ペットオーナーシップ

メグリくくる

社長令嬢の行方を追え

「ほぉら、いい子だからこっちにおいでぇ」

 排水管に掴まった中年の男が、そんな猫なで声を上げている。路地裏の暗がりで、さらにその声を上げているのが無精髭にヨレヨレのシャツとジャケットを着ている男と言うのは、たとえ俺がその男と知り合いというのを差し引いたとしても、気持ち悪さを通り越して不気味さしか感じられない。

 煙草を咥えたその男、淵野 賢吉(ふちの けんきち)は、滑り落ちないように両手両足を排水管に絡ませている。彼が掴まっているのは、高さにしてビルの三階辺り。普通の人なら、落ちたら下手すると死ぬ可能性のある高さだ。そんな場所で、彼は必死になって手を伸ばしている。

 その先にいるのは、一匹の猫だ。

 三毛猫が窓の枠部分に器用に座り、手を伸ばす男を無視して、くわぁ、と大きなあくびをしている。

「ミケ、こっちにおいでぇ」

 男が猫の名前を呼ぶが、相変わらず見向きもされない。しかし、彼は諦めた様子もなく、懸命にミケの名前を呼び続けている。それはそうだろう。彼の仕事は、あの猫を連れて、飼い主の元へ返すことなのだから。しかもこの依頼を達成できなければ、今月の事務所の家賃を払うことが難しくなる。そういう事情があれば、恥も外聞もなく排水管に掴まりもするというものだろう。

 ……下から見てる姿は、この上なく間抜けにしか見えねぇけど。

 地上から俺がそんなことを考えると知る由もない彼は、最後の手段とばかりに内ポケットに手を入れ、あるモノを取り出した。

「ほぉら、煮干しだよぉ。ミケの大好物の、煮干しがありますよぉ」

 ミケの飼い主であり、猫を連れて帰るよう依頼した依頼人から聞いた情報を使って、彼はあの三毛猫を確保する作戦に出たようだ。

 好物の登場に、そこで初めてミケが男の方を振り向いた。黄金色の猫目一杯に、煮干しの姿が映り込む。そしてミケは体を起こし、ゆっくりとその場を移動し始めた。その足は男の方角へ進んでおり、ミケの足も排水管の上へと乗せられる。

 それを見て、男は破顔した。

「そぉだ。いいぞ、いい子だ。そのままゆっくりと、こっちにおいでぇ」

 その言葉に反応し、ミケが小さく鳴き声を上げる。だが三毛猫は、後少しで男の手が届くという場所で、止まった。男の咥えた煙草から、燃えカスが地面に雪のように落ちてくる。焦れた男は、指先を動かして、手から煮干しをさらに猫の方へと伸ばしていった。

 だが、まだミケは動かない。さらに男は煮干しを手から出していく。だが、まだ動かない。また煮干しを手から出す。それを繰り返していると、段々と男が握っている煮干しの部分より、猫の方へ伸ばした煮干しの比率が多くなっていって――

「あっ!」

 男の悲鳴が、全ての答えだ。彼の握る部分が僅かになった瞬間、ミケが煮干しに飛びつき、まんまと自分の好物を奪い去ったのだ。男の吐き出した紫煙を突き抜けるように、三毛猫が男の頭を踏みつけ、さらに跳躍。ビルの四階の窓枠へと足を着く、その瞬間。

「全く、なぁにやってんだよ」

 地面から四階の高さまで飛び上がった俺が、ミケの首根っこを逃げられないように右手でしっかりと掴む。多少の衝撃があったはずだが、三毛猫の口にはしっかりと煮干しが咥えられていた。

 俺はさらに左手で排水管を掴むと、見下ろすように呆けた顔をしている男へと顔を向ける。

「流石に猫一匹捕まえられないんじゃ、話にならねぇぜ? ご主人」

「そんな事言われても、人には向き不向きってもんがあるんですよ」

「そういうこと言って、最近俺しか働いてねぇだろうが! 少しは仕事してくれよ!」

「だからこういうのは、僕には合わないんですよ。蕨(わらび)一人に任せておいた方が、ずっと効率的に仕事をこなせるじゃないですか」

 煙草を吹かしながら、ズルズルとご主人は排水管を滑り落ちるように、下がっていく。それを見ながら、全く働く気がない自分の主人に向かって、俺は溜息を吐いた。

 その間にミケは煮干しを食べ終えたのか、にゃぁ、と大きな声で鳴いた。

 

