栄雪の帰郷 その4

 翌朝、2人はお堂をでて良円りょうえんの生家に辿り着いた。

 近江八幡は大いに賑わっていたが通りでは旅の僧などには目もくれないほど気ぜわしく行き交っていた。栄雪は1軒の仏具商の軒先に立つと、店の者に声を掛けた。

 大きな看板に『仏壇・仏具 蓮屋はすや』と金文字で書かれ、たいそう繁盛しているようだった。

 手代の男が、栄雪に近寄り丁寧に用向きを尋ね、天安寺から来たと聞くと慌てて番頭に知らせた。

 番頭は愛想の良い好人物だった。天安寺からの僧と聞いて2人に駆け寄り挨拶すると申し訳なさそうな顔で言った。「あいにく主人は外出しており、奥様は病で床に就いているのですが、母屋においで下されば、奥様もお喜び下さいましょう。さあ、こちらで濯ぎをなされてお上がり下さい」番頭は無理やりではなく、上手に2人を誘った。

 2人は言われるままに店の隅から上がって、小女の後に付いて行った。

 中庭の先に障子が開かれた部屋があり、素空はそこが良円の母親の部屋だと思った。

 2人は先ず仏間に通され、暫らく待つように告げられたが、仏具商らしい見事な仏壇を前に、経を唱えられずにはいられなかった。

 小女は、2人の僧が天安寺から参ったと伝えた。良円の母親はカヤと言い、2人の子を成したが、兄は父親と一緒に商売で高野山こうやさんまで出かけていた。カヤは良円を溺愛し、その死を聞かされた時には後を追って死ぬのではないかと思うくらい嘆き悲しんだ。それから次第に体調を崩し、今では床から出られないほど弱っていた。

 カヤは天安寺の僧が訪ねて来たと聞くと、是非とも会いたいから身繕いをすませるまで客間で待っていて欲しいと伝えさせた。素空が仏間と思ったのは、仏具商の客間ならではのことで、日常使いの仏壇は寝室の隣にあったのだ。

 素空は客間の仏壇の前で経を唱え始めた。経は静かに客間を満たし、廊下を抜けてやがて開け放たれた障子を越えてカヤの耳にも心地よく響いた。カヤはハッとした。この声に乗って良円が帰って来るかも知れないと思った。

 「伊輔いすけ、伊輔が戻って来るかも知れません」カヤはそう言いながら小女に汗ばんだ寝間着を替えさせ、髪と顔を調えさせると羽織を肩に掛けながら客間に向かった。伊輔とは良円の出家前の名で、10年ほど前に栄雪の父が住職を務める寺に預けられたのだった。

 小女に手を引かれ、客間にカヤが現れた。栄雪が挨拶すると、カヤは懐かしそうに語った。「これはこれは開泉寺かいせんじ一念様いちねんさまではありませんか?よくおいで下さいました。伊輔が他界いたしました折には、丁重な文を頂きありがとうございました。私は2年経っても悲しみが覚めやらず、こうして床に就いたきり伊輔のもとに参る日を待つばかりです。我が身を情けないと思いつつ、やり場のない嘆きをお察し下さい」

 栄雪は言葉なく、奥方の言葉を聴いていたが、奥方が語り終えるとすぐに素空を紹介し、用件を語った。「こちらは素空様とおっしゃり、良円様が仏師として手解きを受けたお方です。そして、こちらは素空様が彫り上げたものを、良円様が所望し、臨終の時に浄土にお連れ下さった薬師如来様です。暫らくは枕元にお祀り下さい」

 栄雪は語り終えると、素空に言葉を掛けるよう促した。

 素空は、奥方に向かって微笑むばかりで、何も語らなかった。奥方は骨箱から目を逸らさなかったが、良円が所望したと聴いて視線を薬師如来像に向けた。暫らく如来像を見ていたが、ポツリとひとこと言葉を漏らした。『如来様が、あの子を浄土にお連れ下さったとはまことのことでしょうか?』

 カヤの言葉は聞き取れないほど小さく、栄雪はもう1度聞き直そうとしたが、素空がそれを制した。カヤの言葉は、素空の心にハッキリと届いたのだった。

 「お母上のご心中お察し申し上げます。良円様は、私と共に天安寺薬師堂てんあんじやくしどう阿形尊あぎょうそんを彫っていましたが、完成に今一歩のところで御仏に召されたのです。良円様は御仏の御降臨を見てお亡くなりになったのです。浄土を踏んだことは間違いのない真実なのです。また、生前我が身に御召しが掛かったことをご存じであり、実に潔いお最期であったと敬服いたしております。どうか、お母上もお心安らかにお過ごし下され、1日も早いご回復をお祈り申し上げます」素空が言うと、カヤが初めに栄雪に言ったと同じようなことを言った。「私はこうして床に就いたきり、伊輔のもとに参る日を待つばかりです。我が身を情けないと思いつつ、やり場のない嘆きを、お坊様はお分かりではないのでしょう。いっそ、伊輔を寺になど預けなければ良かったのかも知れません。どうせ死ぬのであれば、私の手元に置いておきたかった」

 素空は眉根を寄せて、カヤの目をジッと見た後、静かに語り始めた。「お母上は2年の間嘆き悲しむばかりで、御仏にすがることがなかったとお見受けいたします。既に良円様は御仏のもとへと召され、浄土において永久とわの安らぎを得ているのです。今仮にお母上が身罷ったところで、良円様のもとへなど参ることは叶いません。これからは御仏にすべてを委ねて生きて行くのです。2年の間の不信心はこれからの祈りによって赦され、心清く生きることで浄土への道が開かれることでしょう」

 素空は畳み掛けるように言葉を添えた。「お母上のために持参した如来様は、信じる者のためにあるのです。信じる心がない者にはどのような変化もいたすことがないと心得ることです」

 カヤは恭しく手に取り、如来像を枕元に祀ろうと思った。

 最後に素空が言った。「桐箱の中の遺骨は、御本山でお清めしてあります。お母上にお返しいたしましたが、今は対面することが適いません。毎日御仏と向き合って、心を良円様に近付けなければ亡骸に穢れが移ります。ちょうどご主人が帰られた頃、ご家族揃ってご対面下さい」

 2人は、カヤと共に経を3本唱えて帰ることにした。経がすむ頃にはカヤの容態が幾分良くなり、廊下まででて別れを惜しんだ。栄雪は廊下を引き返し、カヤの耳元で早口で素空のことを囁いた。「お母上はお分かりないでしょうが、この御仏は真の御姿を現しています。祈るうちにその印が見える筈です。そして、素空様は法力を備えた数少ないお方と言うことをお伝えいたします。信じることから始めなさいませ」

 素空と栄雪は揃って店をでて行った。カヤは2人が帰った後、小女を呼んで床に就き、如来像を手に取って暫らく眺めた。疲れがカヤの全身を緩やかに満たし、まどろみの中、如来像を懐に収めるとドンと言う衝撃が胸板に響き、カヤはそのまま気を失った。

 カヤはその日の夕方まで3時みとき(6時間)ほど眠っていたが、目覚めた時、体が軽く気分が良くなっていることに驚いた。そして、カヤは少しずつ前向きに歩み始めた。

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