第2章 桜祭り その1

 松仁大師しょうにんだいしが預かる志賀観音寺しがかんのんじ天聖宗てんしょうしゅうの寺院の中では、天安寺薬師堂てんあんじやくしどうに次いで新しく建立された寺だった。

 松仁大師がまだ松石しょうせきと言う法名を名乗っていた時、天安寺薬師堂の守護神建立に際して、その材料である楠材くすざいの入手に一方ひとかたならぬ協力をしてくれていた。仏師方ぶっしかたに同行するうちに、素空に心酔して行ったのだが、松仁大師自身もその人柄故の徳を備えていた。松仁大師は一見豪放にして磊落らいらくだったが、その実至って細やかな神経の持ち主でもあった。松仁大師は栄覚大師えいかくだいし従兄弟いとこだったが、里が金細工師だったため、出家してから栄覚大師のような苦労をせずにすんだのだった。松仁大師は近江八幡おうみはちまんの街外れにある天聖宗てんしょうしゅうの寺に預けられ、そこから天安寺に上がったのだった。無論、栄雪の里とは別の寺だった。当時この寺に3人の乞食坊主が逗留したが、その中の1人が栄覚大師だった。栄覚大師は、松仁大師が本山に上がったことを知り、この頃から天安寺を夢見るようになったのだった。

 夕方になって、その松仁大師が帰って来た。

 「これはこれは素空様、栄雪様ようこそいらっしゃいました。本日お見えとの知らせは、孝衛門殿より受けていたのですが、桜祭りの打ち合わせで近所の檀家衆と寄り合いを開いていたので留守をしていました。まことに以って失礼仕りました」

 松仁大師は少々酩酊しているようで、普段以上に豪放磊落の体で、素空達への申し訳ない態度は微塵も感じさせなかった。

 素空は、松仁大師に笑顔を向けると、小坊主の一貫いっかんに目配せして言った。「この付近に古くから霊が悪さをすると言う噂があるそうですが、その原因の1つが分かりました。どうやら裏の小山の石積みの中から出入りしているようなのです」

 素空の後を受けて、一貫が言った。「どうやらおウス様に悪さをした霊もその中に居るようなのです。今は素空様がそのほころびをつくろわれたそうですが、今宵こよい除霊じょれい護摩法要ごまほうようをし、霊との語らいを試みられるそうなのです」

 すると今度は栄雪が言った。「松仁様、今、護摩壇の支度をしていたところなのですが、亥の刻いのこく(午後10時)から始め、深夜を過ぎるまで行う予定です。突然のことで驚かれたでしょうが、明後日の桜祭りの前に是非とも終えたいと言う訳なのです」

 松仁大師は気が動転して、豪放磊落の面影は微塵もなく、いっぺんで酔いが醒めてしまった。

 目を白黒させて聞いていたが、ここに来てやっと頭脳が働きだした。

 松仁大師が言った。

 「それでわしは何をすればよいのかな?」やっとでたひと言だったが、素空達3人の準備は殆んどすみ、後はその時刻を待つばかりだった。即ち、松仁大師の手を煩わせることは何もなく、これを聞いて内心ホッとしたのだった。

 4人は夕食をすませると暫らく歓談したが、戌の刻いぬのこく(午後8時)には夜の勤めをして、その後に護摩壇を組み始めた。場所は、素空が結界を繕った石積みのすぐ前で、周囲に火が移らないような手立てを尽くして時を待った。やがて亥の刻いのこく(午後10時)になり護摩壇に火が焚かれ、素空が経を唱え始めると、小山のいただきから風が轟々ごうごうとうなり始めた。素空の介添えとして栄雪が付き、松仁大師は素空の左後方で経を唱えていた。近くの住人が1人また1人と、素空の経と、俄かなざわめきを聞き付けて遣って来た。半時が経ち、護摩壇の炎が赤く燃え立つと、素空は松仁大師に座を任せて結界の中に入って行った。2、3歩進むと素空の体が暗闇に呑み込まれて行ったが、暗闇の中でも素空の声は途切れなかった。

 観音寺の石段前の通りに集まった人々は、息を詰めて見守ったが、3人の僧侶が何の目的で護摩法要を行っているか薄々感じていた。この村の住人は霊や悪霊の存在を子供の頃から教え込まれ、体験した者もおウスばかりでなく数多くいた。

 おウスも亭主と共に遣って来て、素空が護摩法要をしている訳も知っていた。思えばこの辺りで暗闇に包まれたのだが、毎日のように通るこの道のまさにこの場所に原因が潜んでいたことを、今更ながら納得する思いだった。

 突然素空の経が止まった。周りの者が固唾かたずを飲んで見守る中、誰1人として結界を越える者はなかったし、越えることもできなかった。

 暗闇の中で素空は、松仁大師の経をかすかに聴きながら、霊と言葉を交わし始めた。素空は心を深く沈め、無の中の無を探し出し、仏の姿に行き着いた。仏は鋭い目を以て素空を見下ろして、2本の手を緩やかに動かしていた。素空はその横に新たな仏を見た。その手は薬壺やくつぼを持ち柔和に笑みを浮かべていた。

 《素空よ、そなたが欲するのはどちらであるか?そなたの思いを申すが良い》

 素空は迷わず決めた。「薬師如来様に御裁き賜りたいと存じます」

 素空の答えは簡潔明瞭だった。その時千手観音菩薩せんじゅかんのんの姿は消え去り、薬師如来だけが残った。

 《素空よ、この中の霊のうち、3人は救えないが良いですね?》

 素空はすぐに答えた。「致し方ございません。心あるうちに改悛させ、この世にあるうちに償えぬ罪と言えど、幾ばくかの償いをすることを説得いたします、しかる後は御慈悲を以って御憐み給え」

 素空の言葉と共に、薬師如来が消え失せ、素空を覆っていた暗闇が晴れた。藪の中に突然現れた素空を見て、一同が安堵の顔をしたが、結界の中の素空はこれからが大変だった。

 松仁大師は、素空の目の前に暗闇が3つ存在することに気付いていた。邪悪な霊ではないことは、松仁大師にも分かったが、素空が敢然と結界の中に踏み込んだことで、すべてを読み通していたことに思い至った。

 夜半を過ぎた頃、素空の前の霊が藪の奥へと消えて行き、護摩法要が終わった。

 3人の僧は無言のまま観音寺に帰って行くと、周りの人々も家に戻り始めた。

 おウスは胸に仕舞っていた懐地蔵がドンと言う重みを持ち、金色に輝くのを感じた。横にいた亭主に微笑み掛けると、おウスの懐を突き抜けて亭主の目に金色の微かな光が射し込んだ。2人は顔を見合わせて微笑んだ。

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