 ***

 

 食材や日用品が詰まった紙袋を抱えながら、俺はジンボーチョー・エリアを歩いている。表通りから外れて、雑居ビルが立ち並ぶ裏通りへと入っていく。そして立ち並ぶビルの一つ、その入口に、俺は吸い込まれていった。このビルには生憎エレベーターというものがないので、俺は階段を使って上へと登っていく。目的地は、五階だ。やがて目的地まで階段を登り終えると、俺の目の前に看板が現れる。

 フチノ探偵事務所。

 その看板が掲げられた扉を、俺は何のためらいもなく開け放った。扉の向こうには八畳程の部屋が広がっており、来客用のテーブルを挟むように用意したソファーが二つ、そして脇には書類や日用雑貨が詰まった棚が並んでいる。部屋の奥はカーテンで仕切られていて、ここからではその向こうがどうなっているのか、来客はすぐに見れないようになっている。だがそれ以上に、俺は気になっていることがあった。

 匂いだ。

 埃っぽい匂いがして、俺は僅かに顔をしかめる。そしてそのまま歩いていき、来客用のソファーでイヤホンを付けて競馬新聞を読みながら寝転ぶ男へ向かって、俺は抗議の声を上げた。

「おい、ご主人! また掃除サボったろ? まだ埃の匂いがする!」

「えぇ? ちゃんとやったよ?」

 競馬新聞を畳んで、耳にしたイヤホンと一緒に眼の前のテーブルに置いた。イヤホンからは僅かに、競馬の実況中継が流れてきている。

 ご主人はスンスン、と鼻を動かして匂いを嗅いで、無精髭を撫でた。

「いや、僕は何にも感じないけど?」

「ヤニのとりすぎで、ついに鼻がイカれちまったんじゃねぇのかぁ?」

「そんな、酷いなぁ。それに、蕨が神経質になってるだけなんじゃないのぉ?」

「あぁ? 俺が嘘付いてるっていうのかよ?」

「そうじゃないよ。でもさ、僕より蕨の方が、生物的に鼻がいいのは事実だろ?」

 その言葉に、俺は僅かに眉を顰める。

 つまり、ご主人はこう言っているのだ。俺の嗅覚は、人間のものとは違う、と。

 そして、それは事実だった。

 俺は人間ではない。犬だ。

 犬の俺が、人化しているのだ。

 そしてそうした事象は、俺以外の動物、人間が飼っているペットにも起こっている。

 何がどうしてそうなったのかは、もう誰もわからない。だが、明確なきっかけというものは存在していた。

 宇宙人だ。

 この星に宇宙人がやって来てから、この世界は異世界のようになったのだ。

 どうして突然宇宙人がやって来たのかは、もはやわからない。宇宙人と交流を持とうと四苦八苦していた人間たちを嘲笑うかのように、宇宙人はふらっと現れた。そして一通りこの星の情報を集めた後、宇宙人たちはこう言い残したらしい。

『人間はもっと同族と、同族の隣人を愛するように』

 そして、宇宙人たちは消え去った。

 そこからだ。人間と一緒に生活している動物が、人化する事象、いわゆる隣人化現象が発生し始めたのは。

 隣人化現象の詳細は、全くもって不明。全てのペットが完全に人の姿になれるわけでもなく、また人化の度合いもまちまちで、四足歩行の動物が二足歩行に変わっただけという様なケースも確認されている。宇宙人が行ったこと、と思われている、ので、人化する条件も当然わからない。通説では、人とペットの関係値が一定水準を超えれば人化する、だなんて都市伝説的な話も出ているが、その真偽も不明だ。

 ペットがある日起きたら人化しているという事象が頻繁に起こる様になったため、当初は世界中で大混乱が起こったようだが、今では宇宙人が地球に残していった足跡的なものだという認識で、俺たちは生活している。大雑把過ぎるかも知れないが、もうこの星はそういう世界、世界観になってしまったのだ。高いところから低い所へ物が落ちていくように、ある日ペットが人化し得るというのが、この世界の常識になっている。

「何だよ。ご主人は、俺が生活しづらい環境で過ごしてもいいのか? それ、動物虐待なんじゃないのかよ?」

「……やれやれ。そう言われると、僕も弱いなぁ」

 煙草を取り出し、ライターで火を付けた後、ご主人は立ち上がって事務所の窓を開ける。そしてはたきを持ってくると、事務所の掃除を行っていく。棚をはたきながら、ご主人が俺の方を一瞥した。

