栄雪の帰郷 その3

 素空と栄雪は石部いしべをでて暫らく歩き、かがみと言う川を渡れば、すぐその先が近江八幡おうみはちまんと言うところで夜を明かすことにした。

 素空が言った。「栄雪様、お腹がすきましたね。途中で托鉢をするべきでした」すると栄雪は、誇らしげに素空を見て背負った荷物を解き始めた。

 「素空様、これがあれば凌げましょう」栄雪はそう言いながら握り飯2つに目刺し2本と漬物の入った包みを差し出した。

 素空は驚いて言った。「栄雪様、女将さんに作って頂いたのですか?」

 栄雪は待ってましたと言わんばかりに語り始めた。「素空様とご亭主が話をなさっている時に、女将さんにお願いしたのです。『今日は先を急ぐので托鉢できません。申し訳ないが弁当をお作り頂けないか』とね。できたものを帰りしなにそっと頂いたので、素空様が気付くことはないと思っていました」栄雪は話し終えると悪戯っぽい目を素空に向けてニンマリ笑った。

 素空は、栄雪の要領の良さを初めて知って意外に思う一方、自分のウッカリした面を補ってくれる大切な相棒に感謝した。

  素空はお堂の中にあった火鉢に薪を入れ、火を点けた。火が点くと堂内は一変した。誰が寄進したのか分からなかったが、5体の仏像が異様な姿を呈していた。

 一体ずつ慎重に観察して、2体目の羅刹らせつに目を向けた時、思わずハット驚いた。3体目も同じ作者による夜叉やしゃだったが、その右側にある2体を見た時、素空の鼓動は高鳴り、諸国行脚の大きな目的の入り口に立ったような喜びを感じていた。

 素空が見るところ、他の3体は制作年代が少しずつずれているようだが、羅刹と夜叉だけは最も古く、ほぼ同一の年代のようだった。

 素空が言った。「栄雪様、この羅刹と夜叉は恐らく仏師真空様ぶっししんくうさまの手によるもので、右側の2体は仏師虚空様ぶっしこくうさまの手によるものと思われます。虚空様の消息を辿ることは私の行脚の大きな目的の1つです」素空はこの時、3人の仏師の存在に気付いた。右側の2体は12神将の中の宮毘羅大将くびらたいしょう毘羯羅大将びからたいしょうで10年ほどの差があるものの仏師虚空の手によるもので、初めの1体に戻って検分し始めた。この1体だけは何か腑に落ちないと感じていたのだった。

 「素空様、一体如何なさいましたか?」栄雪の問い掛けに、素空は我に返って答えた。「栄雪様、こちらの2体は真空様の彫り物に間違いありません。彫り手の癖を見事に消して、真の御姿を現しておいでです。そして、右側の2体は虚空様の手によるものと思います」素空は4体の仏像を眺めながら、目に涙を浮かべていた。

 栄雪は、このような素空を見るのは初めてで、想像できないくらいの大きな喜びに満たされていることは疑うべくもないようだった。

 やがて素空は1番左の閻魔天えんまてんの姿を眺めた。羅刹や夜叉より新しく、それを彫り直して真の姿を現していた。ここで、素空は不可解なものを発見した。この像だけは足元に『堺在さかいざい仏師卯慶ぶっしうけい』と記されていたのだった。

 素空は、卯慶と言う仏師が本物の彫り手なら、売名のような額札を付けているのが気になった。『このようなことをする者が、かくも美しい御姿を彫り上げることができるとは…』素空はそう思いながら、12天部の中の閻魔天をしげしげと眺めた。どこかに記憶を呼び覚ますような雰囲気を持っていて、素空は次第に引き付けられて行った。

