牢獄 その2

 高窓から月明かりが射し込み、文机の経典がくっきりと浮出たように見えた時、駒込の伊兵衛の興味は経文に集中した。「お坊様、お坊様…お経の易しいのをわしに教えて下さらんか?わしは彦根からの検分役が来れば打ち首なのだよ。わしが殺めた者達にどうすれば赦してもらえるのか、お坊様を見ていてずっと考えていたのだよ」

 素空は、駒込の伊兵衛が改悛に1歩近付いた証を見た。素空は1冊の経文を取り出し、伊兵衛に近付くとひとこと言って手渡した。「伊兵衛様、これは短い言葉の中に、御仏の御慈悲にすがる人の心のありようを籠めた言葉です。経文のすべてを読み上げなくとも結構です。南無阿弥陀仏なむあみだぶつと唱えるだけで、御仏の御慈悲が頂けるのです。経文を開いて、南無阿弥陀仏と千遍万遍繰り返すうちに、御仏の降臨と浄土への約束が得られる筈です」

 素空は、伊兵衛に経文を渡すと、南無阿弥陀仏と唱えて伊兵衛に後をつけさせた。

 初めはぎこちなかった伊兵衛も、次第に素空のようにすらすらと言えるようになり、やがて、一心に極楽往生を願う老婆のように念仏に没頭した。

 素空が大切なことを語った。「人がこの世で為したる悪行は、念仏を唱えようとも許されるものではありません。しかし、どのような罪人でも、己の罪を悔いて祈る人と、己の所業を省みず死んで行く者では、死後に大きな違いが生まれるのです。我が成したる所業を悔いて御仏に赦しを乞い、犠牲となった人々への謝罪には、御仏の御慈悲があるのです。ただただ、悔いて謝罪し赦しを乞うのです。心からの改悛には御仏の御慈悲が必ずあることを信じるのです」

 素空がもとの位置に戻ると、経を唱える密やかな声が2つの牢から漏れ始め、やがて井坂又之進のところまで届いた時、井坂の激怒の声が牢内に響き渡った。

 「ウルセー!辛気臭い経など止めちまえ!てめえら打ち殺してやるから覚えていやがれ!」井坂又之進は激怒の余り顔を赤らめて、赤鬼さながらに睨み据えた。

 素空はスッと立ち上がると、何を思ったか井坂又之進の方に歩み寄った。

 「お坊様!近寄ってはいけません!」駒込の伊兵衛は悲鳴ともつかぬ声を出して素空を制止しようとしたが時すでに遅く、素空は格子から出て来た井坂又之進の両腕でグイと引き寄せられていた。

 伊兵衛は目を閉じて念仏を一心に唱えた。人のためにはびた1文も払わなかった男が、この時ばかりは手を合わせて一心に助けを求めていた。

 伊兵衛が目を閉じた瞬間、井坂又之進は素空を手元に引き寄せて首を両の手で締め上げようとした。すると、素空の首筋から金色の光が漏れ出し、井坂の手を金色に染め上げて、やがて、手先から肩口、肩口から顔面に掛けて金色の光が押し寄せた時、素空を掴んでいた両の手の力が失せて思わず手を放してしまった。

 素空はそのまま床に滑り落ち、意識がないまま倒れていたが、井坂又之進は金色の輝きが全身を覆った時、その場で気を失って倒れ込んだ。

 暫らくして、駒込の伊兵衛の叫び声で、牢番の作次が飛び込んで来て、素空の牢内に入り素空を揺り動かした。素空は目覚めて居住まいを正し、もとの位置に戻ると、何もなかったように看経を始めた。月明かりが素空の経文に当たり、金色の微かな輝きを生んでいることを伊兵衛は見逃さなかった。駒込の伊兵衛が神仏の存在をおぼろげながら感じた初めての瞬間だった。

 作次は、素空の身が心配ないことを確かめると、井坂又之進の牢に入って行った。井坂は牢の中で震えながら身を丸くしていたが、作次が近付くと咄嗟に当て身を食らわせて牢から出ようとした。

 作次が開け放った出入口の格子扉を潜ると、そのまま出口に向かって走りだそうとした瞬間、素空が声を張り上げた。

 「カーツ!御仏の御前であるぞ!」

 井坂の足が止まり縺れたように牢内に逆戻りし始めた。素空は、井坂の牢に入ると作次を助けて、井坂又之進を部屋の真ん中に座り込ませて言った。「井坂様は既に御仏の意のままなのです。私に危害を加えようとした瞬間、御仏の御慈悲はあなた様に向けられたのです。お喜びなさいませ」

 井坂又之進は、素空が言ったことをまったく理解できなかった。それを見ていた駒込の伊兵衛も同様だった。作次は気が付くと、牢を出て梶野長次郎への報告に走って行った。

 素空はもう1度分かり易く説明した。「井坂様は、私に手を掛けた瞬間に御仏の御降臨に与ったのです。金色の輝きが御仏の証ですから、御身おんみを以て体験なさった筈です。私が制止した時、逃亡を止めて御仏の意に従ったのはその印なのです」

 井坂又之進も駒込の伊兵衛も言葉なくうなずいた。

 牢番の作次が、梶野長次郎を伴って再び現れた時、牢内は妙にシンとした空気に満ちていた。

 梶野長次郎は、素空を牢から詰め所まで連れて来て言った。「お坊様、一体どうなさいました?作次の知らせではただごととは思えないようでしたが、先ほどの様子は打って変わって静かなものでした」

 素空は笑みを浮かべて語り始めた。「あのお2人は、御仏の御示しになった道を見出そうとし始めたのです。初め伊兵衛様が経を唱えるようになり、続いて井坂様が御仏の御印に触れられたのです。既に御仏の御手の中に入られたと言うことです」素空は淡々と語った。

 梶野長次郎が怪訝な顔で尋ねた。「御仏の御印とはどのようなものでしょうか?」

 素空は微笑みながら答えた。「金色の輝きは御仏の証なのです。金色の輝きが我が身に移る時、悪心は去り真の己に帰るのです。そうならぬ時はすぐに仏罰が下り、魂は救われることのない地獄に堕ちて、永遠の苦しみを受けるのです。どのような悪人も、御仏の御印に触れた時素直な我自身に戻り、神仏への畏れや信仰への芽生えを感じるのです。井坂様のかたくなな心に、我が信仰の証を移しただけなのです」素空は悠然として、梶野長次郎を見た。梶野は素空と目が合った時、言い知れぬ畏敬の念が込み上げ、まともに見返すことができなくなった。

 やがて、素空が牢内に戻って行くと、梶野長次郎は素空の後姿が見えなくなるまで見送った。『あのお方はやはりただならぬお方であった…』梶野が呟くのを、口を開けて作次が眺めていた。

 

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