桜祭り その2

 素空達3人は、本堂に残って経を唱えていた一貫と共に、本堂で3本の経を唱えた後、庫裏に入った。一貫はつい今し方の奇怪なできごとを報告した。

 「素空様の経が止んで、ご住職様が経を唱え始めると、摩訶不思議なことが起こったのです。それはそれは、この世の常識ではとても信じることのできない仄暗ほのぐらい煙のような、冷気のような何かが私の体を通り抜けながら御本尊の観音様の周りを取り囲んだのです。観音様の前で押し合うようにしながら、やがて消え失せたのです。あれは一体何だったのでしょうか?」そう言うと、一貫は初めに住職の松仁大師に顔を向け、次に栄雪に向けた時、栄雪がキッパリと言った。

 「それは裏山に潜んでいた霊だったのですよ」

 栄雪がそう言った瞬間、一貫の顔に血の気が引き、めまいを起こして倒れそうになった。正気に返った時、素空が語り掛けた。「一貫様、驚くことはありません。本堂を駆け抜けた霊達は皆善良な霊で、薬師如来様の御慈悲を以って黄泉よみに参ったのです。ご本堂の観音様の御姿を借りて黄泉に参っただけなのです」素空が語り終えた時、一貫は安堵し平静を取り戻した。

 栄雪は、素空に結界の中で何があったのか訊いてみた。栄雪の疑問は、松仁大師も同様に抱いていたので、2人は身を乗りだして聴き入った。

 素空が語り始めた。「私を取り巻く多くの霊が極めて善良で、この世に未練を残したがために現世に留まり、やがて結界に封じ込められ、行き場をなくしたのです。瞑想のうちに千手観音様と薬師如来様にお会いして、どちらに願いを託すか問われましたので、私は迷わず薬師如来様を選びましたが、同時に千手観音様はお隠れになったのです」

 その時、松仁大師が口を挟んだ。「何と!素空様は千手観音菩薩を目になさったのですか?」並みの僧には瞑想しても仏の姿など、決して目にすることができないことだった。ましてや、千手観音菩薩に行き着く者は悟りを得た者と聞いていた。松仁大師は、素空が悟りを得ていることを聞いてはいたが、こうやって目の前で語られると、驚かずにはいられなかったのだった。

 素空が答えた。「はい、千手観音様は薬師堂の仁王像を建立する際、ようやく目にすることができました。先ほどで2度目になりますが、今日は初めてお言葉を賜りました」

 松仁大師は身を乗りだして相槌を打ち、素空にその先を促した。栄雪と一貫も同じように、我が身の遠く及ばぬ先を聴こうと身を乗りだした。

 素空は仁王像の建立の時のことを手短に話し、次に先ほどのことを詳しく語った。

 素空が言った。「いずれにしても、多くの霊は薬師如来様のご慈悲を以って、この世から黄泉の世界に上げられたのです。栄雪様、いくら御仏の御慈悲と言えども浄土に上がることはないのです」

 栄雪はすべての霊が薬師如来の慈悲を以って極楽往生を遂げたと思ったが、素空に言い当てられてドキッとした。素空には、栄雪の心が手に取るように分かった。「栄雪様、浄土を踏むと言うことは、御仏と同じ場所に上がり、心模様も御仏の如くなければならないのです。ほんの些細な罪でも御仏の前では大きな穢れでしかないのです。そのような者がどうして御仏と同じ浄土を踏めましょうや」

 栄雪は、それでは極楽往生をできる者などほんの一握りではないかと思った。

 素空が言った。「栄雪様、死してすぐに御仏の御前に上がれる者は、心に一片の罪もない者。加えて、その者が生きている時、御仏の示された道を歩み、常に幸福であったならば、来世の永福が与えられるのです」