「そういえば、ずっと着てるよね。そのスカジャン」

 そう言われて俺は、自分の格好を見下ろす。黒をベースとした、桜の刺繍が入ったスカジャンが見えた。俺のお気に入りの服だ。

 鼻を鳴らしながら、俺は後ろで一つにまとめた白髪を手で払い、犬歯を見せるように口角を吊り上げる。

「あぁ? 悪ぃかよ」

「いや、蕨が気に入ってくれるのならいいんだけど。でも、本当に大きくなったよなぁ、お前」

「何だ? 身長追い抜かれて悔しいのか?」

「その姿になって、もう何年経つと思ってるのさ。今更そんな事思わないよ。少しだけ、お前を拾った時の事を思い出しただけだ」

「……ふんっ、そんな事思い出してる暇があったら、ちゃんと俺が快適に過ごせる環境を作ってくれよ。そして、ちゃんと仕事もしてくれ」

「仕事って言っても、僕らの所に持ち込まれる依頼なんて、浮気調査か前みたいな失せ物探しぐらいじゃない。全部鼻のいい蕨がやった方が効率がいいよ。僕以上に、匂いで解決出来るだからさ」

「それでやるのは競馬に競輪、競艇にパチンコって、駄目人間過ぎるだろご主人」

「それだけじゃないよ。お酒も飲むよ」

「より駄目駄目じゃねぇか!」

 そう言って溜息を吐いた後、俺は紙袋の中から包みを取り出し、テーブルの上に置いた。

「後、和菓子のストック切れてたから、買って来きた」

 その言葉に、ご主人は手にしたはたきを放り出して、こちらにやって来くる。

「おい、掃除!」

「おお! いいじゃないいいじゃない! 今日は栗饅頭?」

 俺の話を聞きもせず、包みを開けてご主人は中身を確認。煙草を灰皿に押し付けて、嬉しそうに栗饅頭を手にして振り向いた。

「蕨もお茶、飲むだろ?」

「飲むけどよぉ……」

「わかってるわかってる。ちゃーんと冷ましとくからさ」

 そう言って、ご主人は事務所の奥へと向かっていく。事務所兼自宅となっているので、奥には台所があり、そこでお湯を沸かそうとしているのだ。ヤカンに水を入れて、コンロにかける。その間にご主人は冷凍庫から氷を出して、俺の分の湯呑に入れた。熱すぎるのが苦手な俺の好みをわかっているので、先に湯呑を冷たくしているのだ。さらに流れるように茶っぱを急須に入れて、今日食べる分の栗饅頭を俺とご主人の皿に盛り付ける。

 それを見ているだけでは手持ち無沙汰になるので、俺も買ってきた材料を棚に詰めたり、冷蔵庫へと閉まっていく。気になっていた匂いの方は、ご主人が窓を開けて換気されたからか、幾分かマシになっていた。それでも気になる部分を自分ではたいていると、俺の鼻腔がお茶が立てるいい香りを感じ取る。

 ……でも、流石に来客用の良い茶っぱは使ってないな。

「はい、出来たよ」

 ご主人が御盆に二人分の湯呑と栗饅頭を乗せて、運んできた。来客用のソファーに並んで座り、俺は自分の湯呑に手を伸ばす。熱すぎず、かと言って冷たすぎない、ちょうどいい温度だった。隣を見れば、ご主人はもう栗饅頭を一口、齧りついている。隣にいる俺にも、ご主人が齧った栗饅頭の餡の、いい香りが漂ってきた。涎をこぼす前に、俺も栗饅頭を手にして、齧りつく。皮の香ばしさに、餡の甘みが口腔一杯に広がり、歯に当たる感触が楽しい。舌に餡が絡むようで、それをお茶で流すと甘みとお茶の香りが引き立って、爽快感を感じることが出来た。

