栄雪の帰郷 その6

 素空と栄雪は、開泉寺に向かって歩きだした。店をでてからずっと、栄雪は口を利かなかった。素空は里に近付いたため無口になったと思ったが、実はそうではなく、『宗旨違いは供養にならぬ』その訳をずっと考えていたのだった。

 栄雪は、突然素空に語り掛けた。「話を蒸し返すようで恐縮ですが、何故宗旨が違うと供養にならないのでしょうか?」

 素空は驚いて栄雪を見た。栄雪がそのことをずっと考えていたなど、思いも寄らないことだった。

 素空は、栄雪の前に立ち止まると、笑顔を見せて言った。「栄雪様、これは悪いことを言ってしまいました。あの時の言葉は栄雪様の前でしたら取り消しても良いのです」素空は笑顔でそう言うと、今度は声音を変えて真顔で言った。「あのお2人の場合、ああ申すより仕方がなかったのです。お2人が夫婦めおとになった時、いさかいがあるとすれば亡くなられたお2人のことをおいてはありません。以前の宗派より、天聖宗に替わってからの祝言であれば、よい機会を得たと思いそう言ったのです」

 栄雪が言った。「それでは、本当のところは宗旨が違っても供養になるのですね」栄雪は確信を得たと思った。

 素空が答えて言った。「半分はそうですが、残り半分はやはり宗旨違いは供養にならないのです」

 素空は更に声音を変えて厳しい表情で答えた。「神仏が違う時は決してすべてを聞き入れてはくれないでしょう。ましてや、信じてもいない異国の神に何を願っても通じる訳がないのです。同じ御仏を信じて同じ経を読むのであれば、叶わぬことはないでしょう。何故なら、同じ御仏を祀りながら教えを新たにするのは、人がそうしたが故のことだからです。宗派、宗門の違いは御仏の望みである筈がありません」

 そこで、栄雪が言った。「そうであれば、以前の宗旨から天聖宗に宗旨替えをしても供養ができるのですね」

 素空がニッコリ笑って言った。「ですから、栄雪様の前では取り消すと申しました。しかし、あのお2人の前ではそう言う他に手立てがなかったのです。更に申せば、奥方は今後も亡くなられたお方のために祈り続けることでしょう。ただし、私の言葉でおおっぴらに供養をすることができなくなってしまいました」

 栄雪が言った。「それはお気の毒なことです」

 素空は重ねて言った。「お気の毒なことはありません。奥方は心の隅の消えない思いに忠実であり、新しい生活に区切りを以って入って行けるのです。それが奥方の幸せへの道なのですから」

 この時、栄雪は思った。「だから人がこの世で幸せになるよう、手を尽くすのが僧の務めなのですね」素空は、栄雪の思いに微笑むばかりで、栄雪を促すように開泉寺に向けて無言で歩きだした。

 2人は街外れの街道沿いに天聖宗・開泉寺と書かれた寺の前に立った。素空は山門を背にすると、鳳来山ほうらいさんの方を暫し眺めた。

 「素空様、如何なさいましたか?」栄雪の問い掛けに、素空が答えて言った。「楠材を探しに、鞍馬谷くらまだにまで行った折に目にした景色を逆に見ているのです。あのほんの一時いっときの景色の中に、栄雪様の思いが深く刻まれていたのですね…」

 栄雪は蓑谷みのだにでのことを思い出し、素空の律義なほどの思いに言葉をなくした。

 栄雪が言った。「あの頃は母が亡くなって日が浅く、里への思いが深かったためです。どうぞ、お気になさらないで下さい」

 この後、2人は山門を潜った。門内に仁王像が祀られ、仏敵の侵入を許さぬ仕草を呈していたが、素空が見るところ、これはどうにもならぬ張子の虎だった。

 栄雪は、素空が仁王像を紛い物だと見抜いたことに気付いた。今では栄雪自身もおぼろげに真贋しんがんを見極めることができるのだから、素空が見れば簡単に見極めが付くだろうと思った。

 「お恥ずかしいことです」栄雪が、素空に声を掛けた。素空は、栄雪に向かって立つと、微笑んで言った。「このようなことはよくあることです。志賀観音寺しがかんのんじの仁王像もそうだったように、世の中には多くの仏師がいて、多くの紛い物を本物と思い込んで彫っているのです。それが善と思って彫っているのであれば、黙って手直しするほかありません」

 素空はそう言うと、境内を抜けて本堂の前に立った。

 『この寺には異様な気配がするが、これは一体何だろうか?』素空は心の中でそう思った。額札に金文字で『湖南院こなんいん』と書かれ、大きな瓦屋根を持つこの寺は近在では珍しく、その創建には何がしかの由緒正しい謂れを持つように思われた。

 「ただ今戻りました。栄雪でございます。どなたかお出まし下さいませ」栄雪は声を張り上げて2、3度呼び掛けた。すると、庫裏の方からハッとするほど美しい1人の年増女が現れて、か細い声で用件を訊いた。女は透けるように色白で、細い体と、まるで表情を持たない冷たい顔には、ゾッとするくらいの気味悪さを湛えていた。

 栄雪は、この女は後妻に入った女だと直感した。父親は俗人と変わらぬような、ちょっと言えば考えの持ち主で、それが故に檀家には人気があるのだが、栄雪が嫌っているところでもあった。

 栄雪は名乗るとすぐに相手がイネと言い、後妻に入ったことを確かめて、父親と乙念おつねんと言う小坊主の所在を尋ねた。

 「私が来た時には、この寺にはお父様がお1人でした。既に1月ほどになりますが、乙念様の名を聞いたことは1度もないのですよ」イネはすました顔でよどみなく答えた。

 素空は黙って、このイネと言う女を眺めていた。

 イネは濯ぎの用意もせず、2人を本堂に上げ、祭壇の脇の廊下を真っ直ぐに進み、そのまま庫裏まで案内した。庫裏には栄雪の父で住職の庄源しょうげんが床に就いていた。

 「栄雪や、よく戻ってくれた。わしには もうすぐ お迎えが 来るで あろう。その前に 会うことが できて もう 思い残すこと は 何も ない…」そう言うと、庄源和尚は疲れたと言って眠りに落ちて行った。

 素空は庄源和尚の物言いに不自然さを感じ取っていた。和尚が言ったのではなく、言わされたような気に掛かる言い回しだった。

 父親の顔は以前とはまるで違い、瘦せ細った顔に目だけがギョロギョロ動いて回復の希望などないことが誰にでも分かるくらいだった。

 栄雪は、寺の様子が以前と変わらないのに、イネの存在だけが現実離れしているように思った。

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