 栄雪が尋ねた。「それでは黄泉に下りし霊は永遠の闇を彷徨うのでしょうか?」

 素空は、栄雪に微笑みながら答えた。「黄泉に彷徨う霊はこの世の人々の祈りによって浄土に上がることができるのです。それ以外に成す術はないのです」

 栄雪が尋ねた。「それではどれくらい祈ればよいのでしょうか?」

 素空は笑みを絶やさず答えた。「それは人によって違うのです。多くの罪を犯した者が救われるためには、多くの祈りが必要で、ほんの少しの罪を犯した者が救われるためには、それより少ない祈りで救われるのです。2代3代に及んでも救われない霊は多いのです。そのために、毎日仏壇に額ずき、命日の墓参をするのです。そんなことの意味も分からず、ただ祈る者と、シッカリと理解して祈る者では祈りの力が違うのです。経の意味を理解し、目的を心に刻んで祈ることは大いなる力を宿しているのです」

 栄雪は納得しがたい思いだった。素空はそれを承知していたので、もう少し詳しく話すことにした。素空が言った。「人は罪を持って死すとも、すぐに地獄に堕ちることがないのはご承知のことでしょう。浄土と地獄の間には永遠の暗闇があり、これを黄泉と言う言葉で表していますが、無限の無の世界ほど恐ろしい所はないこともご承知下さい。さて、多くの霊がこの黄泉の国に入るのですが、浄土と地獄の隔たりがあるように、黄泉に下った霊にも浄土に近い霊と、地獄に近い霊があるのです。浄土に近い霊は現世に生きる私達の祈りによって浄化され、ついには浄土の霊と変わらないほど清らかになるのです。御仏は清らかになった黄泉の霊にも御慈悲を御示しになられるのです。この時、黄泉の霊は救われ、浄土に参るのです。人は多くの罪を犯し、平然と生き平然と死んで行くのです。その罪への祈りによる贖罪がどれほど掛かるかは想像すらできません。多くの人は身内の死後、当然のように『あの人は極楽往生された筈だ』と言い、死者のために祈ることを怠れば、未来永劫『その人』は浄土を踏むことができなくなるのです」

 素空はちょっと息を吐き、栄雪の顔をチラッと見てまた話しだした。

 「栄雪様、良いでしょうか?これからは現世に生きる私達が、成すべき務めになるのですが、詰まるところ、私達は心の限りを尽くして死者のために祈らなければならないのです。これ即ち、御仏に御慈悲を願う祈りであり、所縁人ゆかりびとが浄土を踏んだ後の祈りはすべての霊のための祈りに変わり、地獄に近い霊も浄土に近付くのです。祈ることは人のためばかりでなく、自分自身の功徳を積むことに他ならないのです」

 栄雪はここに来て初めてすべてを理解した。「素空様、詰まるところ私達は何時も祈り続けなければならぬと言うことですね。私達の所縁人が何時浄土に召されるか分からないのですから…また、僧が常に経を唱えるのは、このことに通じるのですね」

 素空は、栄雪に向かって微笑みながら頷いた。

 素空と栄雪の言葉を聴いていた松仁大師は『我等ももう少し経を唱え、御仏の御慈悲にすがるようにせねばなるまい。里人との語らいをよいことに、怠けておったようだ』心の中でそう思った。

 一貫は、素空が観音寺に遣って来て半日、僧として成すべき日常のこと以外、何も行っていないことを思った。『何んと無駄のないお方だろうか。かくありたいものだ』一貫は思いながら、そうなれそうにない自分を情けなく思った。『すべての僧がそう思っても、素空様のようになれるお方はほんの僅かだろう』そうも思った。

 その後、皆はそれぞれに護摩行の労をねぎらい床に就いた。

 深夜、松仁大師が目覚めると、素空の姿がなかったので、本堂に続く廊下を覗いて見た。そこには金色に輝く素空の背中があった。しきりに手を動かし何やら彫っているように見えたが、よく見えなかった。しかし、松仁大師は鞍馬谷の時と同じく、それ以上近付くことができなかった。


 

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