真の御姿 その2

 この日は、新しい賄いの小女が初めて料理を作ったので、3人の僧と小女の4人で夕食の膳を囲んだ。小女の名はクメと言い、亡くなったツルの近所に住む年若いご新造だった。

 「ム!ウヘー!」いきなり栄雪が声を上げた。4人が夕食の膳に箸を付けてからすぐだったので、皆箸を止めて栄雪を見た。

 栄雪が言った。「申し訳ありません。おクメさんには何とも申し訳ないことですが、この吸い物のお味が妙でしたので、つい声にでてしまいました」

 すると、クメが言った。「これはこれはすまないことで…塩加減を間違って、折角とった出汁を半分以上捨てることになりまして、まだからかったので色々入れてしまいました。普段はこんなことはないんだけど、初めての台所で舞い上がっていたんだなあ…」

 クメはあっけらかんとした顔付きで答えて、素空の椀を横目で眺めた。素空と庄源和尚は笑ってクメを眺めたが、栄雪はクメの視線の先を見遣って言った。「素空様は何ともなかったのでしょうか?」

 素空は微笑みながら答えた。「私は飢饉の頃、ありとあらゆるものを口にし、腹を満たしたことがあるのです。それ以来、食に対して不平や不満を語ることがありません。本当に腹が減った時は、何も言わずに喜んで食べられるものばかりなのです。口が奢ることは、ややもすると心の奢りになりかねないのです。心して食されませ」

 素空の言葉は、栄雪ばかりではなく、庄源和尚やクメまでも感心させた。

 クメは思った。『近所で噂している天安寺てんあんじから下ったばかりの若い僧とは、やっぱりこのお坊様のことで、一念いちねんさんじゃなかったんだ…』クメが、素空を見る目が変わったのはこの時からで、そのことがハッキリと実感できたのは、帰り掛けに本堂の方から聞こえて来る経のせいだった。

 境内を通って帰ろうとするクメの耳に、素空の経が届いた時、何とも言えない心の安らぎを感じ、胸奥に沁み入る心地よい響きは思わず帰宅の足を止めさせるほどだった。暫らく足を止めて聴き入っていると、幸せが心の中いっぱいに広がる不思議な心持ちを感じた時、フッと亭主の顔が浮かび、いそいそと家路についた。

 クメは家に帰ると、早速素空のことを亭主に話した。亭主の名は稲蔵いねぞうと言い、信心深い男だった。稲造は話を聴くとクメに言った。「おいらもまたお寺に出掛けて、そのお坊様のお経をゆっくり聞かせてもらいたいや」稲蔵は素空の噂を聞いていたが、クメに改めて言われると、興味が湧いて来るのだった。

 クメは、亭主が寺に来ることを喜び、自分が持っている幸せな経験を共感して欲しいと思った。

 稲蔵は桶屋で、棺桶も作っていたので、寺の和尚や檀家の世話役とも懇意にしていたし、仕事柄信心深くなって行ったのだった。

 稲造とクメが所帯を持ったのは5年前で、子はなかったが円満だった。ツルの代わりに賄いを、との頼みを引き受けたのは亭主の稲造だった。

 翌日、昼食の支度をしにクメが寺に遣って来た。庫裏に向かうと下着以外の衣装の洗濯と、庫裏と客間の掃除をした後、料理に取り掛かった。食事の時、栄雪は申し訳なさそうに箸をとったが、吸い物を1口吸うと驚きの声をあげた。「これはとてもおいしいです。おクメ様、昨日はご無礼申し上げました。どうかお許し下さい」栄雪の言葉が終わらないうちに、クメがあっけらかんとして言った。「一念様はそんなことを気にしていたのかね。今日のこの吸い物が美味けりゃそれでよいではないかね。明日はまた昨日のような失敗をしでかさないとは言えないよ」

 クメは素空を見て言った。「昨日は素空様に取成してもらったことで帳消しだと思っていたのだよ。改めて言われると、却って困るじゃないか」

 素空と庄源和尚は顔を見合わせて笑った。

 食事が終わると、クメはそそくさと帰って行ったが、申の刻さるのこく(午後4時)になると、また遣って来て洗濯物を取り込み、夕食の準備を始めた。

 夕食の時刻が近付く頃、3人の僧は本堂に集まり、昨日手直した本尊の文殊菩薩を祀って経を唱え始めた。経が終わると、クメが3人を呼びに来て、その文殊菩薩を見た時、驚いて言った。「あれまあ!菩薩様が何かおっしゃっていなさるよ」

