栄雪の帰郷 その7

 栄雪はどうしてこのようなことになったのか、まったく分からなかった。瑞覚大師ずいかくだいしの法要の知らせを持って近江13寺を回った時には、お役目と言う意識が強く、庫裏にいた賄いの小女に留守だった父への文を渡して帰ったのだが、不審なことは何も感じなかった。何かあったとするとその後すぐのことだろう。栄雪は考えた。『そう言えば小女は近くの百姓家から来ていて、名をおツルとか言っていたように思うが…』

 栄雪は眠りに就いた父親が心配だったが、急な変化はないだろうと思い、素空を誘っておツルの家を訪ねようと思った。

 その時、素空が本堂の祭壇で経を唱えてから行こうと言ったので、栄雪はその言葉に従った。イネは憮然としながら廊下に座って待っていた。

 素空は既に、この寺の仏像が何1つ本物でないことに気付いていたが、手を合わて静かに経を口にした。しかし、何時ものようにではなく、下手より下手な経をわざと唱えたのだった。栄雪は、素空の妙な行動は何か意味のあることだと察知したので、同じように下手糞な経を唱えた。

 2人が1本目の経を唱える間、廊下でイネが時折庫裏の方を気にするように見遣みやりながら、経が終わるのを不機嫌そうに待っていた。

 素空は2本目の経を唱え始めた時、いきなり普段の声で胸奥に響くようにした。

 栄雪は驚いたが、それ以上にイネが仰天して庫裏の方に向かって一目散いちもくさんに逃げるように帰って行った。素空はその様をチラッと横目で見ると、平然と経を唱え続け、やがて栄雪に目配せした。

 素空は本堂の祭壇の前で、栄雪に耳打ちした。『開泉寺の仏像は昔も今も変わりありませんか?変わりないようでしたら、庫裏に戻ってイネ殿が慌てて庫裏に戻った訳を訊いてみて下さい。その時、お父上の容態に変わりないか様子を見ておいて下さい」

 栄雪は暫らく仏壇を眺めていたが、スッと立つと庫裏の方に歩きだした。

 素空は祭壇の仏像をもう1度丹念に眺めたが、やはり本物の仏像は1つもなかった。そして、栄雪が庫裏に着いたのを見計らって3本目の経を唱え始めた。

 栄雪が本堂に戻って来たところで、2人は開泉寺からいったん離れることにした。開泉寺の額札を見ながら、素空が先ほどの耳打ちの結果を聴いた。

 栄雪が言った。「御仏像には数も御姿も以前と変化はないようでした。イネ様は不審な声に父の様子が気になり、慌てて庫裏に戻ったと言っていました。ところが、父は幾分顔色が良くなっていたように感じましたが、そうやって耳打ちされたことを調べている最中、イネ様の落ち着きのない態度に気付きました。一体どのようなことでしょうか」

 素空は、栄雪の問い掛けには答えず、小女の消息を尋ねることを急務と思った。

 栄雪は、おツルの里の近くと思しき百姓家を訪れた。おツルは2軒隣の家の出だったが、1月ほど前に、寺からの帰りに頭を打って亡くなったそうだ。

 栄雪は恐ろしいことを想像して震え上がった。

 「左様です。恐らくイネは妖異よういであると存じます。乙念様もおツル様と同様に、今は亡き人となっておいでのようです」素空の言葉で、栄雪の心配は更につのった。「それでは、父の命も危ういと言うことでしょうか?」

 「恐らく暫らくは大丈夫です。お父上には生きてもらわねば果たせぬ何かがあるのでしょう。寺に住み着いてまでも欲しいモノとは、一体何でしょうか?皆目見当も付きません」

 「ひょっとすると金製の手桶ではないかと思います。母が嫁入り道具として持参し、朝夕に洗顔用として使っていた物です。それが何故狙われたのでしょうか?」

 素空が尋ねた。「金の手桶が人の目に触れたことはありませんか?」

 栄雪は記憶の糸を辿り始め、1つのことを思いだした。

 「素空様、10年ほど前に、裏手のお稲荷いなりさんに供物くもつを供えるために、1度だけ使ったことがあります」栄雪は思い出してホッとしたのか早口で一気に語った。

 素空は、寺の裏のほこらを覗いて見ることにした。寺の裏手には朱塗りの小さな鳥居が幾つもあったが、ここが栄雪が言っていた裏山の祠に通じる石段だった。山裾の階段は崩れていたが、滑らないように注意して登って行くと、異臭いしゅうがだんだん強くなり、臭いの先に小さな祠の屋根が見えて来た。

 祠の前の平たい地面を見た瞬間、素空と栄雪は驚いてその場に釘付けになった。その醜い姿は目を覆うばかりだったが、やがて、意を決して祠の前に近寄った。

 栄雪が小さく言葉を発した。『乙念…』

 そこには、僧衣をまといながら体中を獣や鳥に食われ、ほぼ白骨化した乙念の変わり果てた姿があった。辺りに漂う異臭は人の死臭だったのだ。

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