栄雪の帰郷 その2

 2人は大津おおつをでて、石部いしべに向かった。石部に着いたのは申の下刻さるのげこく(午後5時)を少し過ぎた頃で、早い店では灯明に火をともす頃合いだった。

 素空は1軒の飯屋に入って亭主の顔を覗いた。すると、愛想の言い35、6の女が出て来て注文を取った。素空は亭主が息災かどうか尋ね、そのまま帰るつもりだったが、亭主がひと月ばかり病で臥せっていると聴いて見舞うことにした。

 店の5軒隣が自宅だった。

 素空が訪ねると、女将が言った通り病の床にあったが、素空の顔を見るなり起き上がって挨拶した。「これはこれは、希念様ではありませんか。このようなむさ苦しいところにわざわざおいでとは、一体如何なさいましたか?」亭主は息が苦しいのを抑えて言った。

 「御本山での修行を終えて、こちらの栄雪様と近江八幡おうみはちまんまで参る途中、ご主人に受けたご親切を改めてお礼申すつもりで立ち寄ったのです。ご主人こそ、あれほどお元気であったのに、一体如何なさいましたか?」

 素空が尋ねると、亭主は力なく今日までのことを話し始めた。「実は、希念様が描いて下さった絵のお陰で、連日繁盛し続けました。小男、小女併せて3人を雇うほどの繁盛だったのですが、毎日忙しく働くうちに小女と祝言を挙げることとなったのです。宗助そうすけと言う連れ子と共に幸せな日々でした。小女と申しますのは店にいた女将のことで、宗助は14才で大坂おおざかの老舗料理屋で修行させております」亭主は息を切らせながらも、そこまで言い終えるとにこやかな笑みを素空に見せた。

 「ところが、この世のことはずっと上手うまくいく筈がありません。忙しすぎて手前の体がおかしくなったので、今は元気なうちに貯めた金子でどうにか凌いでいるのですが…女房にはとんだ貧乏くじを引かせてしまいました」亭主はやや自虐的な言葉を口にしたが、言っているほどの苦労はないように思えたのは、さっき会った女将さんがカラッとした気性のように見えたからかも知れない。

 素空はこの家の不幸は自分がお礼の気持ちとして描いた絵のせいだと思い、どうすればよいか暫らく考えた。

素空が考えを巡らしているところに、亭主が瑞覚大師ずいかくだいしのことを尋ねたので、咄嗟に栄雪が代わって答えた。

 瑞覚大師と亭主は同郷で、素空が本山に上がる時よろしく伝えると言い残して別れたのだった。

 亭主は瑞覚大師が即身成仏そくしんじょうぶつしたと聴いて涙を流して喜んだ。そして、栄雪は、瑞覚大師が亭主の伯父のことを懐かしんでいたと付け加えた。

 この時、素空はどうすればよいか答えをだしていた。

 「ご主人の病回復と、お店の程よい繁盛を願って、絵を描き直しましょう」

 亭主は恐縮して礼を言ったが、素空は1つの条件をだした。「ご主人が毎日欠かさず厨房に立って感謝の言葉を口にすることです」

 亭主はとんでもない条件に、慌てて否定しようとしたが、すぐに思い留まった。素空が命じたことに適わぬ訳がないように思えたからだった。

 その日、素空は亭主の前で経を唱え、亭主の病平癒を祈願し、店に戻ると女将さんに頼んで厚手の紙を用意してもらった。

 女将さんが用意したのは襖紙ふすまがみだったが、素空はその紙質が気に入った。

 3年前の懐紙かいしはボロボロで、何とか絵の内容が理解できるくらいだった。素空は入り口に3羽の雀を描き、次に厨房の毘沙門天びしゃもんてんの持つ稲穂には2羽の雀を描いて、併せて5羽にした。更に、厨房の客から見えないところに、薬師如来像を描いて亭主の癒しを願った。如来像は、嘗て素空が水口みなくちの旅籠で描き与えたものとまったく同じ物だった。

 この時、素空は薬師如来の真の姿を知らずに描いた3年前に、何故これとまったく同じ物を描くことができたのか、自分でも不思議だった。素空は『これすべて、我が師より頂いたものである』と思って来たが、瑞覚大師に献上した薬師如来像にしても、想像がこれほど酷似することが本当にあるのだろうかと心の隅で思っていた。素空が薬師如来像を描き終えた時、横で見ていた女将が関心しきりの風情で素空を眺めていた。

 素空が言った。「女将さん、如来様はご主人が良くなるまでこの場所にお貼り下さい。完治いたしましたら仕舞っておいて下さい。また、何かの病に罹った折に取り出すと良いでしょう」

 素空がそう言った時、女将は『亭主が再び厨房に立つことはないだろう』と悲しみを堪えて頷いた。

 素空が重ねて言った。「女将さん、どのように良いものをお祀りしても、信じる心、すがる心がなければ、御仏はお聴き入れ下さいません。心から信じ、心を尽くして願わなければ何も与えられません。ようございますね」

 女将はハッとした。素空が自分の心を読み取ったのではないかと思い、もう1度素空の顔を拝み見た。そこには慈愛に満ちた柔和な笑顔があった。女将は、亭主の病が良くなるようにこの如来像に毎日祈ろうと決めた。

 その日、素空はもう1度亭主のところに行き、経を3本唱え始めた。経は亭主の部屋を満たし、通りの向こうの店まで届いた。女将は経の後を声を出してなぞった。すると、厨房の如来像の光背が金色に輝き、墨の色を金色に変え始めた。

 女将は仰天してその場にしゃがみ込みながら、素空の絵を拝んだ。すると今度は入り口の雀が何十羽もの群れとなって厨房目掛けて飛んで来た。女将が驚くと、その先頭の雀が毘沙門天の稲穂に吸い込まれるように入り込んだ時、女将はしゃがみ込んだその場で気を失った。

 素空の経が3本目に入った頃には、亭主は自分の具合が随分良くなったと自覚した。素空がさっき来た時と比べると、立って歩けるような気分だった。

 経が3本終わって、亭主が言った。「素空様、お陰をもちましてすっかり治ったように身が軽く、気分も晴れやかになりました。試しに店まで参りたいと思いますが如何でしょうか?」亭主は、素空が何かの術を掛け、その術が解ける前に、厨房を覗きたいと思った。

 素空が言った。「ご主人が無理をなさらなければ、そうすることが良いでしょう。そして、女将様がどんなにかお喜びになることでしょう」

 亭主は嬉しさが込み上げ、晴れやかな気分で住まいの戸を開けて外にでた。ひと月振りの通りの空気が亭主の胸の中いっぱいに入って来た。

 亭主が表にでると、女将さんが駆け寄って手を添えた。すぐに、驚いた風に言った「お前さん、大丈夫かぇ?一体どうしたことでしょう?」そう言うなり、素空の顔を拝むように眺めた。「もしや、素空様のお経のお陰でしょうか?」

 素空は首を横に振り、声音を変えて言った。「お2人が、御仏に心から願うことで御慈悲を以って御聴き入れ下さるのです。これからも、毎日朝夕欠かすことなく経を唱え、感謝申し上げることです」

 やがて、亭主と女将は店先で深々とお辞儀をし、礼を言って素空と栄雪を見送った。

 次の日も、また次の日も素空のじゅつは解けず、亭主と女将は、素空と栄雪の道中の無事を祈り続けた。

 

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