 栄雪が言った。「何かご不審な点でもおありですか?」

 素空はその時、頭を殴られたように驚いた。「栄雪様、これは我が師玄空が彫ったものですが、半分はその師虚空様の手直しによるものです。初めはどなたの作か分かりませんでしたが、迂闊にも、慶派の卯慶と申す仏師の手に乗るところでした」素空はそう言った後、厳しく言い放った。「この額札は取り外し、火鉢の焚き付けにいたしましょう。仏師の名を汚す不届きな者です」

 素空は、玄空・虚空・真空と3人の仏師の因縁を垣間見て、2つの疑問に突き当たった。1つは、玄空大師が天安寺に上がった後、1度も虚空に会っていないし、消息も知らないと言っていたことだった。もう1つは、何故このお堂にこれほどの仏像を祀ったのかだった。

 薪は火鉢の中で赤々と燃えだし、5体の仏像を生きているように揺らめかせていた。

 栄雪は握り飯を火で炙り、温めてから素空に渡した。2人は遅い夕食を摂ると夜の勤めをして横になり、すぐに深い眠りに落ちて行った。

 栄雪は夜中に妙な夢を見て目覚めた。1人の仙人せんにんが素空に妖術ようじゅつを伝授していたのだった。仙人の顔は定かでないが、目付きの鋭さと、深い眼差しの中にこの男の知力が表れているように思った。栄雪はその場を覗き見ていることを仙人に気付かれ、追われることになったが、逃げても逃げても、追って来る仙人にいよいよ囚われそうになった時、夢から覚めた。

 全身汗まみれで、現実のことのように恐怖を味わったが、フッと周りを見渡すと、5体の仏像が金色に輝き、呼吸し筋肉を躍動させていた。栄雪は世にも恐ろしい仏像の姿を今初めて知ったような気がした。薬師堂や観音寺の仁王像を見ても、このように生々しく動いてはいなかったのだ。怖さの余りジッとして心の中で経を唱え続けたが、気配が一向に去らないのに困り果て、隣に寝ている素空を揺り起こした。

 素空が目覚めてから、栄雪はことの次第を問われるままに答えると、素空がニッコリ笑って語り始めた。「薬師堂や志賀観音寺の仁王像も、このように生きておいでです。残念なことに、栄雪様に見えなかっただけなのですよ。今こうして見ることができるのは、御仏の何らかの意図が御有りなのか、栄雪様が悟りに近付いた証と言うことができます」

 栄雪は、素空の言葉に少し気色ばんで尋ねた。「私が悟りに近付いたのかも知れないのですか?それでは、御仏の何らかの意図との違いを見極めるのにはどのようにすればよいのでしょうか?」

 素空は、この分では栄雪が悟りに近付くのはまだ先のようだと思いつつ、キッパリと答えた。「それは簡単なことです。栄雪様が背負って来られた良円様りょうえんさまの薬師如来像を見ることです。今悟りに近付いておいでであれば、ただの木彫りにしか見えないと言うことは絶対にないのです」

 栄雪は喜び、包みを開いて如来像を取りだすとすぐに仕舞い込んだ。「私が悟りに近付くのはずっと先のようです」そう言うと急に元気をなくした。

 素空が言った。「栄雪様、弱気になることはありません。悟りは一瞬に得られることもあるのです。その時まで御仏に適う生き方をすれば良いのです。悟りとは求めるものではなく、与えられるものなのです。ですから、一瞬にして悟りを開くことはあるのですよ」素空は、優しい眼差しを栄雪に向けた後、何やら深く考え始めた。

 栄雪は、素空が考えごとをしていると知って、横になって目を閉じた。

 暫らくして、栄雪が言った。「一体何をお考えになっていたのでしょうか?」

 素空が答えた「どうやら虚空様は天安寺に上がる前に彫った師の仏像の中から、閻魔天だけを摂津せっつから持ち込んだようなのです。如何なる子細かは分かりませんが、このお堂には虚空様にしか分からない秘密があるようです」

 素空はそう言うと目を閉じ、もう1度深い眠りに落ちて行った。

 

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