裏参道の鬼 その2

 志賀孝衛門しがこうえもんは屋敷の中で、六助ろくすけに何やら言葉を掛けていた。六助は庭回りの男衆を束ねていて、孝衛門がお気に入りの使用人だった。

 志賀孝衛門は、志賀観音寺しがかんのんじの檀家総代として年の行事の殆んどを世話していたが、その日は『桜祭さくらまつり』と称する観音寺の創建祭の準備をしていた。後数日もすると桜がほころび、観音寺の境内の桜をめでながら創建祭を祝うのだ。

 庭先で六助が小言交じりの指示を受けていると、木戸を潜って2人の僧が入って来るのを見て喜んだ。すかさず六助の巻き返しが始まり、志賀孝衛門は怒るに怒られぬもどかしさを吞み込んで来客の方に歩み寄った。

 「これはこれは、素空様と栄雪様ではありませんか。お久し振りです」志賀孝衛門は、六助との漫才のような遣り取りを聞かれたのではないかと思って赤面した。

 素空と栄雪は、志賀孝衛門のところに歩み寄り、丁寧に挨拶した。

 素空は先ず、鬼の行方が気になっていたので、地伏妖じふくようと言う鬼と、その配下であった悪霊のことを説明し、この辺りに不審なできごとがなかったか尋ねた。

 志賀孝衛門は驚愕して、素空の話の間中あいだじゅう、口をあんぐり開けて聴いていた。まさに彼は、鬼や悪鬼悪霊あっきあくりょう魑魅魍魎ちみもうりょうなどとはまったく無縁の人物だった。この辺りでは、悪霊などの悪さに付いては、土地の言い伝えとして聴いてはいたが、どうにも理解し難いことだった。

 志賀孝衛門が言った。「素空様、今のところ変わった知らせは入ってはいませんが、異変があれば必ず耳に届く筈ですので、すぐにお知らせいたしましょう。ところで、その鬼と申す者は一体いったいどのような者でしょうか?」

 素空が答えた。「鬼とはまさに、地獄の鬼です。地獄の鬼がすべてこの世に現れるのではありません。地伏妖と言う鬼がどのような訳でこの世に現れたかは存じませんが、この世に稀なる存在には違いないと思います。鬼は、悪霊生霊あくりょういきりょうを以って悪を成し、直接にはどのようなことをするのかは分かりません。鬼は人に取り付き、取り付かれたその魂の力でこの世に住み暮らすのです。まさに人に害を及ぼすのはこの鬼なのです」

 「お2人はその鬼や悪霊を見たのですか?」

 素空が答えた。「悪霊とは、人が死んで裁きを受け、地獄に落ちる前に鬼から現世に戻された者の霊で、鬼の支配を受け、人であった時の姿に変化することができるのです。悪霊は、普段は鬼と同じように黒い闇の姿をし、鬼が人の姿を欲した時に人の姿を成すのです。鬼は人の目には見えないのです。従って、悪霊を使って人の姿で人に取り付くのです。鬼のことには不明なことが多く、私はこれから徐々に知識を蓄えなければならないようです」素空はそう語った後、1つ付け加えた。

 「悪霊は生きる人に取り付くこともできますが、鬼が悪霊を支配するようには上手く操ることはできません。更に、信心深い人には取り付くことは難しいのです。志賀様の周りの方も含めて、悪霊に取り付かれることは、先ずないでしょう」そして、もう1つ大切なことを話した。「危険なのは鬼の方です。相手が僧であっても取り付こうとしたのですから厄介なのです」

 志賀孝衛門は聴きながら震えが来るほど恐れた。そして、鬼と悪霊のことを平然と答える素空に、これまで感じたことがない畏怖の念を抱いた。『ああ、このお方は真の御仏を彫り上げるばかりではなく、仏敵を駆逐する法力を備えたお方であった』志賀孝衛門は、素空が玄空大師と並ぶ法力を持つことを思い、僧の中でも稀なる存在との評判を実感した。

 素空と栄雪は、志賀孝衛門にすべてを話し終えると、志賀観音寺に行くと伝えて去ろうとした。しかし、志賀孝衛門は、素空達を放さなかった。せっかくの機会であり、今夜はゆっくり休んでもらいたかった。ここで2人と別れることは、志賀孝衛門にとってはあり得ないことだった。

 「お前様お手柄でした」孝衛門の話を聞いて、女房のおフサが喜びを露わにして言った。2人とも気のいい夫婦だったが、そればかりではなく実に信心深かった。そして、素空はこの夫婦の望みであれば、どんな望みにも応じようと思っていた。

