裏参道の鬼 その2
志賀孝衛門は、
庭先で六助が小言交じりの指示を受けていると、木戸を潜って2人の僧が入って来るのを見て喜んだ。すかさず六助の巻き返しが始まり、志賀孝衛門は怒るに怒られぬもどかしさを吞み込んで来客の方に歩み寄った。
「これはこれは、素空様と栄雪様ではありませんか。お久し振りです」志賀孝衛門は、六助との漫才のような遣り取りを聞かれたのではないかと思って赤面した。
素空と栄雪は、志賀孝衛門のところに歩み寄り、丁寧に挨拶した。
素空は先ず、鬼の行方が気になっていたので、
志賀孝衛門は驚愕して、素空の話の
志賀孝衛門が言った。「素空様、今のところ変わった知らせは入ってはいませんが、異変があれば必ず耳に届く筈ですので、すぐにお知らせいたしましょう。ところで、その鬼と申す者は
素空が答えた。「鬼とはまさに、地獄の鬼です。地獄の鬼がすべてこの世に現れるのではありません。地伏妖と言う鬼がどのような訳でこの世に現れたかは存じませんが、この世に稀なる存在には違いないと思います。鬼は、
「お2人はその鬼や悪霊を見たのですか?」
素空が答えた。「悪霊とは、人が死んで裁きを受け、地獄に落ちる前に鬼から現世に戻された者の霊で、鬼の支配を受け、人であった時の姿に変化することができるのです。悪霊は、普段は鬼と同じように黒い闇の姿をし、鬼が人の姿を欲した時に人の姿を成すのです。鬼は人の目には見えないのです。従って、悪霊を使って人の姿で人に取り付くのです。鬼のことには不明なことが多く、私はこれから徐々に知識を蓄えなければならないようです」素空はそう語った後、1つ付け加えた。
「悪霊は生きる人に取り付くこともできますが、鬼が悪霊を支配するようには上手く操ることはできません。更に、信心深い人には取り付くことは難しいのです。志賀様の周りの方も含めて、悪霊に取り付かれることは、先ずないでしょう」そして、もう1つ大切なことを話した。「危険なのは鬼の方です。相手が僧であっても取り付こうとしたのですから厄介なのです」
志賀孝衛門は聴きながら震えが来るほど恐れた。そして、鬼と悪霊のことを平然と答える素空に、これまで感じたことがない畏怖の念を抱いた。『ああ、このお方は真の御仏を彫り上げるばかりではなく、仏敵を駆逐する法力を備えたお方であった』志賀孝衛門は、素空が玄空大師と並ぶ法力を持つことを思い、僧の中でも稀なる存在との評判を実感した。
素空と栄雪は、志賀孝衛門にすべてを話し終えると、志賀観音寺に行くと伝えて去ろうとした。しかし、志賀孝衛門は、素空達を放さなかった。せっかくの機会であり、今夜はゆっくり休んでもらいたかった。ここで2人と別れることは、志賀孝衛門にとってはあり得ないことだった。
「お前様お手柄でした」孝衛門の話を聞いて、女房のおフサが喜びを露わにして言った。2人とも気のいい夫婦だったが、そればかりではなく実に信心深かった。そして、素空はこの夫婦の望みであれば、どんな望みにも応じようと思っていた。
夕食の膳が運ばれた時、栄雪は驚いた。「これは御本山では口にできないご馳走ですね。何時もこのようなものを召し上がっておいでなのですか?」
栄雪の言葉に、苦笑しながら孝衛門が答えた。「お聞き下さい栄雪様、観音寺の落成式は建立された後に、御本山のお大師様達を招いて成されました。実のところ
素空が尋ねた。「孝衛門様、桜祭りは
志賀孝衛門は改まって答えた。「毎年桜が5分咲きの日に行うことになっておりまして、今年は4日後の4月2日の予定です」そう言うと、おフサと顔を見合わせて、思い切ってもうひとこと言った。「よろしければ、後2晩当家でお過ごしになられますれば、嬉しい限りですが、お急ぎの旅でしょうか?」
素空が答えた。「急ぐ旅ではありませんが、志賀の里から
話が調ったことは、栄雪が1番喜んだ様子で、明日も明後日もご馳走にありつけると決め込んで、満面の笑みで夕食を口にした。
夕食がすむと、おフサにとってのお待ちかねの時間が遣って来た。家族から奉公人に至るまで、仏間いっぱいに詰め掛けて素空の経を待っていた。皆、素空や玄空の声を知っていて、心の中は常にその声を渇望していた。
しかし、素空はこの日、経を唱える前に皆に語り始めた。「皆様、この世には御仏の御慈悲が降り注ぎ、
素空は、皆が聞き入れてくれたと思い、糾明の間を取って静かに経を唱え始めた。
この日の仏間は厳粛だった。素空の言葉は皆に仏道の階段を数段上らせた。
やがて、経がすむと、素空が初めのように語りだした。「皆様方の心に悪の付け入るスキはないようですが、万一悪鬼悪霊が襲った時は、経を
素空が語り終えた時、孝衛門の
素空はにこやかに答えた。「いいえ、私が御本山を去るとなれば皆様方とはこれが最後となるやも知れず、その余りに心残りのないよう、ついつい多くを語りました。皆様方には申すべくもないことでした」
志賀孝衛門は昼間に素空が語った鬼のことが、容易ならざることのように思えた。倅の問い掛けに、そう答えたのは、皆の恐怖を煽ることのないよう配慮したのは分かったが、この後、皆の心に素空の言葉を根付かせることは、当主である自分の務めだと思った。
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