裏参道の鬼 その4

 素空と栄雪は志賀観音寺しがかんのんじの近くまで遣って来た。志賀観音寺は小山の裾にあり、背後は急峻な崖で神域とされ、滅多に人が立ち入ることはなかった。

 小山はよく見ると5間(9m)の間をおいて石積みが施され、ところどころに四角い境界を示す仕切り石が置かれていた。石積みが結界だと言うことを初めて知った素空は、以前に来た時には全く気付かなかったことを不思議に思った。

 栄雪に結界の存在を説明しながら、素空はその結界が随分昔に張り巡らされたことに気付いた。グルッと回って観音寺のすぐ傍の石段のきわまで来た時、結界にほころびがあることに気付いた。そして、その辺りから藪の中を覗くと、何やらうごめかたまりが存在するように思えた。真昼と言うのに藪の中は仄暗く、点々と漆黒の小さな闇を見るに至った時、それがこの世に残された霊のようだと察した。素空は、栄雪に頼んで丸く平たい石を10枚ほど探してもらい、自らは結界の中に入って経を唱え始めた。素空の経が辺りに響き始めると、藪の中の枝が細かく揺れて漆黒の小さな闇を振るい落とすように消し去り、藪の中は明るくなった。素空の声が小山のすべてに響き渡った時、苦しみの呻きや、歓喜の嗚咽が入り混じって聞こえ始めた。

 栄雪が石を集めて素空の傍らに立った時、気味の悪い声が、反吐へどを吐きたくなるような気持ちにさせた。「素空様、一体これは何者でしょうか?」栄雪は、霊の叫びと言うことの他は何も分からなかった。

 素空が答えて言った。「栄雪様、この辺りは盗賊や、罪のない人々のやり場のない思いが籠った魂の墓場なのです。この中の霊は、桑原博堂くわはらはくどうのように人に直接悪さをするような者ではありませんが、万一地伏妖じふくようのごとき鬼に利用されることがあれば大変なことです。この地に居る間に、この中の数多の霊に参るべき場所に参らせなければ、僧としての務めは果たせません」

 栄雪はこれから何をするのか、その方法を訊こうとしたが、素空は今夜のうちに護摩法要ごまほうようをすると言って微笑むだけだった。栄雪は、素空の力がこれほど大きくなったのは何時頃からだろうかと考えた。一介の僧がおよそ知ることのできないだろう多くの知識と、柔和な普段の佇まいからは想像できないほど、悪に向かった時の厳しい威圧感。既に玄空大師の持てる力と同じ力を備えているように思えて仕方なかった。

 栄雪は、すべて素空の意のままに動き、素空が動きやすいように仕えることが自分の使命であり、それが僧としての修行だと決めていた。

 素空は改めて経を唱えながら、結界の綻びをつくろうために石積みを始めた。新しい結界は周りの石積みと結ぶことはなかったが、素空の法力は両隣の石積みの辺りまで単独の結界を張ることができた。

 「古い結界はさぞかし力の強いお方が張り巡らしたのでしょう。私の力では結界同士を結ぶことができませんでした」素空の言葉に、栄雪が勇気付けるために言った。「どの道にも達人、あるいは玄人なる人がいるものです。素空様であればすぐに同じお力を得ることでしょう」

 素空は結界の作り主を想像していた。野盗の襲来が治まった頃だろうから、それほど昔のことではないと思った。素空はぼんやりと30年ほど前にこの地に遣って来て、この周辺に強固な結界を張った行者のことを思っていた。そして、栄雪の言葉の通り、結界を張り、鬼と戦う行者が実在するのだと実感した。

 素空と栄雪は結界の修復が終わると、脇の石段を上って志賀観音寺の境内に入った。門の両側の仁王像におうぞうに経を唱えると、阿形尊あぎょうそんが2人を見比べていた。目を閉じ無心に祈る素空に対して、栄雪は落ち着きなく経を唱えていたので、何気なく気配に気を取られて、薄目を開けて目と目が合った瞬間、気が動転して後ずさりした時転んでしまった。素空は、尻餅をつき目を剝いて驚く栄雪に、プッと笑ってひとこと言った。

 「栄雪様、薬師堂の仁王像をご覧になっても驚かなかったのに、今更ではありませんか?観音寺の仁王像は、玄空大師と私が手入れした本物だから、息遣いや目の動きで生きている証をお示しなのですよ」

 栄雪は照れくさそうに弁解した。「何も構えておりませんでしたので…天安寺てんあんじであれば動じなかったでしょうが、不意を衝かれたのです」

 2人は笑いながら境内を進み、本堂まで遣って来た。

 松仁大師しょうにんだいしは不在だったが、西院せいいんで見かけた一貫いっかんと言う僧が出て来て応対した。一貫は素空を見るなり緊張が走った。栄雪はその様子を見て噴き出すのを堪えたが、先ほど仁王像の前での自分がこのようだったのかと思うと、一貫に親しみを感じた。一貫は小坊主と言う存在だったが、東院での修行が終わった僧で、西院で若い僧の中から選ばれ、将来、住職を継ぐ僧だった。年齢は栄雪より4才ほど年長だった。

 3人は庫裏くりで松仁大師が帰るのを待つうちに、すぐに打ち解けた。

 栄雪が裏山の結界の話をすると、一貫は仁王像の手直しがすんだ日に賄いのおウスが闇に包まれた話をした。

 素空が懐地蔵ふところじぞうを渡したすぐ後のことで、大事に至らなかったことはすぐに想像できたが、念のために詳しく話を聴いた。「一貫様、私達は翌朝帰ったのですが、おウス様とはそれっきりでした。恐らく、お加減が悪くなって臥せっていらしたのでしょうか?」

 「その通りです。何でも子供の頃に同じようなことがあったそうで、それ以来1度もなかったそうなのですが、何で今頃になってそのようなことになったのか、皆目分からないと仰せでした。おウス様は翌日、昼頃まで床に就き、その後はいつもと変わらないほどお元気になられたそうです」一貫はそう言うと、素空が何か知っているかのように覗き見た。

 素空は結界のほころびとつくろいのことを伝え、霊の出入りの場所がさっきまで存在していたことを告げた。

 一貫は驚いた。こともあろうに寺のすぐ脇の小山に、悪鬼悪霊が居付いていたとは思いも掛けないことだった。

 一貫が言った。「この地にあった寺が、野盗に2度も焼かれたため30年の時を経て同じこの地に建てられたと聴いています。この辺りで多くの血が流され、裏山には夥しい人の亡骸なきがらが葬られているのでしょうか?そして、その魂の幾つかは現世に留まっているのでしょうか?」

 素空が言った。「残念ですが、現世を彷徨う霊を黄泉よみに送る術を存じません。私にできることは、結界の中に封じ込め、地伏妖の手に渡らないようにすることです。しかしながら、地伏妖が自ら結界を潜り抜けるとしたら成す術がありません」

 すると傍らで聴いていた栄雪が興味深いことを尋ねた。「素空様、結界の中の霊はどのような者達でしょうか?そして、結界の中で語り合うことはできないのでしょうか?」

 素空は、栄雪の言葉にハッとして深く思いを巡らした。

 そして、しっかりとした口調で語り始めた。「栄雪様、よくぞおっしゃって頂きました。おかげさまで地伏妖の手に掛かる前に、黄泉よみに送ることができるかもしれません」素空が言い終わると、2人はその先を促したが、素空は今夜まで待って欲しいと言い、微笑むばかりだった。

 志賀観音寺にある3本の桜には無数の蕾が大きく膨らみ、桜祭りを今か今かと待っているようだった。

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