仏師素空 諸国行脚編(上)

晴海 芳洋

第1章 裏参道の鬼 その1

 素空そくう栄雪えいせつは、昨夜悪鬼あっきが潜んでいた場所に着いた。素空の師であり、東院とういん貫首かんじゅである玄空大師げんくうだいしと別れた場所から1町(100m)ほど離れた場所だった。

 「素空様、この辺りに悪鬼が潜んでいたのですか?」栄雪はその辺りを注意深く見渡したが、妙な気配すら感じることはできなかった。

 「栄雪様、ここにはもう何の痕跡もございません。この先へ注意しながら進みましょう。漆黒の闇を見たらそれが悪鬼の姿か、もしくは隠れ家です。回りの藪や木陰と違い、漆黒の闇ですからそれをお探し下さい」素空が言ったことで、栄雪は悪鬼の正体を朧気おぼろげに想像しながら探した。

 素空が言った。「鞍馬谷くらまだにまでこのまま進みましょう。志賀様しがさまおに悪霊あくりょうの存在をお知らせしなければ、志賀しがの里人が危うくなります」

 鞍馬谷まで1時(2時間)近くを掛けて辿り着いた。

 「素空様、現れませんでしたね」

 「いいえ、すぐ下の辻に潜んでいます。私の後を離れずに付いて下さい」

 栄雪は緊張した。これまで感じたことがないほどの悪寒が全身を襲っていた。

 「汝は地伏妖じふくようか?」突然、素空が闇に語り掛けた。闇は桑原博堂くわはらはくどうと言う賊の頭だった男だが、昨夕地伏妖にさらわれてここまで戻されたのだった。ここは、天安寺てんあんじから宙を越えて舞い降りた場所だった。桑原博堂はただの悪霊あくりょうだったが、その背後には地伏妖と言う鬼が付いていることを素空は知っていた。

 桑原博堂が言った。「お前は昨日の坊主だな!地伏妖様はお前などのためにここにおいでにはならないだろうよ」不敵な声はやがて、生前の桑原博堂の姿になり、ようやく精気が満ちて来た。桑原博堂は萎えた体が、地伏妖の力で精気を取り戻し、素空と対峙するほど強くなり、不敵な笑みを浮かべていた。地伏妖が、桑原博堂に執着したのは、まさにこの姿が欲したからだった。鬼は単独では人に成りすませないのだった。凶悪な人の魂に、地獄に落とされる前に取り付くことで、その者を悪霊あくりょうとして手に入れることができるのだった。

 「ではお前は何者か?」素空は、地伏妖に操られた悪霊に問い掛けた。

 「わしは桑原博堂と言う偸盗ちゅうとうの頭であった者だ。この世に於いては数多の物を盗み取り、邪魔者はすべて殺傷して来たのだ。例え坊主と言えど、取り殺さずには置かないのだよ!2人とも観念するがいい」

 「桑原博堂とやら!我が結界の中で強がっても、決してお前の思うままには行かぬと知れ!」素空は結界の中に響き渡る経を唱えた。素空が真に対峙しているのは、桑原博堂ではなく、その魂の中に取り付いた地伏妖だった。

 素空は知っていた。『この者の中に地伏妖が居ることを…』

 素空は、地伏妖の出現が何時になるのか、注意深く対峙した。桑原博堂を倒した瞬間が、地伏妖の出現の時だと予想をして、桑原博堂と自分を大きな結界の中に閉じ込め、栄雪をその外の小さな結界の中に封じた。素空は、桑原博堂に向かって数珠をかざし、調伏ちょうぶくのための経を唱え続けた。桑原博堂は、素空が翳した数珠をかわすために、体の位置を左右に変化させ、時には素空の背後に回り込みながら、数珠と正対することを避けようとした。

 素空は場所を変化させながら、攻撃の機会を探っている敵に、隙を見せて誘い込もうとした。桑原博堂の右手が素空の首筋に伸びて来て、指先の鋭い爪が肉に食い込む寸前、素空は体を反転させて、数珠で腕を打ち払った。桑原博堂は肘の下から片腕を払い落されて悲鳴をあげた。「ウォオオオー」薄気味悪い声が辺りに響いた時、桑原博堂が素空から離れて体勢を立て直そうとした。

 その時何者かが、素空めがけて飛び込んで来た。素空には、それが地伏妖だと分かっていた。素空の周りに独特の悪臭が漂い、『これが鬼の臭気なのだろうか?』と素空が思った時、結界の裾が破られ、地伏妖が結界の外に逃れた。地伏妖は結界の外から素空を睨み付け、次の瞬間栄雪の結界に爪を立てて攻撃し始めた。

