栄雪の帰郷 その5

 素空と栄雪は近江八幡おうみはちまんで托鉢を始めた。街道の四つ角に立って一心に経を唱えると、道行く人が椀の中に小銭を入れてこうべを垂れた。斜向はすむかいに栄雪が立ったが、こちらは素空ほどお布施が入らなかった。

 「これでは3日のうちに飢え死にですね。素空様がおいででなかったら、きっとそうなります」栄雪は、素空に歩み寄りそう言って笑った。

 素空が言った。「これはいけません。商家の軒下で経を唱えてお布施を頂きましょう。言っておきますが、嫌がられているようならすぐにおやめ下さい。それから、時間の掛け過ぎはいけません。手短に回ることです」

 そう言うと素空は左を、栄雪は右を回った。

 素空は3軒に2軒の割合で寄進を受けたが、栄雪は10軒回ってもまだ何も頂いていなかった。しかし、次の店で思わぬことが起こって栄雪を驚かせた。

 栄雪は店の右側に寄ったところで経を唱え始めた。すると中から番頭のような恰幅のいい男が出て来て、1合の米と50文の銭束を寄進した。栄雪は驚いて思わず礼を言い、どうしてこんなに多くを寄進するのか尋ねた。

 男が言った。「以前山中で難儀していた奥様が、お若いお坊様に癒されたばかりでなく、商売もうまく行くようになったのです。天聖宗のお数珠をお下げのあなた様はどちらからお見えでしょうか?」

 栄雪が答えて言った。「天安寺から下りて来たところです。これから、この先の開泉寺かいせんじまで参るところです」

 男はハッとし、もしやと思い栄雪に尋ねた。「お坊様は3年ほど前に天安寺に上がられた希念様きねんさまをご存じではありませんか?年の頃は20才はたちくらいにおなりでしょうか、徳の高いことがお顔やお言葉に表れて、御仏のような御慈悲の心をお持ちのお方です。如何でしょうか?」

 栄雪はまたも驚いた。男に通りの向こうを指し示して、『希念改め素空様です』と告げた。

 「吉治きちじさん、奥に来てくれませんか」ちょうど中から声がして男は栄雪に、素空を連れて来て欲しいと頼んで中に戻って行った。

 素空は、栄雪から話を聴くと、その店の前で経を唱え始めた。素空の経は店の中に響き始め、時が止まったような静寂をもたらした。

 奥方が慌てて店の前まで出て来て、素空に深々と頭を下げ、軒先では失礼と言って母屋の方に上がってもらうことにした。

 「さあ、濯ぎをしておくれ。お坊様にお上がり頂くんだよ。ああ、今日は何んといい日なんでしょう…」奥方は有頂天だった。

 吉治は、奥方の喜びようを見て自分の心が弾みだしたように心地よかった。素空はその様子を見て3年前の山中での出来事をハッキリと思い出した。

 素空と栄雪は客間に通され、奥方と対座した。吉治は奥方の隣で栄雪の前に座ると、縁側の向こうに声を掛けた。昼時でもあり、栄雪の腹の虫が盛んにいていれば、昼食の用意をしない訳には行かなかった。

 奥方が言った。「暫らくしたら昼餉ひるげをお持ちいたしますので、もう少しお待ち下さい」

 素空は、奥方が話し始める前に仏間に案内してもらい、経を唱え始めた。素空の経は静かに仏間を満たし、灯明の輝きを揺らめかせ始めた。奥方は、胸奥に直接響く声に不思議な安らぎを感じ、3年前のことを思い出した。あの時は痛みに耐え切れず、この響きを心地よく味わうことができなかったが、今は心の底から癒されるのを実感していた。

 短い経が終わり客間に戻ると、昼食の膳が並べられていた。

 4人は暫らく無言のまま食べ物を口に運んでいたが、殆んど食べ終わると素空が初めに切りだした。

 「吉治様、その後のことをお聞かせ下さい」

 吉治は、時折奥方の顔を見ながら語り始めた。「頂いたおふだを持って店に戻って参りましたが、道中も帰ってからも、欠かさずおっしゃる通りにいたしまして、1年が過ぎました。奥様のお体は元のように良くなり、商売も順調になりました。すべては希念様、いえ、素空様のお陰です。まことにありがとうございました」

 吉治が言うと、奥方が続けて言った。「私は大恩を受けたお方に悪口を申し、お顔も存じ上げずこの3年を過ごしました。改めて心からのお詫びとお礼を申し上げます」奥方はそう言った後、吉治をチラッと見て言った。「私は、吉治さんに対しても大きな罪を犯していたことに気付かせて頂きました。3年の間に、このように繁盛する店にしてくれたのはこの人のお陰だと思っています。吉治さんに見限られていたなら、とうに潰れていたことでしょう」