 栗饅頭とお茶に舌鼓を打っていると、頭に何かを感じる。横を見ると、ご主人が俺の髪の毛を指で絡めて遊んでいた。

「おい、何してるんだ」

「いやぁ、髪の毛結構伸びたなぁ、と思ってさ。蕨、そろそろトリミング行く?」

「美容室なんてもったいねぇだろ。伸びたら適当に切っときゃぁいいんだよ」

「えぇ、お前犬の姿だった時は、あんなに自分の毛を誇らしくしてたのに」

「人化する前の話だろうが!」

 そう言った後、俺は皮肉げに笑って、自分の首に巻かれている黒いゴム状の帯を人差し指と親指で摘んだ。

「どうしてもっていうんなら、この『首輪』に命令を出してみるか? ご主人が持つ『手綱』を使ってさ」

『首輪』とは、隣人化現象が起こったペットの位置情報や健康状態を管理するための、拘束具のことだ。逆に『手綱』は人化したペットを管理するための捕具で、生体認証で定められた飼い主が、自分のペットの躾を行う時に利用する。簡単に言えば、人化して暴れたり手に負えないようなペットがいた場合は、『手綱』から命令を送ると『首輪』から電流が流れる仕組みとなっている。事実上、ペットが主人に逆らうことは出来ない。

 だからもし、俺に対して何か気に入らないことがあれば、ご主人はその左手に巻かれたスマートウォッチの様な『手綱』を使って、俺を自分の思う通りに躾けることが出来るのだ。

 だが『手綱』のことを言われたご主人は、苦虫を百億匹程噛み潰したような表情を浮かべている。

「お前、僕が『首輪』も『手綱』も法律で定められてるから仕方なく付けてるだけだって、知ってるだろ? 本当はこういうの、ない方が一番いいんだって」

「でも実際、普通の人間は人化したペットには腕力じゃ敵わねぇだろ? 俺がご主人の寝首をかこうとしたら、どうすんだよ?」

 そう言うとご主人は、口角を吊り上げる。

「だから、さ。それも含めて、躾をちゃんとしてないペットの主人が悪い、って話なんだって。特に犬なんて、やたらめったら噛みつかないように子犬の時から躾けとくのは常識だよ。だからもしお前が俺に噛みつこうとするんなら、蕨がまだ白いポメラニアンだった頃の躾が良くなかった、僕の責任ってだけさ」

 そう言われると、俺は二の句を継げなくなる。

 誤魔化すように栗饅頭を一気に口にして、俺はお茶を流し込んだ。

「そういう理想論を言うんなら、ちゃんと仕事して、俺のこと見返してくれよ!」

「だから、僕はそういうの求めてないんだって。実際、蕨だけでなんとか解決出来るような依頼ばかり来てるんだし」

「いいから! 今度こそ、ご主人が表に立って事件を解決してくれよ! この後依頼人が来るんだからな!」

「はいはい」

 そう言って笑いながら、ご主人は御盆に湯呑二つとお皿二枚を乗せて、台所へと去っていった。

 

 ***

 

 タブレット型の端末から音を出しながら、俺はニュースを眺めていた。

『続いてのニュースは、園本財閥のご令嬢、園本 藍(そのもと らん)さんが襲撃された事件の続報です。藍さんは昨日の夕方頃、学校帰りに身元不明の集団に襲われ、その後消息がわからなくなっているということです。現場のリポーターの佐藤さんと中継が繋がっております。佐藤さん?』

『はい、現場の佐藤です。私は今、藍さんが通われていた小学校前に来ています。藍さんはこちらの校門前で迎えの車に乗った後、大通りを出て高速道路へと向かったということです。襲われたのは高速道路に入ってすぐということで、通報された方のお話ですと、発砲音の様な音も聞こえた、とのことでした。藍さんを乗せた車はなんとか高速を降りたということですが、そこから先の行方は判明しておらず、現在消息を絶っているということです。警察の調べによりますと――』

「いやぁ、なんだか大変なことになってるみたいですねぇ。園本さんの所」

 そう言って、ご主人が事務所の扉を後ろ手で閉めた。今日は彼が買い出しの当番なのだ。そんなご主人に向かって、俺は呆れながら口を開く。

「何他人事みたいな事言ってんだよ、ご主人。俺たちもいつかこういう事件をできるようにならねぇと、いつまで経っても地味な仕事ばっかりだぜ?」

「いいんですよ、僕はそういう目立つような事するのは。むしろ、日々自堕落に過ごすほうがよっぽど性に合ってますから」

「だからって、こんな場所でくすぶってたんじゃ――」

「ほら、蕨餅買ってきましたよ」

「食べる!」

 俺は速攻でご主人から蕨餅を受け取ると、冷たさを維持するために、そして形が崩れないように、丁寧に冷蔵庫へしまう。

「お茶は、俺の方で入れちまっていいのか?」

「熱さの加減ができそうなら、どうぞ」

 準備は素直にご主人に任せることにして、俺は彼が買ってきた品々を所定の場所に入れたり、補充をする作業を行っていく。その後、蕨餅をお茶請けとしてご主人が入れてくれたお茶を啜っていると、階段を登ってくる足音に気がついた。