 夕食の膳が運ばれた時、栄雪は驚いた。「これは御本山では口にできないご馳走ですね。何時もこのようなものを召し上がっておいでなのですか?」

 栄雪の言葉に、苦笑しながら孝衛門が答えた。「お聞き下さい栄雪様、観音寺の落成式は建立された後に、御本山のお大師様達を招いて成されました。実のところ弥生やよい(3月)には松仁様しょうにんさま(大師となった松石しょうせき)が住職になっていたのですが、桜の頃が時節が良いので、建立祭を卯月うづき(4月)に催すことにしたのです。桜咲く頃は気候が良く、めでたい気分が増すもので、この頃に『桜祭り』と称して賑やかに祝うのです。それで、当日の膳の見本を揃えておりましただけなのです。栄雪様はほんに良い時においでなさいました」志賀孝衛門は愉快に笑った。

 素空が尋ねた。「孝衛門様、桜祭りは何時頃いつごろになりますか?」

 志賀孝衛門は改まって答えた。「毎年桜が5分咲きの日に行うことになっておりまして、今年は4日後の4月2日の予定です」そう言うと、おフサと顔を見合わせて、思い切ってもうひとこと言った。「よろしければ、後2晩当家でお過ごしになられますれば、嬉しい限りですが、お急ぎの旅でしょうか?」

 素空が答えた。「急ぐ旅ではありませんが、志賀の里から大津おおつに入る時に立ち寄りたいところがありまして、手土産代わりの御仏像を彫りたいと思っておりました。そのために、4、5日を観音寺で過ごすつもりでしたので、却ってありがたいことです」

 話が調ったことは、栄雪が1番喜んだ様子で、明日も明後日もご馳走にありつけると決め込んで、満面の笑みで夕食を口にした。

 夕食がすむと、おフサにとってのお待ちかねの時間が遣って来た。家族から奉公人に至るまで、仏間いっぱいに詰め掛けて素空の経を待っていた。皆、素空や玄空の声を知っていて、心の中は常にその声を渇望していた。

 しかし、素空はこの日、経を唱える前に皆に語り始めた。「皆様、この世には御仏の御慈悲が降り注ぎ、あまねく人はその恩寵おんちょうあずかっているのです。しかしながら、一方いっぽうに御仏と相反する存在があるのも承知しなければなりません。それは、私達の心の弱さに付け入り、始めに小さな不善を犯させ、やがては罪を罪とも思わぬ人非人にんぴにんに成すのです。これを悪の手先などと申しますが、実のところすべては我が身が招いた不幸なのです。しからば、心を強く持ち、不善のもととなる行いを改めることは実に正しい人の道の始まりなのです。己を誘惑におちいらせぬよう御仏の御加護を祈り、どのように小さな罪もしっかり糾明きゅうめいすることを日々欠かすことなく行う務めがあるのです。望むばかりでは、御仏は決して聴き入れては下さらないのはお分かりでしょう。我が身が成したどのように小さな罪もしっかりと糾明し、その上で御仏の赦しと御加護をお祈りいたしましょう」

 素空は、皆が聞き入れてくれたと思い、糾明の間を取って静かに経を唱え始めた。

 この日の仏間は厳粛だった。素空の言葉は皆に仏道の階段を数段上らせた。

 やがて、経がすむと、素空が初めのように語りだした。「皆様方の心に悪の付け入るスキはないようですが、万一悪鬼悪霊が襲った時は、経を一心いっしんに唱えることです。経を唱える者は御仏に近く、魂を悪の自由にさせることは決してありません。心が萎えそうになっても決して経を止めないよう、普段から心の準備をなさることです」

 素空が語り終えた時、孝衛門のせがれが尋ねた。「素空様、今日はこれまでにないおっしゃり方でしたが、何事か生じたのでしょうか?」

 素空はにこやかに答えた。「いいえ、私が御本山を去るとなれば皆様方とはこれが最後となるやも知れず、その余りに心残りのないよう、ついつい多くを語りました。皆様方には申すべくもないことでした」

 志賀孝衛門は昼間に素空が語った鬼のことが、容易ならざることのように思えた。倅の問い掛けに、そう答えたのは、皆の恐怖を煽ることのないよう配慮したのは分かったが、この後、皆の心に素空の言葉を根付かせることは、当主である自分の務めだと思った。

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