第5章 牢獄 その1

 素空と栄雪が開泉寺を出立して、中山道なかせんどう柏原宿かいばらじゅくと言う近江国おうみのくにで最後の宿場町に着いた。柏原かいばらには井伊家いいけが役所の出先機関として、宿役場しゅくやくばを設けて役人が常駐していた。役人は出役でやくと呼ばれる梶野長次郎かじのちょうじろうと言う30才半ばのおっとりした男と、その下役2名と、門番・捕り手を兼務する5名の配下がいた。

 宿役場には表通りからは見えない場所に小さな牢獄があった。3つに仕切られた部屋の2部屋に2人の囚われ人がいた。

 1人は駒込こまごめ伊兵衛いへえと言い、中山道の宿場を稼ぎ場所にしていた1人働きの盗人だった。もう1人は井坂又之進いさかまたのしんと言う、以前は彦根藩ひこねはんの侍で、刃傷沙汰にんじょうざたを起こして逃亡中に、更なる悪事を働き捕らえられ、極刑を待つ身だった。2人の罪人は捕らえられた時から、とうに覚悟ができていて、いつ死んでも構わないと豪語していた。

 伊兵衛にしても、井坂又之進にしても、神仏の存在など、はなから信じたことがなく、この世の生をまっとうすることだけが生き物の一生だと信じて疑わなかった。

 梶野長次郎は死罪の罪人をそのまま死なすのが忍びなかった。近く処刑される2人の罪人が改悛かいしゅんを示し、人として立派な最期を迎えられるよう思い悩んでいた。

 また、梶野長次郎は日ごろはおっとりとしていて捉えどころがない男だったが、重大な事態が発生した時には、如何にも役人らしい俊敏さを備えていた。

 素空と栄雪が宿役場を通り掛かった時、梶野長次郎は思った。『これは天の助けであろう。この若い僧であれば何某なにがしかの知恵を持って諭してくれるであろう』

 素空と栄雪が宿役場を通り過ぎようとした時。

 「其処なるご坊、暫し待たれよ!」梶野長次郎は2人を呼び止め、宿役場の脇の門を潜らせて中に招じ入れた。「ご坊をなかなかのご仁と見てお頼みしたいことがあるのだが、聴いてもらえまいか」梶野長次郎は2人の罪人が改悛して刑を受けるよう、素空に働き掛けて欲しいと願った。

 素空は2、3日なら逗留しても良いと答えて承知した。

 梶野長次郎は8、9日の日数を考えていたので、素空の返事には不満があったが、頼む立場では不服を口にすることができなかった。

 『このお坊様が例え高名で徳の高いお方でも、2、3日ではこのしたたかな者共を改悛させることなど到底できはすまい』梶野長次郎は心の中でそう呟いて落胆した。

 素空が言った。「梶野様、連れの僧に暫くの間、部屋と食事を所望したいのですが、よろしいでしょうか?」

 梶野長次郎は怪訝な顔で尋ねた。「それは一向に構いませんが、ご坊は如何いたしますのやら?」

 素空が答えて言った。「私は咎人とがにんと一緒に牢内で寝起きを致します。食事も同じ物を頂きますが、これまでと何も変わらぬようにお手配頂きたいのです」

 梶野長次郎は思い掛けない申し出に当惑しながらも承知した。

 素空は続けて言った。「私の牢には鍵を掛けずに出入り自由にして下さい。それから今後一切、牢内の監視、見回りを行わないよう、牢番のお方にお申し付け下さい」

 素空はそう言うと、腰の数珠と、手甲脚絆てっこうきゃはんを外して、旅姿から天安寺にいる時のような普段の格好になった。

 梶野長次郎は思いも付かないことをサラリと口にする旅の僧に、不思議な力を感じ取り、さっきまで落胆していた心に、俄然勢いが付き始めた。

 「作次さくじはいるか?ここに来て、このご坊を牢内にお連れせよ」梶野長次郎は、作次と言う牢番を呼ぶと、素空が言ったことをシカと命じて牢内に向かう2人を見送った。

 作次は牢に着くと、先に入っている2人の咎人に素空の名を知らしめて中に入れた。駒込の伊兵衛も井坂又之進も顔をちょっと向けただけで、そ知らぬ顔をしていた。

 素空は2人の間に入ったので、2人からよく見えもしたが、素空自身からもハッキリと観察ができた。

 牢の奥は東向きで、朝の光が高窓から射し込むようになっていた。素空はこの高窓からの光がこの2人の改悛に大きな力添えとなることを予感した。素空は牢に入ると無言で経を唱えた。時折経文を開いたり、閉じたりする音が聞こえ、辺りは静寂に包まれたように静かだった。素空の看経かんきん1時いっとき(2時間)ほど続いたが、その間2人は時折舌打ちをしながら居眠りを決め込んだ。

 ちょうど1時が過ぎた頃だった。いきなり井坂又之進が吠えるように怒鳴った。「やかましいわ!この糞坊主め!辛気臭い経など耳障りなだけだ。糞忌々しい経なぞ止めちまえ!」

 駒込の伊兵衛は40才半ばで堂々とした物腰の男だったので、ひと回りも年の差がある上に、これまで散々横着な物言いをして来た井坂又之進の言葉に同意する気になどなれなかった。

 井坂又之進は夜中に大声をだして伊兵衛を起こすと『いびきがうるさいから鼻をつまんで寝ろ!』とか『俺様が寝るまで起きていろ!』などと言って噛み付いた。

 この極悪の限りを尽くして来た2人は、いずれ同じような運命をたどるのだろうが、この牢内で数日を過ごしても互いに自分の殻からでることがなかった。牢番の作次や久米造くめぞうには受け答えするばかりか世間話もするほどだったが、その時以外は殻をでることはなかった。

 伊兵衛は腹立たしい思いを何度も味わったが、毎日が忍耐することしかできない歯痒さを抱えていた。この日、伊兵衛は、井坂又之進の敵意が自分以外に向けられたことに密かな喜びと、野次馬的な好奇心を持って素空の反応を窺った。

 井坂又之進は、半時(1時間)余り素空に罵声を浴びせ続け、終いにはわめき疲れてふて寝してしまった。

 素空は初めから変わらず看経を続けて、2人の魂の救済を求めた。

 やがて時が過ぎ、夕食の時間になった。3人に同じ物が差し入れられ、3人が同じ様に箸をおいた時、素空に合わせて伊兵衛が手を合わせた。伊兵衛自身も自分の行動に驚いて、すぐさま手を下ろしたが、心はちぢに乱れ狼狽を隠し切れなかった。

 井坂又之進が素早く見て取り、大げさに揶揄した。「ほほう、極悪人も坊主の前では何ともしおらしいことよ」井坂又之進は大声で笑い飛ばした。

 伊兵衛は赤面したが、これまでのように腹立たしい思いなど微塵も湧いて来なかった。伊兵衛は半時も罵声を浴びた素空を眺めながら、1つの思いに辿り着いたのだった。『この坊主は若いのになかなかできたお方だ。どうすればこのように心静かになれるのだろうか?…そうだ、わしも座禅でもして、あの若造に何を言われても腹を立てないよう修行しようじゃないか』伊兵衛は心の中で密かに決めて、素空の様子をジッと見守った。

 素空は夕食の後も、昼間と変わることなく看経をし、持ち込んだ経文のすべてを10回ずつ唱え続けた。

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