栄雪の帰郷 その8

 素空は経文を開いて看経かんきんした。経を唱えながらジッと思いを巡らし、結論を求めた。やがて、経を終えてほこらの中を覗き見ると、中には一体の玉が金色こんじきに輝き、ご神体であることを示していた。祠に向かって右手に一体のきつねの石像が鎮座し、向かって左手には平らな土台の石があるだけだった。

 栄雪が言った。「ここは、私が子供の頃の遊び場でした。近所の子供達もずっと以前から最近まで、ここを遊び場としていた筈です。乙念おつねんがこのように長く見付からなかったとすると、人を寄せ付けない何らかの訳があったに違いありません」

 素空が思いのうちを語った。「栄雪様、子供ばかりでなく大人達も含めて恐怖に怯えることがこの祠近くで起きたのでしょう。人々が恐れる原因を探るようお父上が乙念様にお命じになり、その正体を知った時に殺められたのではないかと存じます。いずれにしても、イネが妖異であることは間違いなさそうです」

 素空がそう言った時、階段の下で声がした。「ほう、私が妖異と言うのかえ?」

 栄雪はドキッとして振り返ると、イネが真っ白いひとえをまとい、耳の下まで紅を引き、ニンマリと薄ら笑いを見せながら階段の上まで登り切っていた。

 栄雪はこれほど不気味で恐怖を駆り立てるものに出会ったことがなかった。さっきまでのイネはハッとするほどの美貌をそなえていたが、今ここにいるのは間違いなく化け物だった。鼻の下から唇まで弧を描くように前に突き出ているが、薄く尖ったような赤い線が唇の存在を示していた。

 栄雪は数珠を突き出して言った。「お前の正体は何か?祠に戻れば懇ろに供養して進ぜようぞ。悪事を成すは我が身を地獄に追い遣ることと知れ!」

 イネは薄気味悪い目で栄雪に一瞥いちべつをくれた後、何やら呪文を唱えて精一杯立ち向かう栄雪をいとも簡単に金縛りにした。

 イネは栄雪に近付くと、頬を舐めるような仕草をして囁いた。「お前もこの坊主のように生きながら食い漁ってやろうかえ?それともこのまま息絶えさせようかえ?」

 それから、素空の方に目を転じて言った。「お前は痩せて喰らうところも少ないようだから、あの小女のように頭を石で叩き割ってやろうかぇ?フフフフフ、ワハハハハ。考えるだけでも愉快だわえ」

 イネは恍惚とした表情で、暫らく素空の顔色を窺ったが、素空が表情を崩さなかったので、急に怖い目付きで睨み付けた。

 栄雪は金縛りになってはいても、口以外の機能は正常に働いていた。イネが顔を近付けた時は、死ぬほどの恐怖を感じていたが、今はそれどころの騒ぎではなかった。

 『このままでは素空様が取り殺されてしまいかねない』栄雪は必死だった。

 『何んとかイネの気を削がねばいけない』栄雪は心の中でイネに念を送ったが届く筈もなかった。

 イネは、素空の2間前で前屈みになって攻撃の姿勢をとった。手には拳ほどの石が握られ、小女と同じやり方で素空を打ち殺そうとしていた。「人になると重い石も握ることができるし、箸も使え、顔も洗えるんだわえ。便利なのだわえ…手とは…この石で死ぬがいい!」そう言うと、イネは更に間合いを詰めた。

 素空は数珠を右前方に低く構え、小さく経を唱えていたが、やがて聞き取れるほどの声となり、なおも声を上げて経を唱えた。

 イネは額に汗をかいて経の響きに耐えていた。力を振り絞ってやっと1個の石を投げた時、素空はその場で数珠をひと振りして、気合を込めて威喝した。

 「かーつ!本性いでよ!」

 素空は恐るべき気迫で一喝すると、更に畳み掛けた。

 「汝は祠の馬手めて(向かって左手)の守り神であった狐と見たが、如何にして乗り移ったか申すがよい。御仏の御慈悲を賜るよう取成して進ぜよう。さもなくば、一気に地獄の底に落ちるであろう!」

 既にイネが投げた石は素空の足元に砕け散っていた。イネは、素空の一喝で身動きの取れない状態になり、次第にもがき苦しみ始めた。もがきながら幾様にも顔貌が変化し、とうとう狐と同じ顔になって素空を睨み返した。

 「汝の名を申せ!」素空が言うと、狐顔の妖異が答えた。

 「我は伊吹山いぶきやまの大女狐で名は久瀬明蓮くぜみょうれんと申す」久瀬明蓮は苦しみ悶えながらも、何とか言葉を発した。

 「如何にして取り付いた?」素空は声を落として問い掛け、久瀬明蓮は途切れ途切れに答えた。

 「わしは金の手桶をひと目見た時から欲しくて欲しくて仕方なかったのさ。10年待ってあのお方に救われたのさ。あのお方は我が魂に体を与えて下さり、自由と力を備える稲荷明蓮いなりみょうれんに化身させたもうたのじゃ」

 素空は更に一喝した。「カーツ!それ以上は稲荷大明神いなりだいみょうじんの名を汚すばかりである。…して、汝を化身させた者のを答えよ!」

 久瀬明蓮は憎悪の目を素空に浴びせながら答えた。その瞬間、久瀬明蓮は血反吐を吐きながらその場に崩れ落ち、倒れた体を突き破るように1つの暗闇が現れた。

 素空は咄嗟にその暗闇と自分とを2つの結界けっかいに閉じ込め、暗闇をジッと見詰めながら経を唱え始めた。

 結界の中の暗闇が鬼と言うことは間違いなかったが、素空は地伏妖じふくようかそれとも他の鬼かを知りたかった。

 久瀬明蓮の消滅と同時に金縛りが解け、更に、素空が張った結界からも外れた栄雪は、祠の横手まで下がって素空と鬼の対決を見守った。

 「汝は名を何んと言うか?」素空が尋ねると、鬼は結界から出られないと知り、素空の気を逸らすために答えた。「我は地獄から逃げ延びた鬼、名は…」その時、素空の関心は鬼の名1点に集中し、結界の維持に気が回らなかった。鬼は素空の油断を見逃さなかった。

 結界を破る時、人の3倍はあろうかと言う巨大な手が結界の外に伸びだし、大きな呻き声と共に巨人のような体が結界を押し破り、どうにか外にでることができた。

 巨人は地伏妖と同様、結界を破ったために体に大きな傷を負ったように力を削がれ、苦し気に小さく固まり始めた。

 既に実体のないことは明白で、人の半分ほどの暗闇に変化したそのモノは、地下から吹き上げるような声で言った。

 「未熟な僧め、巖手妖がんでようを覚えておくがよい!」

 巖手妖と名乗った鬼は階段脇の藪の中に飛び込むように消えて行った。

 素空と栄雪は祠の周りを調べ直し、久瀬明連の痕跡を探した。すると、台座だけの向かって左手の地面がグラグラ揺れ始め、ドンと言うような重い響きを発して狐の石像が戻って来た。

 素空が言った。「これでお父上はお元気になることでしょう」




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