「どうやらお客さんみたいだぜ、ご主人」

「何人?」

「今のところ、一人」

「なるほど。蕨は鼻だけでなく、耳もいいよねぇ」

「犬だからな」

 そう言いながら、俺とご主人は湯呑や蕨餅を食べ終えた皿を台所へと持っていく。そのままご主人はヤカンでお湯を沸かし始め、俺はテーブルを雑巾でさっと拭いて、残った蕨餅のきな粉を消し去っていく。タブレット型の端末の音声をミュートした所で、事務所の扉が叩かれた。俺は雑巾を壁脇のバケツへ放り込むと、そのまま歩いて扉を開ける。

 扉の向こうには、ハンカチで汗を拭う、眼鏡を掛けた小太りの男性がいた。

「いらっしゃいませ」

「あの、こちら、フチノ探偵事務所でお間違いないですか?」

 そう言いながら、男は俺の首元にある『首輪』を一瞥する。人化した動物であることを確認する人間は多いので、俺は気にせず言葉を紡いでいく。

「そうです。ご依頼ですか?」

「は、はい、そうです」

「では、こちらへどうぞ」

 そう言ったのはご主人で、彼は御盆に湯呑を乗せて、俺たちが先程まで茶をしばいていたテーブルへと、来客を誘導する。漂ってくる匂いから、普段俺たちが飲んでいるような安物の茶葉ではなく、来客用の少し高級な茶葉を使っていることが俺にはわかった。

 俺とご主人は隣り合ってソファーに座り、来客も向かいのソファーへと腰掛ける。眼の前の男性は汗を拭いながら、懐から名刺を差し出した。

「申し遅れました。わたくし、園本財閥の社長秘書を務めております、稲畑 孝蔵(いなはた こうぞう)と言います」

「ああ、これはこれは、ご丁寧にどうも。えぇ、っと、僕の名刺は、あ、あったああった。こちらになります」

 名刺を交換するご主人たちをよそに、俺は軽く目を見開いていた。

「園本と言うと、あの園本財閥のことですか?」

「はい。今ニュースを賑わせている、あの園本財閥です」

 俺は先程まで見ていたニュースの内容を思い出す。

「ご令嬢の行方がわからなくなっている現状で、稲畑さんは俺たちにどんな依頼をされるんですか?」

「その、ご令嬢の藍様を見つけ出して欲しいというのが、今回の依頼になります」

 そう言われて、俺は思わずご主人の方を振り向いた。いつかこういう事件をしたいとは言っていたが、まさかこんな形で事件に関われるとは思っても見なかった。一方ご主人は、腕を組んで僅かに考え込む。それを話を続けてもいいというサインと受け取ったのか、稲畑さんは口をまた開いた。

「今回、藍様が、いえ、園本財閥が狙われたのは、最近問題となっている、人化した動物の権利問題に取り組んでいるためです」

 そう言われて、俺は僅かに唸る。人間の様な姿に俺たちはなったが、あくまで俺はご主人のペットだ。人権は与えられておらず、隣人化現象発生時にはそうしたペットたちに対して、過酷な労働や虐待を行っていた事例が数多く存在する。今でも非合法の犯罪集団が人化したペットを使って犯罪に使おうとしており、洗脳、虐待に親しい教育をペットに対して行っている団体は、定期的に摘発されていた。

「園本財閥としては、企業のイメージアップ戦略として、今季から人化した動物の権利問題に着手し、動物の権利について国に訴え、動物について労働環境などの法案を作ろうと画策していました。ですが、それだと困る犯罪集団から恨みを買ってしまったようなのです。再三、権利問題から手を引くようにと脅迫状が会社宛てに届いたのですが、社長はそうした犯罪者からの要求には屈しないと、全て無視していました。ご家族の安全を考えて皆様に護衛も付けていたのですが、昨日藍様が護衛と共に襲われてしまい、行方がわからなくなっているのです」

「けっ、自分勝手な連中だ」

 犯罪者たちへの怒りで、思わず悪態が零れ落ちる。それと同時に、自分が人化したのがご主人の元で良かったと、心のそこから思った。逆に犯罪集団の元で人化していたなら、どんな目にあっていたのか、わかったものではない。

 そう思っている俺の隣で、ご主人が手を上げている。

「稲畑さん。どうして、僕らに藍さんの捜索を依頼するのでしょう? 警察も動いてくれているみたいですし、こういってはなんですが、僕らみたいな零細探偵事務所なんかより、余程そういう荒事に長けた事務所はあると思うので、痛っ!」

 俺に足の脛を蹴られたご主人が、恨めしそうにこちらを向いている。でも、今のはご主人が悪い。

 ……せっかく大きな仕事を依頼されそうなのに、何断ろうとしてるんだよ!