 そう言うと少し口籠った後何かを言おうとしたが、吉治が制してから語り始めた。

 「奥様は、私を哀れんでおいでなのです。私がこの店の婿に入ることなど、世間が許す筈がありません。ここはそもそも亡くなられた旦那様のおたなで、ご親戚も黙って見過ごす訳がないのです。私は何度もお断りしているのですが…」吉治はそれっきり黙り込んだ。

 奥方は、素空に語り掛けた。「私は、吉治さんを哀れんでいるのではありません。1人の殿方としてお慕いしているのです。親戚には許しを得ており、口を挟む者などいないのです。亡くなったあるじは、吉治さんに店のすべてを委ねていると思います。どうかこの人を説得して下さいませ」

 突然の風向きに、栄雪は目を白黒させて驚いた。素空がこのような話にどんな結末を見出すのか気になるところだった。

 素空が尋ねた。「吉治様は、奥様をお嫌いでしょうか?」すると吉治が目を剝いて否定した。

 「それでは、この世で1番大切なお方はどなたでしょうか?…奥方の他にいらっしゃれば答えるべくもないのですが…」素空の問い掛けは巧妙だった。

 吉治は逃れられない問い掛けに、おずおずと答えた。「私には、奥様の他に大切なお者などおりません」

 素空は語り始めた。「すべての人は、御仏の前で平等なのです。僧と言えども、また一国の主と言えども、御仏の前では市井しせいのどなたとも上下の区別などないのです。御仏のみを見て生きる人なら簡単な道理なのです。吉治様が浄土をお望みなら、御仏の前ですべてを受け入れることができる筈ではないでしょうか?あなた様が区切りを設けているのは、人に向かって生きている証となり、奥方の申し出を断ることは、御仏の御慈悲に適わぬことなのです」

 吉治は、素空の前に屈服し、奥方は涙ぐみながらも喜びを露わにした。

 素空が言った。「先ほど仏間の見事な仏壇に2つの位牌がありましたが、嘉平様かへいさまとおルイ様のものでしょうか?」

 吉治と奥方は、素空が2人の名を3年の間忘れていなかったことに驚いた。

 「左様でございます。お札を取り出して位牌の前に置き毎日祈り続けて参りました。吉治さんも一緒にそうしてくれました。でも、1年ほど経った頃からお札の名前が薄くなり、今では何も書いていない白木のようになってしまいました」

 素空は暫らく考えて、奥方に言った。「菩提寺ぼだいじはどこにありますか?」

 素空は位牌が天聖宗ではないと知っていての質問だった。

 「はい、この先の開泉寺かいせんじです。もともとは揚明寺ようめいじと言うお寺でしたが、宗旨替えをいたしました」奥方は少し口籠って言った。

 素空は少し考えて言った。「では、位牌を揚明寺で供養して頂くことにいたしましょう。お2人が天聖宗の門徒として、共に信心をしているのであれば、亡くなられたお方とは宗旨違いとなり、供養にならぬことを申しておきます。更に、合意の上とは言え、お2人の今後のためには亡くなられたお方との決別がなければなりません。過ぎたことを振り返ることは大切ですが、このことばかりは未練を残すことがないよう断ち切ることです」素空が言った後、奥方はポツリとひと言呟いた。『おルイのことも忘れなければいけないのでしょうか?』

 奥方の声は、素空の心に届き、素空が慈愛に満ちた顔を向けて言った。

 「奥方にすべてを忘れよなどと申しているのではないのです。人の心の隅にまで口を挟むことはできません。新しい暮らしには、それにふさわしい礼節がありましょう。その障りとならぬよう、心してお暮らしなさることです」

 2人は素空の言葉に従うことにした。

 素空と栄雪は、土間に立って2人に別れを告げて店をでた。

 『栄雪は宗旨違いが供養にならない』と言った素空の言葉が理解し難かった。

 素空が、栄雪の疑問に答えて言った。「亡くなられたお2人は以前の宗旨による供養がなされ、揚明寺の墓所に埋葬されているのです。すべては以前の宗派のうちに弔い、亡骸は揚明寺の仏閣により堅固に守られ、外からの如何なる力も及びません。何より、み霊は既に浄土にあると存じます」

 素空はひと息吐いて更に語った。「宗旨違いは祈りが届く筈もありません。私が以前俗名を書いた札を差し上げたのは、既に戒名が書かれた位牌があると判断したからです。同じ経を読んでも、教えが違えば異教と同じです。供養は亡き人の信じた教えのもとで行うことが必要なのです」

 栄雪はなおも納得がいかない風情だったが、ここで踏ん張っても仕方がないと思い引き下がった。

 素空と栄雪は互いに笑みを向けて、開泉寺へと向かった。

 

 

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