真の御姿 その3
開泉寺では素空と栄雪が本堂の仏像を手入れしていた。
「お見事です。栄雪様は器用ですね」素空が手を止めて言うと、栄雪は嬉しさを押し殺すようにして言った。「これまで、何をしても楽しいことが幾つかありましたが、こればかりは格別のことです。毎日が楽しく幸せで申し分がないのです。
素空が言った。「さようです。良円様は御召しが近付くにつれ、心を整えられたのです。魂は浄土に上がっていらっしゃいますが、今は栄雪様の心の中に生きておいでです」
栄雪は、素空の言葉で亡き母を思い、心の中で生きていることを感じた。仏師と言う者は、心の内に過ぎ去った人や、亡くなった人を思いながら、人情豊かな心を育てることが必要なのだと思った。
やがて、本尊の
手掛けて7日目の宵の刻、素空と栄雪は格子の中を清めて経を唱え始めた。
経を唱える前、栄雪に言った。「これより2人で仁王像に魂を籠めますが、私に無断で格子の中から出ないで下さい。格子の中を行き交うのは構いませんが、1方の格子に片寄ることのないようお気を付け下さい」
栄雪が尋ねた。「御本尊には特別な祈願をする訳ではないのに、何故、仁王像には魂を籠めるのですか?薬師堂では随分ご苦労されたご様子でしたが…」
素空が答えて言った。「守護神にはこの寺と近江八幡のために御働き願わねばなりません。御仏像の多くは御仏そのものなれば、心を尽くして経を唱えるだけで、御心が籠って下さるのです。しかしながら、開泉寺の守護神は仁王像です。つまり、
栄雪は、素空の言葉を心に深く留め、仏師としての最後の要の仕事が始まるのだと思うと、昂る心を抑えることができなかった。
素空が経を唱え、栄雪がその後に従った。『長い経をすべて暗記しているのだろうか?』栄雪は夜半にそんなことを考えながら、ぼんやりと素空の横顔を格子越しに眺めていた。
栄雪は何時の間にか寝入ってしまったらしく、耳元で素空の経が聞こえたので目を覚まし、促されて阿形尊の格子の中に入った時、口から臓物が飛び出るほど驚いた。
阿形尊の蜜迹金剛が、中に入ったばかりの栄雪を、首を傾げて見遣ったのだった。栄雪は凍り付いて動くことも、声を出すこともできなかった。凍り付いたまま時が過ぎ、次第に冷静になって来た時には、既にもとの木彫りの像に戻っていた。
初めのように、格子を換えて素空の声が響いていた。夜中に無音の寺から微かな経が漏れて来たので、近くの檀家3、4人が何事かと寺を見に遣って来た。しかし、近付くにつれ何やら見てはいけないものを見るような気分になり、それ以上近付くことなく帰って行った。檀家達の目には、格子の中で2人の僧が秘儀を行っているように見えたのだったが、それは僧と言えども誰にでも成し得ない、まさに秘儀だった。
檀家達が帰って間もなく暗闇と静寂が戻り、2人の僧は一心に祈った。
空が次第に白けて来た時、開泉寺の伽藍を揺るがす地震が2回襲った。素空は経を
栄雪にも、守護神に魂が籠ったことが分かった。2人は顔を見合わせた後、微笑んでお互いを労った。栄雪は、仏師としての達成感がこれほど大きい感動をもたらすことを知らなかった。涙が出るほど仏への感謝が溢れて来るのだった。
そこに、庫裏から庄源和尚が駆け付けてひと言尋ねた。「素空様、今の地震は何事でしょうか?驚いて飛び起きましたが、本物の地震ではないような…?」
素空が言った。「5月12日払暁、開泉寺の守護神は魂を得て、この寺ばかりでなく
素空は、庄源和尚を格子の中に案内した。庄源和尚は未知の興味に誘われて格子の中に入って来た。すると、庄源和尚は驚いて、いきなり合掌して仏の加護を願った。栄雪は腰を抜かすのではないかと心配だったが、意外にも平然とした態度に驚いた。素空はこの様子を見て、庄源和尚には仏がいつも傍らにいたのだと安心した。
庄源和尚は吽形尊の格子を覗き、那羅延堅固の息遣いに触れた。
「素空様、私もやっと御仏の真の御姿に出会うことができました。更に精進を重ねて、栄雪に恥じない僧となりましょうぞ」
庄源和尚は、栄雪に向かって更にひとこと言った。「そなたが素空様に従うことは何と素晴らしいことであろうか。やがて、諸国行脚を終える時、開泉寺は常に御仏と共にあり、そなたを待っていることを忘れないでおくれ」
栄雪は胸を衝く感動を覚えた。父がこれほどはっきりと愛情を表現することなど、これまでなかったことだった。
この日、本堂で感謝の経を唱え終わると、早速、出立の用意を始めた。庄源和尚は突然のことに驚いたが、栄雪の説明を聞いて納得した。
「寺をでてどちらに向かわれますか?」庄源和尚が尋ねると、素空がすぐに答えた。「先ずは、
ちょうどその時、いつもより早くクメが遣って来て、すぐにひとこと言った。
「和尚さん、仁王様の手直しがすんだんだね。門を潜る時、目をギョロつかせて見るんだもん。とっても気味が悪かったよ。今朝の地震が関係あるんだろう?…ね?和尚さん?」
素空はクメの言葉を聴いて、その訳を考え始めた。『御仏の御召しが掛かっているのか?クメ殿の徳によるものか?…信仰心は既にお持ちの筈だ』素空の心に何とも釈然としない疑問が残った。このような心持ちになったことはこれまでになかったことだった。
薫風が清々しい1日だったが、風を追うように素空と栄雪は行脚の旅に立ち、庄源和尚とクメは山門の外で、2人の姿をいつまでも見送った。
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