 そう思いながら、涙目のご主人を、逆に俺は睨み返した。机の下で足の蹴り合いが始まるが、そんなことを知る由もない稲畑さんは、素直にご主人の質問に答えていく。

「それは、社長から言われていたためです」

「園本さんが?」

「はい。娘に何かあれば、フチノ探偵事務所を頼るように、と」

「……そうですか」

 そう言って、ご主人はまた腕を組んで黙り込んだ。その様子を訝しみながら、俺は口を開く。

「報道に出ている以外に、藍さん捜索のための、何か手がかりになりそうなものはありませんか?」

「襲撃された際の遺留品などは、警察が全て押収しております。ですが、昨日藍様がお召になった体操服を学校に忘れているようでして、そこから匂いを辿れれば、と考えていたのですが」

 稲畑さんの言葉に、俺はしめた、と思った。捜索対象の匂いを元に行方を探すのは、俺が得意とする分野だ。小学生の体操服を握りしめ、匂いを嗅ぐスカジャン姿の青年という絵面はそれはそれで通報案件ではあるものの、今回は人命がかかっている。逆に犯罪者に藍さんの身柄を確保されてしまえば、園本財閥としても窮地に立たされ、人化した動物の権利についても影響が出てしまうかもしれない。

 ……それに、この事件を解決したら、ご主人がまた、表舞台に立てるかもしれない!

 今でこそこんな零細探偵事務所に落ち着いているが、ご主人はもっと大きなことが出来る人だ。この事件をきっかけに、もっと、もっと活躍して欲しいと、俺はそう考えている。

 そう思っている俺の隣で、ご主人が口を開いた。

「ちなみに、ご依頼料の方は、いかほどでしょう?」

「前金で二百万円。成功報酬として、さらに三百万円でどうでしょう?」

 ……合計、五百万円!

 稲畑さんの提示した金額に、俺の脳内は大量の円マークで埋め尽くされる。それだけの金があれば、事務所の設備ももっと良く出来るし、新しい事務所に引っ越すことだって出来るかもしれない。

 依頼を受けようと、俺が口を開くよりも早く、ご主人が手を上げて俺の動きを制した。

「内容が内容ですので、一度お引き受けするか検討の上、ご連絡という形でもよろしいでしょうか?」

「……何か、ご懸念でも?」

 首を傾げた稲畑さんへ向かって、ご主人が口を開く。

「いえね、犯罪者相手なもんですから。それに警察に睨まれると、僕らも商売し辛いので、根回しがどこまで出来るのか、確認したくて」

「そうですか。わかりました。ですが、回答はお早めにお願いできますでしょうか? わたくしどもとしましても、一刻も早く藍様の居場所を突き止めたいので」

 では失礼します、と言って、稲畑さんは事務所を後にした。結局彼が一口も口をつけなかったお茶を片付けているご主人に向かって、俺は怒りをぶつける。

「おい、ご主人! 何であの依頼即決で引き受けなかったんだ? 匂い嗅いで居場所見つけるだけなら、他の依頼と変わらねぇじゃねぇか! それに五百万も手に入るんだぞ? 引き受けない理由なんてねぇだろ?」

「うーん、僕はもう少し、慎重になった方がいいと思うんだけどなぁ」

「……具体的には、どこにご主人は引っかかってんだよ」

「僕らに依頼を持ってきた所」

 台所から戻ってきたご主人は、俺に向かって何かを投げる。受け取ると、この前俺が買ってきた栗饅頭だった。既に封を開けて同じものを食べ始めたご主人へ、封を開けつつ、俺は疑問の声を上げる。