 素空はハッとした。『おクメ様には真の御仏が見えるのだ。今のお言葉も聞こえたのだろうか?』素空はそう思いながらクメを見た。クメは、文殊菩薩の声を聴こうと身を乗りだしているところだった。しかし、文殊菩薩の口はもう動かなかった。

 素空は、文殊菩薩の言葉を伝えるべきか否か迷っていた。結局、クメには伝えまいと決めた。1年後のこの日にもう1度開泉寺に来ればよいことで、万事は仏の計らいのうちにあるのだと思った。

 庄源和尚と栄雪も、クメの言葉に敏感だった。栄雪は、『クメ殿にはいとも簡単に真贋を見分けられるのに、僧と言えども見分けることが困難なのは何故だろうか?』

 庄源和尚は打ちひしがれて、ものも言えない体だった。自分には到底できないことを、クメに難なく見極められるとは、驚き、落胆させられるばかりだった。

 しかし、庄源和尚はこの日を境に一心に経を唱え、仏の姿を求め始めたのだった。やがて、徳僧と檀家衆に誉めそやされるほどになるのだった。

 夕食の膳に箸を付けた3人の僧は、示し合わせたように一斉に吸い物をすすると、『ウマイ!』と言ったので、クメはプッと噴き出して笑った。

 この頃から、4人は何のわだかまりも持たずに接するようになった。

 クメが来てから3日ほどした時、亭主の稲蔵が商売物の手桶を3つ持って開泉寺に遣って来た。目的は勿論、素空に会って、ありがたいお経の声を聴くことだった。

 クメはこの日、稲蔵の分も作って夕食の膳をこしらえた。

 栄雪は、稲蔵の作った手桶を眺めながら、思い出したように庄源和尚に尋ねて言った。「父上、手桶と言えば母上の金の手桶のありかを訊くのを忘れておりました。一体どこにお隠しになったのですか?」

 庄源和尚が答えて言った。「5年前に母上の亡骸と共に地中深く埋めたのだよ。母上が大切にしていたのだ、わしは墓を暴かれることを恐れ、死んでも口を割らぬと誓ったのだよ。あの女は毎日執拗に責め続け、わしは意識を失いそうになったが、誓いを破らなかったのだよ。いずれ死んでいたことだろうが、素空様とそなたのおかげで9死に1生を得た思いだよ。まことにありがとう」

 栄雪は、父がどんなにか母を愛していたのか今になってよく分かった。

 栄雪が言った。「父上、私はどうやら誤解していたようです。あの妖異が父上の後妻と申した時、疑うことなく信じたのです。まことに申し訳なく存じます」

 庄源和尚は、栄雪に微笑みながら言った。「何も気にすることはない。親子の間はそのようなものだろうよ。同じ僧であればなお更、わしの至らぬところを見て、そうなるまいと思って修行したのであろう。わしを避けているうちに、わしの真の姿をも曲げてしまってもおかしくないことだよ」

 栄雪は、父の姿をこれほど深く受け入れたことがなかった。嫌っていた父の一面もそれなりに意味のあることのように思えて来たが、そうなると、父のすべてが理解できるようになった。

 夕食の後、5人は膳の前に座して経を唱え始めた。素空の声は胸奥を揺り動かし、稲蔵とクメの心に沁み込むように伝わった。稲蔵は、クメが言っていた言葉を実感した時、信じていたことを素直に受け入れることができた。この日は、稲蔵夫婦と僧達の顔合わせで、檀家の中でも信心深い者達が時折このような場を持つのだったが、この日は稲蔵が早く実現を望んだことだった。

 稲蔵は寺に来てよかったと、心から思った。様々なことを話したが、特に栄雪の言う言葉に興味を引かれた。栄雪は、天安寺での素空の行動を具に話して聞かせたのだが、稲蔵には素空が益々近付き難い存在になるばかりだった。

 夕食が終わり帰途についた。稲蔵とクメは宵に並んで歩くことがなかったので、何故かしら心が浮き立って、晴れやかで清々しかった。

 2人は道すがら、素空のことを話題にしたが、その果てには仏の世界が繋がることを実感していた。「まるで仏様みたいなお方だね」稲蔵はにこやかに頷いた。

 信心深い夫婦は、夫婦になる前のように新鮮な思いで、手を取り合って通りに消えて行った。稲蔵とクメが所帯を持って5年が過ぎて、そろそろ子ができないのかも知れないと諦めかけていた頃だった。この日は就寝前に、いつものように仏壇に向かい、いつもより念を込めて祈った。目を閉じて経を唱えるうちに眼前に仄かな金色の輝きを感じて2人が目をあけると、変わった様子はどこにもなかった。2人は顔を見合わせ、同じように感じたことを認めるとニッコリ笑って不思議な体験だったと頷き合った。

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