裏参道の鬼 その3

 素空は丸太を探しに風呂場の外に遣って来ると、丁度折り良く風呂番がいた。逸助いつすけと言う小男で、志賀家ではエツと言うのが通り名になっていた。聞き違いから付いたあだ名で、おとなしく物静かで無口だったため、六助の間違いにも異議を唱えることがなかったし、今では自分でもそう言っていた。

 素空が、風呂番のエツに仏像を彫るのに適当な丸太はないか尋ねると、太さ5寸(15cm)長さ2尺(60cm)ほどのけやきの丸太を嬉しそうに持って来た。

 素空は丸太を見るなり驚き、エツに尋ねた。「これは彫りのために用意されたような見事な材料です。これを焚き付けの木として使うのはあまりにも勿体ないことです。他にもありますれば、取っておかれるが良いと存じます。…エツ様には、これが欅の良材であるとお分かりの上でのことでしょうか?」

 素空がそう言うと、エツが訥々とつとつと話し始めた。

 「お坊様はたいそうご立派な御仏像をお彫りなさると聞きまして、この木で如来様にょらいさまを彫って頂きたいと思っていました。里の母が病で余命いくばくもないと知らせがありました。桜祭りが終わると、旦那様のお許しを得て帰ることができますが、その折に、お坊様の御仏像を手土産に帰ることができましたらありがたいことです」

 エツは相当の時間を掛けて素空に語った。

 素空はエツの言葉に深く感じ入った。「エツ様のお心、承知いたしました。桜祭りの折は観音寺においででしょうか?」素空は優しく語り掛けると、エツはややどもりながら答えた。

 「桜祭りには六助さんのお供で必ず参ります」

 素空は、エツから渡された丸太を眺めながら言った。「この丸太は2体の御仏を彫るのに十分な長さがあり、この半分でエツ様のお母上様に1体彫って進ぜましょう。お帰りになる前に、必ず私のもとにお立ち寄り下さい」

 エツは子供のように喜んだ。

 素空は手放しで喜ぶエツを眺めて母への思いの深さを感じた。

 この時から、素空は仏師に戻った。当初1体の筈が、2体になったのだ。限られた時間の中で無心に彫り続け、2日があっと言う間に過ぎた。彫っていると、おフサが側で話し掛け、素空がにこやかに答えると、またも話し掛けて来た。素空は愛すべき奥方の性分を優しさを持って迎え、側に留まることを拒まなかった。嘗て、玄空大師がそうしたように、素空も同じようにニコヤカで優しかった。『ひじりと呼ばれるお方とは、まさにこのようなお方なのでしょう』おフサはそう思った。近くに居ると限りなく優しく、柔和だった。しかし、近くにいてこれほど遠い存在はないような不思議な思いに囚われるのだった。

 素空は2日で2体の薬師如来像の木取りを終わった。

 月が替わり、志賀観音寺に行く日になって、志賀孝衛門は、おフサの寂しそうな顔を見て憐れんだ。素空にこのことを打ち明けると、素空は、おフサに言った。

 「奥方様、寂しく思うお気持ちはまことにありがたいことですが、天安寺にお参りなされば我が師が何時もりまする。そのための薬師堂やくしどうですから、女人の入山は良きことと存じます。馬や人足を使えば容易に上ることもできましょう」

 おフサは急に明るくなった。「玄空様は何時でもおいでなさるのでしたね。素空様がこれっきりだと思うと急に寂しくなったのです。旅の空ではお体をお大切になさって下さい。そして、近くにおいでの折は、必ずお立ち寄り下さい」おフサは、素空のために精一杯の言葉を口にし、それ以上は言葉にならなかった。

 素空が言った。「桜祭りには、またお会いすることでしょうから、その時までお別れの言葉は申し上げますまい。では孝衛門様、奥方様、志賀観音寺でお待ち申し上げます」

 栄雪は2日間の持て成しに感謝し、良円りょうえんの骨箱を背負って、素空の後に従った。

 志賀孝衛門とおフサは、素空が遠くなるまで何度もお辞儀しながら見送った。六助が側に寄って来て、寂しそうな主人夫婦の横顔を言葉もなく眺めていた。

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