第3章 栄雪の帰郷 その1

 桜祭りから2日が経っていた。素空は太一たいちの家に向かう支度を始めた。栄雪の背には手土産の薬師如来像やくしにょらいぞうが背負われていた。

 松仁大師しょうにんだいしが1人庭先に出て、何かに手招きをしていた。見ると、志賀孝衛門しがこうえもん市衛門いちえもん夫婦と近くの檀家が見送りに来ていた。当然、賄いのおウスも見送りに来ていたが、素空は近寄ると言った。「おウス様、いつもながらおいしく頂きました。ありがとうございました。おウス様と五助様がお幸せでありますよう、御仏にお願い申しますので、五助様にもよろしくお伝え下さい」

 素空はお世話になった志賀の里の人々に別れを告げると、門前の仁王尊におうそんに何やら祈願して志賀観音寺しがかんのんじをでて行った。

 栄雪は、観音寺での松仁大師の行動を見て、里の父に思いを馳せた。母がなくなって5年近くになるが、身の回りの心配が先立った。僧としては俗人に近い人物だったが、松仁大師のように檀家には信頼が厚く、親しまれていた。

 フッとそんなことが頭をよぎったが、目指すは素空が草鞋わらじを編んでもらったと言う百姓家だった。素空が天安寺てんあんじに上がる前にどのようなことがあったのか、栄雪はずっと以前から興味を持っていた。

 大津おおつまではあと僅かと言うところで、素空の目に懐かしい風景が映った。

 近寄ると井戸を2つ持つ百姓家があった。子供の泣き声と、あやす声が聞こえたので、家の前で笠を取り声を掛けた。おかみさんがでて来て、素空を見るなり驚いた顔をして、すぐに中に戻って亭主を呼んだ。「お前さん、希念様きねんさまだよ!わざわざおいで下さったんだよ。さあ、早くでて来ておくれ!」

 亭主はでて来ると3年前と同じようににこやかに言った。「希念様、よくいらっしゃいました。その節は大変お世話になりました。おかげさまで暮らし向きも良くなり、子も授かりました。まことにありがとうございました」

 素空は2人が変わりなく息災でいたことを喜んだ。そして、変わったことは井戸が増えたことと、子ができたことで、実にめでたいことだと思った。

 亭主は、素空と栄雪を中に入れると、おかみさんが手桶を持って来て手早く濯ぎ始めた。相変わらずの手馴れた客あしらいだった。勧められるままに上座に座り、荷物を壁際に置いた時、栄雪の薬師如来像におかみさんの目が移った。

 「お坊様、こちらの如来様は希念様が彫られたのですね?」おかみさんの確信に満ちた声に、栄雪はハッとした。

 栄雪が言った「まさしくそうですが、こちらの僧は希念改め、素空様と申します。また、私の名は栄雪と申します。3年前に素空様が、お2人にお世話になったことは聞き及んでおります。また、天安寺の墓所に草鞋供養わらじくようをいたし、太一殿とお2人のために祈願していたこともご報告いたします」

 栄雪の言葉は2人の心を打った。

 亭主が言った「希念様は、素空様になりなすったのですか…もう3年になるのですね…」亭主は感慨深げに言った。そして、これまでのことを語り始めた。「素空様が御本山に上がられてから、すぐに深井戸掘りを始めまして、10日ほどでおっしゃる通りの5間3尺を掘り進むと大きな水脈に当たり、それ以上掘れなくなりました。頂いた金子で釣瓶つるべや縄を買い求め、使い始めますと毎年の米や野菜の取れ高が多くなり、おっしゃる通り病害虫から守られました。次の年の初めには太一の代わりでしょう、男の子が生まれましたので名を希一きいちとさせて頂きました。こちらの子は2人目なのです。まことにありがとうございます」

 亭主が礼を言うと、素空はすぐさま言葉を返した。「お世話になったのは私の方ではありませんか。後のことはすべて御仏のお計らいなのです。お2人が御仏の御慈悲に適うお方だったからでしょう。更にご信心なさいませ」

 素空はそう言うと、栄雪が持参した如来像を指し示して言った。「こちらは3年前のお礼の品です。ご家族の幸せを祈願して彫り上げたものですのでご仏壇にお祀り下さい」亭主もおかみさんも大いに喜んだ。

