桜祭り その6
桜祭りの宴席に、志賀孝衛門の風呂番のエツが挨拶に遣って来た。
「素空様、お申し付けの通り参りました。今日は、この先の親戚の家に泊めてもらうことになっておりまして、土産に奥様から握り飯をたんと頂いております」エツはよほど嬉しかったのだろう、おフサにもらった包みを大事そうに抱えながら、素空が懐から出した薬師如来像を眺めると、今度は涙にくれ始めた。
エツは、人に劣る言動から志賀家に奉公するまで、ずっといじめられ、このような人の情を受けたことがなかった。しかし、エツのすべてが人より劣るものではなかった。エツはいじめを受けながらも、決して心を穢すことがなかったのだった。
素空は、エツを見てひと目で読み取ったから、エツに対して謙虚だった。エツには仏の慈悲が注がれていると感じたのだった。
エツは、素空に礼を言うと
六助は、エツがもらった如来像を見て言った。「なんだ、まだでき上がってないじゃないか。どうせ頂くなら綺麗に仕上がったのがいいよな」六助は悪気はないのだが、思ったことを口にする憎めない男だった。
エツはそんなものかと思いながらも、もらった如来像を胸に抱いて親戚の家に急いだ。
小半時して親戚の家に着くと、早速握り飯の入った包みを開いて差し出した。親戚夫婦は涙して喜んだ。「こんな白い飯は滅多に食えないが、今日は
親戚は夕食の後だったので、夫婦で半分、子供に半分ずつ食べさせれると、残りは明日の朝食に取っておいた。その後、エツの母親のことが話題になり、素空の薬師如来像を見せることになったが、中彫りの如来像は、親戚の興味を引かなかった。六助が言ったように綺麗な仏像しか価値がないのだろうかと、エツは次第に心配になって行くのだった。
その夜、中彫りの如来像を枕元に置いて、母の病気回復を祈願した。エツにとっては中彫りであろうが、綺麗に仕上げられていようがまったく関係なく、素空に望んで頂いた大切な如来像だった。
翌朝、菜っ葉が入った雑炊ができ上がっていた。握り飯は1夜のうちに3倍にも、4倍にもなったように見え、5人が十分満足のいく朝食だった。
エツは親戚に礼を言うと、薬師如来像を丁寧に布に
エツは1尺(30cm)の仏像を帯で固めるようにして胸に仕舞ったが、親戚の家をでる時胸奥にズシンと重みを感じた。歩みを進め、隣町まで来た時ゴロツキに絡まれた。懐の薬師如来像を取り上げられた時、エツは大声で叫んだ。「志賀近辺で悪行を為すと御仏の罰が下りますよ!お返しなされ!」エツの必死の叫びは街道の脇道に消えて行った。
エツは暫らく歩いたが、大切なものを守れなかった自分の不甲斐なさを嘆き、路傍の地蔵菩薩に願った。「地蔵様、私のような不甲斐ない者はおりません。どうか御憐み下さい。そして、どうか如来様が無事にお戻り下さいますように」エツは一心に祈った。頬を伝う涙を拭きもせず、素空にすまないことをしたと詫びていた。
「折角お彫り下さった如来様を盗られてしまいました。どうかお赦し下さい。そして、如来様がなくてもおっかあの病が良くなりますように」
エツはトボトボと歩き始め、夕方近くになって里に辿り着いた。懐かしさが急に込み上げ、母の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、またしてもズシンと胸奥に重みを感じた。
エツは歓喜した。「如来様がお戻り下さった」
そのまま家の中に入ると、母は病床から身を起こし、エツを迎えようとしたが、既に母にはその力が失せていた。エツは涙し、母の枕元に
強烈な光は、やがて緩やかな揺らめきとなり収束し、そこには、素空が彫った中彫りの薬師如来像があった。エツは母の姿を見て驚いた。ぐったりとして微動だにしないその姿は、とても生きているとは思えないほどだった。
エツは涙を流して母を揺り動かした。『素空様には病の回復を願って彫ってもらうつもりだったのに…』エツは泣きながら必死に母を揺り動かした。
やがて目覚めた母が言った。『逸助じゃないか。帰って来てくれたんだね…』
エツは、母の声で我に返った。そして、これまでのことを母に語った。
母親が言った。「さっき光の中で如来様が現れたのだよ。逸助が来てくれたから、もう思い残すことはありませんと言ったら、如来様がおっしゃったのだよ」
《汝に姿を現したのは、素空の願いの通りに致すためである。汝が召されるのは先のことである。信心を尽くすが良い》
「ソクウって誰のことだい?」
エツはハッとした。母親が知らない筈の素空の名前を知っているのは、母が言ったことが真実だと言う証拠だった。
エツはソクウのことを素空と教え、特別な僧だと言うことを色々な話を挙げて聞かせた。
母親は瞬く間に元気になり、布団に座って話をしながら、時折、如来像を横目で見たが、何を思ったか如来像を手に取った。エツはそんなことをすると良くないと止めたが、母親は如来像を仏壇まで運ぶと恭しく祀って経を唱え始めた。エツも、母親の隣で、素空の薬師如来像に感謝の祈りを捧げた。暗く寒々しい家の中に明るい光と、暖かい風が吹き込んで来たような清々しい気持ちだった。
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