のある時は降臨し、その御姿を御現し下さいます。それは、浄土に召される時、信仰の種を落とす時、仏罰を下す時なのです。金色の輝きを見た人はまさに御仏を目にしたことに他ならないのです。既に信仰の種は落とされているのですよ。しっかりなさいませ」

 素空は付いては離れ、また付いては離れする2人の心をなだめるように諭した。2人の咎人は残された短い時を、一心に信心しようとしていた。

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