 素空は次の間に案内してもらうと、そこには見事な仏壇があった。見るからに素人の手作りだったが、1つ1つ丁寧に細工されていた。亭主は素空の言葉通り神棚を祀り、仏壇を座して目の高さよりやや高めに作ったのだった。

 素空が言った。「見事なご仏壇ですね。心が籠り、ご先祖や親しい人の供養を致すにはこれより良いものはないと存じます」

 すぐに素空の経が始まった。2人は3年前には分からなかった経の響きの不思議さを体験した。おかみさんは太一の面影を引きずって生きることを止めていた。毎日の子育てと、経を唱えるうちに分かったことがあったのだ。

 おかみさんが言った。「素空様、お経を唱えるうちに、人は死ぬために生きているようなものだって思ったんですよ。人は生まれたての頃に死ぬと必ず浄土に行き、年を取るたびに穢れて浄土を踏めなくなるのだってね。太一は浄土にいるのに、あたしが何を悲しんでいるのだろうってね。そう思うと生きている今、自分が太一のいるところに上がれるようにしないといけないってね」

 素空は感じ入って言葉を返した。「おっしゃる通りなのです。人はこの世の生をすべてと思ってはいけないのです。後の世こそが永遠の安らぎの場所で、この世はそこに至るまでの修行の場とも言えるでしょう。そのために、この世において御仏の御示し下さった道を幸福のうちに歩むことが何より大切なのです」

 素空は、栄雪と共に庭先にでて、出立の準備が整ったことを確認した。この時、亭主は井戸掘りの時のことを話し始めた。「素空様、お陰様で米も野菜も取れ高が5割増しになりました。一体何故なのかその訳をお聞かせ下さい」

 素空が言った。「ご亭主のお力と、御仏の御慈悲の表れでしょう。御仏は願えば必ず答えて下さいます。ご信心を続けることです」

 亭主が言った。「井戸を掘る時、大きな地下水脈に呑まれた加勢の若い衆がいました。幸い事無きを得て、今では上の田畑の入り婿となって幸せそうなのですが、もしや素空様が遣わした、その若い衆がそうなることまでお見通しではありませんでしたか?」

 素空はこともなげに答えた。「ここをでて暫らく歩いておりましたら、覇気はきのない若者がおりました。尋ねると、職もなくこのままでは乞食こじきでもしなければ生きて行けない、と申しましたのでこちらに井戸掘りの仕事があると教えただけです。その先は私には予想もできないことなのです。分かることは、その若者が善き人であると見て取ったことです」

 亭主は、素空が知らぬ素振りをしているだけだと思いながらも、それ以上は食い下がらなかった。例え、素空が為したことだとしても、仏の慈悲だとしか言わない人だと思ったからだった。

 栄雪は、おかみさんと立ち話をしていたが、フッと素空のことをもう少し詳しく伝えようと思い、手短に話し始めた。やがて、すべてを語り終えると、2つのことを付け加えた。「おかみさん、太一様の墓には毎月欠かさず墓参に訪れていたことは、初めに申し上げた通りですが、諸国行脚をするにあたり、地蔵菩薩を墓所に祀ったのです。そして、天安寺の墓所に参った僧達が、地蔵菩薩に額ずき経を唱えるようになったのです。太一地蔵と名付けられた地蔵菩薩を、多くの僧が参っていることをお知らせいたしたいと思います」おかみさんは頬に一筋の涙を流したが、以前のように取り乱しはしなかった。ただ、おかみさんの心の深いところに収めていた大切な心の扉を開いてしまった。

 おかみさんの心情を思いながら、栄雪の心は遥か昔の近江八幡に帰っていた。栄雪は微笑みかけて更に語った。「先ほどお渡しした観音様は本当の御姿なのです。素空様が昼夜の別なく彫り続けた逸品と言える御姿です。心を尽くしてお祈りすれば、苦難を凌ぐことができるでしょう。どうかお大切になさって下さい」

 おかみさんは、栄雪に感謝した。栄雪は、黙っていては気付かれないことがあるのだと思い、言うべきことは伝えるに越したことはないと思うのだった。その後は、おかみさんとたわいもない世間話をしていた。

 素空は、栄雪を呼んで出立を促した。それから、2人は晴れやかな足取りで大津おおつの街を目指して歩いて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る