 素空は、自分を囲った大きな結界を解き、栄雪の方に駆けだした。栄雪は目を閉じ、一心いっしんに経を唱え、胸には良円りょうえん薬師如来像やくしにょらいぞうを抱えていた。栄雪の結界に地伏妖の腕が入り込み、結界が破られた時、「ギャーアアア!」凄まじい悲鳴と共に地伏妖が結界の中に入れた手を引き抜きその場から逃げ去った。

 栄雪は破れた結界の中で気を失って倒れていたので、素空は結界を解き、栄雪を抱き寄せて介抱した。しかし、周りにはまだ桑原博堂が潜んでいた。腕をもぎ取られたが既に再生していた。今、悪霊を支えているものは、取り付こうとする執念だけだった。地伏妖が姿を消した今、素空と戦うことは無謀としか言えないことだったが、桑原博堂にはそれ以外に生存の可能性はなかったのだ。

 桑原博堂は真っ黒な闇となって、素空と栄雪に覆いかぶさるよう、頭上から降り掛かった。素空と栄雪が闇の中に入った瞬間、2人の体から強烈な金色の輝きが発散して、闇を一瞬いっしゅんで吹き消した。金色の輝きが収束すると、そこには黒い塊が1つ転んでいた。それは紛れもない桑原博堂の残骸だった。

 密教みっきょうの秘技と言われ、真言行者しんごんぎょうじゃの中でも僅かな者しか知らない呪文を、素空は忍仁堂にんじんどう釈迦堂しゃかどうのすべての蔵書の中から見出していた。

 素空の智の根源は万巻まんがんの書の中にあった。そして、揺るぎない信仰がその胆力の根源だった。素空は一心いっしんに経を唱え、ついに調伏の呪文を放ったのだった。素空はこの時、我知らず仏と合体し、姿は素空のまま魂は仏となっていたのだが、常人が見ても分からないが、玄空大師がこの場に居たら、素空の姿が仏に変幻したのが分かった筈だ。暗闇の中で仏が金色の閃光を発したのだった。

 素空は足元の黒い塊には目もくれず、地伏妖の気配に集中した。

 すると、近くの藪の中から地伏妖の声がした。

 「わしの手足となるべき男を失った今、ここに留まるべくもない、またどこかで必ず会おうぞ!」

 素空は地伏妖を取り逃がしたことで、人に危害が及ばないことを祈った。

 地の底から響き、反吐へどの出るようなおぞましい声を思い返していると、栄雪が目を覚ました。栄雪は、素空が戦っている時は、結界の中でジッと目を閉じ経を唱え続けていた。栄雪は結界ばかりではなく、良円りょうえん薬師如来像やくしにょらいぞうにも守られていた。栄雪はその間中ずっと金色に輝く如来像に気付くことなく祈り続けたのだった。従って、地伏妖に襲われて、気を失ったが、傷を負うことはなかった。

 素空は、栄雪の傍らに立つと無事を確かめた。

 「素空様、どうなりましたか?」栄雪は戦いの顛末てんまつが知りたかった。ジッと目を閉じ、経を唱えることは身を守る最善の策だと知っていた。戦いの様子を覗き見ることは、気を散らして経を唱えることになり、却って身を滅ぼしかねないことだった。

 素空は、栄雪が正しく対応したことが嬉しかった。栄雪が力を付けるまではこうやって何とか凌がなければならなかったが、自分の結界が破られたことにかなり落胆していた。

 栄雪に調伏のあらましを説明し、黒くなった地面を指し示し、桑原博堂が消滅した痕跡を見せた。

 「素空様、この黒い塊が悪霊の痕跡ですか?」

 「そうです。これから、護摩壇を作り、降伏法の呪文を唱え、完全に滅殺しますが、天安寺から様子を見に来た時、護摩壇の跡を見ることで、悪霊の調伏を果たし、我々が無事であったことを知らせることができるでしょう」

 栄雪が言った。「さすがですね。一石二鳥いっせきにちょうと言う訳ですね」栄雪は、素空が何時の間に調伏法を身に付け、悪鬼悪霊を滅殺する術を知ったのか不思議だったが、この日はそのことに触れることはなかった。

 「素空様、それにしても地伏妖はどこに逃げたのでしょうか?」

 栄雪の問い掛けに、素空が答えて言った。「鬼は、この世のどこにでも潜んでいるのです。桑原博堂を失った今、地伏妖がこの地に残る意味はないのです。国中の死者の中で、より強い悪霊となり得る者を探していることでしょう。鬼は人のすぐ傍に居て、取り付く瞬間を常に待っているのかも知れません」

 栄雪はぶるっと身震いをして、素空にニヤリと笑顔を見せた。

 素空が言った。「栄雪様には鬼が取り付くことは決してありませんから、ご安心下さい」素空が笑みを返した。

 2人は護摩壇の火を消し、降伏法の痕跡だけを残して、志賀の里へと下って行った。

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