栄雪の帰郷 その9
桜の花びらが舞い散り、若葉が芽吹き始めた頃、庄源和尚は正気を取り戻し、素空に感謝した。1月前に栄雪から手紙で知らされた、素空と言う類稀なる僧を間近に見て、その神々しさに圧倒されたのだった。
庄源和尚はありがたさと、恥ずかしさで消え入りたい気持ちだった。「御仏像がすべて真の御姿を写していないとは、未だに信じられない思いであり、
庄源和尚は続けて言った。「更に御仏像の手直しまでして頂くとは、まことに感謝の言葉もありません」
庄源和尚は、栄雪が心酔するのは当然だと思い、天安寺を下りた後、素空と諸国行脚をすることに反対しなかった。父と子の会話は毎日の日課のようになり、栄雪が天安寺に上がる前、開泉寺で過ごした間に交わした言葉を、ほんの数日で上回るほどだった。
庄源和尚の容態が少し良くなって来た時、栄雪は思い切ってイネのことを訊いてみた。「父上、つかぬことをお伺いしますが、イネとはどのような関わりでしょうか?私には後妻に入ったと申しておりましたが、今考えると不審な点もあり、父上から
庄源和尚はそこまで言うと暫らく息を整えて話を続けた。「イネが来て3日経った頃、賄いや奥向きの世話をしていたおツルさんが急に亡くなったと聞いて、代わりにイネが暫らく働いてくれたのだよ。今思えば、自分がこの寺に残るために殺し、手桶を手に入れるまで寺に住み続けるつもりだったようだ。わしがあの女に疑いを持ったのは、わしのいない時に乙念を誘惑していたからだった。後で乙念に聴いたのだが、あの女は金の手桶はどこにあるのかしつこく訊いて来たそうで、乙念が知らないようだと分かると、今度はわしに何やら術を掛けたようだった。あの女が来てから10日経った頃から言葉を発することが嫌になり始め、このままではいけないと思って祠に不審なことがないか、乙念に探らせたのだったが、乙念には悪いことをしてしもうた」庄源和尚は涙を拭いながら更に語った。「その日の夜、乙念の帰りが遅かったので、あの女に訊くと、たちまちわしは金縛りにあってしまい、毎日毎日手桶の在処を訊かれたのだ。10日ほど自分でもあちこち探し回っていたようだが、本堂の御仏像も手に取って見たらしく、まさか妖異だなどとは思いもしないことだったよ」
庄源和尚は涙にくれて乙念を思った。乙念は、素空と栄雪によって祠の前で
庄源和尚は、栄雪との会話の中で、イネが何故金の手桶に執着したのか分からないと答えたが、執着の余り2人を殺し、我が身に苦しみを与えたことを不思議に思った。栄雪がそのことを話すと、素空はいとも簡単に答えて言った。「残念なことに、お父上は御仏にのみ向かって生きて来られなかったからです」
栄雪は『それは何故か?』と問い掛け、素空が答えた。「1つに僧になってより伴侶を求めたからです。御仏のみに向かって生きる身には、世俗の一切が無用になるのです。とは申せ、栄雪様を生み育てて頂いたのは、私にとって大きな喜びですが…」そう言うと、栄雪に微笑み掛けた。
素空は更に語った。「次に、お父上が僧になってより今日まで、己に厳しい
栄雪は言葉もなくうなだれた。素空が語ったことは、自分が嫌って来た父の一面を見事に指摘していたのだった。これほど打ちのめされなければ、父の弁護などしなかっただろうが、栄雪は言っておかねばならないと感じた。
「素空様、お言葉を返すようですが、父は一生懸命生きて参りました。檀家の信頼も厚く、お勤めに手を抜くようなことは一切ありませんでした」
素空は、栄雪に微笑み掛けると厳しい目をして言った。「栄雪様、私が斯様に申せば、お父上を庇うことは実によいことです。しかしながら、栄雪様の心の隅にあったお父上への反発は一体何だったのでしょうか?それは小さな罪の種でしょうから、悔い改めることです。しかる後に、冷静に私の言葉に耳を傾けると、私の言葉をお認め頂けるかと存じます」
栄雪は考えた。『素空様は帰郷の道すがら、私が言った父への反発心をお咎め下さったのだ。今、私が庇わなかったら、素空様はそれで済まされたのだろうが、私の心の矛盾が魂の幼さから生まれたことだったと気付かされました』
栄雪は言った。「素空様、私は大人の心を持っていなかったのです。そのことに初めて気付くことができました。ありがとうございました」
素空は微笑みながら言った。「左様です。大人の心とは、己を一人前の魂に育て上げることなのです。さすればどのようなことがあっても、父母への忠孝を損なうことなどありません」
栄雪は、素空に遠く及ばないことの1つに、我が身の甘えた心を捨て切らなかったところにも原因があるのだと思った。思えば、素空は人に優しく、仏の慈悲を身を以て現わしているのに、己自身には何時如何なる時も厳しいばかりだった。
栄雪は、フッと素空に問い掛けた。「素空様は何故ご自分に厳しいのですか?」
素空は、栄雪を見て微笑みながら答えた。「私は既に
栄雪は絶句した。これ以上尋ねることは我が身の未熟を晒すことになると思った。
素空は緩やかな口調で語り掛けた。「親が1人ひとりの子供の行く末を案じ慈しみ、子が親の平安を望み従うことは、古来より人に与えられた美徳なのです。親も子も、我が身の不心得で道を外すことがないようにいたさねばなりません」
素空の言葉は、栄雪の心に深く響いた。
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