桜祭り その5
志賀観音寺の厨房で、桜祭りの後に残ったのは檀家代表の5人の女房と、手伝いのおウスの6人だった。膳の片付けが終わると、おかみさん達は既に帰っていた。
1人の女房がおウスに言った。「おウスさんは何故持って行かないのかい?」
おウスは微笑みながら答えた。「私は既に多くのものを頂いているのですよ。これ以上は欲と言うものです」
おウスが答えた時、このような謙虚さが自分達にはないと、皆一様に我が身を振り返った。おウスは決して裕福でなかったが、檀家代表の5人の女房達はおウスの信心は誰にも負けない強いものだと改めて思った。
おウスの亭主は五助と言い、大工の棟梁市助の下で、小頭を務める
五助は自分が常に子を望んでいたことを、ひと言たりともおウスに言ったことがなかったが、この日は桜祭りの酒に酔っていた。おウスの危難を救った懐地蔵を彫った素空の前で、その一件を感謝した後、世間話のうちについ本音で子が授かりたいと漏らしたのだった。
素空が言った。「御仏は真に必要な願いであれば、必ずや叶えて下さることでしょう。叶わぬ時は、真に必要な願いではなかったのか、祈る心が乏しかったからでしょう。本当にお望みなら、心から御仏におすがりなさいませ。私も、お2人のためにお祈りいたしましょう」
五助は頭を
五助は、素空に言われて初めて自分が信心しているつもりで、実はさほどの信心者ではないことを知ることになった。そう思いながら素空の顔をジッと見ると、たじろがずにはいられない切迫した気持ちに追い遣られ、その時やっと、目の前の僧がただ者ではないと知るに至った。素空の目は涼しく、優しさに満ちていたが、同じ人間なのかと思うほど理知的で、端整で、瞳は深い輝きを持っていた。
五助は、おウスがこれほどの僧とは言っていなかったことを思えば、自分の後ろめたい気持ちのせいで、そのように見えたのだろうと思い、素空と離れてからも横目でチラチラ見遣っていた。この時、五助は信仰において女房のおウスの後を追いかけ始めたのだった。
「五助さん、何やら素空様をさかんに気にしているようだけど、どうかしたのかい?」志賀市衛門が、五助の横に来て尋ねた。
五助は、素空のことを少し詳しく尋ね、認識を改めようと思った。そこで、いきなり市衛門に問い返した。「市衛門様にお伺いしますが、そもそも素空様とは一体どのようなお方でしょうか?世話役様もお住職様も、素空様にはたいそうご丁寧なのはなぜでしょうか?私にはちょっとばかり不思議で、懐地蔵が金色に輝いたのを見た時には驚きましたが、それ以上のことは一向に存じ上げないのですよ」
市衛門は暫らく考えて、志賀孝衛門を呼んで五助の問いに答えさせようとした。
やがて、市衛門の隣に座した孝衛門が、暫らく黙想した後答えた。「五助さん、初めに言っておくことがあります。これは嘘でも何でもないことだけど、お前さんが信じないと言うと、まったく無駄話になるから、そのつもりで聴いておくれ」
志賀孝衛門が話し始めた。「天安寺には、諸国の寺からお坊様の卵達が上がって修行をし、やがて僧として1人前になったと言う認可状を授かり、一緒に法名も賜るけど、素空様は御本山に上がった翌日に認可を受け、素空と言う法名を頂いたそうなのだよ。これは、天安寺でも初めてのことだと聴いているんだが、何でも、素空と名付けられたのは如来様だと言うことらしいのだよ」
志賀孝衛門は一息吐いてまた語りだした。「素空様は並外れて賢く、深い思い遣りと優しさをお持ちなのに、たいそう謙虚で人の上を決して望まないばかりか、御仏に何時召されても良いと思っているそうなのだよ。私達は、このようなお方を聖とか、賢僧などと言うが、それだけではない法力を備えていらっしゃると聴いているんだよ。現に市衛門様の屋敷に押し入った盗賊を懲らしめたり、懐地蔵のことだってそのお力の現れだと聴いているんだよ」
志賀孝衛門はまた一息吐いて語りだした。「悟りって知っているだろうが、悟ったお方はどんな風になると思うかい?御仏のようになるんだよね。素空様は悟りを得たお方で、天安寺のお大師様もお認めなさった尊いお方なのだよ」
志賀孝衛門が話し終えた時、ずっと頷き続けていた五助が、もう1つ問い掛けた。「孝衛門様、それじゃあどうしても合点のいかないことをお伺いします」
そう前置きして語り始めた。「昨年、女房が10日ばかり素空様や、玄空様にお食事を作っていた時のことです。女房はお世話していた時も、素空様の懐地蔵に危難を救われた時も特別お偉いお方のようには言ってなかったのです。こんなにハッキリと普通の人間とは違うお方なのに…」
志賀孝衛門は暫らく考えた。そして、答えに辿り着き、厳しい顔で言った。
「それは、おウスさんがお偉いお方だからでしょう。あなたの質問で私達に欠けているものがなんであるかを知ることができました」
五助は、孝衛門の勿体付けるような言い方に、じれたようにその先を促した。
孝衛門が更に語った。「まあ、お聞きなさい。おウスさんは天安寺のお坊様方がご覧になるのと同じような素空様をご覧になっており、私共はひと格もふた格も下がったところから素空様を見ているのですよ。下から見上げると、素空様はとてもお偉いお方のように見えますが、御仏に適う目線を持つ者には極当然のお姿でしかないのでしょうよ。つまり、私達は真の信仰に辿り着いていないのだと言うことです」
この日から五助は信仰が厚くなり、一心に祈る人になった。五助は毎日、朝晩の経を唱えるうちに、1つだけ分かったことがあった。それはおウスが、自分が稼ぎに出てから帰るまでに、自分のために仏間で経を欠かさず唱えていたことだった。
ある日、五助が朝の経を唱えるためにいつものように仏壇を仰ぎ見ると、仏壇や仏具の隅々までピカピカに掃除されていることに気が付いたのだった。おウスに訊くと、五助の無事を願って毎日経を唱え、仏壇を掃除していたことが分かった。五助はこの時、またしても頭を木槌で殴られたような衝撃を受けた。素空に促されて経を唱えたのだったが、それは子を授かるためにだけの祈りで、おウスのように人のための祈りではなかったのだった。
『私は何んと心得違いをしていたのだろうか、人のために祈ることが素空様のお経であり、おウスが今日まで欠かさず、私のためにしてくれていたことだったのだ…』五助が気付いて仏壇の懐地蔵を仰ぎ見ると、金色に包まれた懐地蔵の顔が微笑んでいた。
五助は目を
五助が真の信仰に目覚めたのはこの時からで、信仰の種が芽吹いた瞬間だった。
1年ほどして、五助とおウスの間に男の子が生まれた。五助は、素空が法力を以って授けてくれたのではないかと思って、松仁大師に尋ねた。
松仁大師はあっさりと答えた。「まさに謙虚でよろしい。だが、このことはそなたの願いが御仏に通じた証なのだよ。素空様が法力を以って子を授けることは決してないのだよ。子を授けるか否かは御仏の御意思であるのじゃよ。授かった者は御仏の前で大きな責任を与えられるのじゃ。これは大切なことだから、良くお聴きなされ。子は我がものでは決してないのじゃ。やがて時が過ぎて御仏にお返しするまでは誠心誠意、万難を排して育てなければならぬのだよ。大切になされよ」
松仁大師の言葉が、五助の胸に心地よく響いた。
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