「それは、園本財閥の社長ご指名だった、って言ってたじゃねぇか」

「いや、護衛付けてたんでしょ? 僕らに頼らなくたって、園本さんなら自分の配下でなんとか出来ると思うんだよねぇ」

「……そういや気になってたんだけどよ。園本さん園本さんって、ご主人園本財閥の社長と知り合いなのか?」

「お前を拾う前に、一回仕事で会ったことがある」

 そう言って栗饅頭を食べ終えたご主人は、ソファーにどっかりと座る。その前、テーブルの上には、先程稲畑さんが置いていった名刺が置いてあった。俺も栗饅頭を口の中に放り込んで、先程まで稲畑さんが座っていたソファーへ腰を落ち着けて、目の前のご主人へと視線を向ける。唇を舐めた後、ご主人が口を開いた。

「それにさ。体操服なんて捜索に必要なもの、何で警察に渡さないんだろうねぇ。それこそ、警察には警察犬だっているんだしさ」

 ここでご主人が言った警察犬とは、俺のように人化した警察『犬』のことだ。当然彼らも鼻はよく、行方不明者の捜索も行えるだろう。

「でもさ、ご主人。護衛を自分たちで出して娘を守れなかったんだから、それこそ会社のイメージが下がっちまうんじゃねぇのか? だから外部の俺たちに助力を頼んで、最終的に自分たちの力で解決したことにしたいんじゃねぇか?」

「それこそ、さっき言った通りだよ。自分たちの配下にやらせればいい。人化したペットもいるだろうし、匂いも追えるだろう」

「じゃあ、稲畑さんが社長から言われたって、嘘をついてるって可能性は?」

「それこそ、嘘を言う理由がわからないよ。いずれにせよ、園本さんか稲畑さんの意図を明らかにしてからじゃないと、僕は依頼を受けるのは危ないと思うんだけどねぇ」

「……そんな事言って、本当は働くのが嫌なだけなんじゃねぇか?」

「まぁ、それもなくはないかな」

 その言葉に、俺は思わず舌打ちをした。

「あのなぁ、ご主人。よく考えろよ。五百万だぞ? 五百万! 小学生の居場所見つけるだけで、五百万入ってくるんだぞ! しかもこの事件は、今世間で注目されてるんだ! この事務所が事件を解決すれば、依頼ももっと増える。大きな仕事だって出来るようになるかもしれないんだぞ!」

「それで蕨が怪我したら、元も子もないだろ?」

 あまりにも真っ直ぐにそう言われて、俺は一瞬鼻白む。だが、俺もここで引けなかった。そんなご主人だからこそ、こんな所でくすぶらせて良い訳がないと、自分の決意を新たにする。

「だったらいいよ! 俺一人でこの件は受けるから!」

「あ、おい! 蕨っ!」

 テーブルの上にある稲畑さんの名刺を奪い去ると、俺は一人、事務所を後にする。俺は先程固めた決意を胸に、階段を降りていった。

 ……だって、ご主人がこんな所にいるのは、俺のせいなんだから。

 だから俺が、彼を元の場所へ、こんな雑居ビルではなく、光り輝く表舞台へと、連れ戻さないといけないのだ。

 

 ***

 

 稲畑さんに連絡をして藍さんの体操服を受け取って匂いを嗅ぎ終えた時には、日はもうすっかり沈んでいた。街灯が煌めき、道行く車はハイビームで暗闇を照らしている。そんな中、俺は藍さんたちが襲撃を受けたという高速道路を走っていた。

 そう、文字通り走っている。

 暗闇に紛れるように、俺はガードレールの上を痩躯していた。

 ……流石に、道路を走ると車が邪魔だからな。

 爪先立ちでバランスを保ち、車を追い越す速度で走っていく。車で下校していたということで、今のところ藍さんの匂いの残滓みたいなものは感じることが出来ない。しかし、報道では高速道路のどこで降りたのかまではわかっている。行方がわからなくなった場所まで行けば、何かしら残っているはずだ。暫く走ると、藍さんを乗せた車が降りたとされる料金所が見えてくる。

 俺は膝を曲げて、その場で跳躍を行った。車であれば料金所から一般道へ入るまで円を描くような道を走らなくてはならないが、俺にはそんなもの関係ない。それらをショートカットするように飛び降りた後、俺は一般道へと着地した。

 ……ん? ちょっと、残っているか?

 空気中に漂う匂いの残滓を嗅ぎ取り、俺はその匂いのする方へ向かっていく。匂いは水に溶かした墨が四方へとうねる様に広がっていっているが、その中でもより太い方へ、太い方へと俺は向かっていった。

 匂いの先はどんどん町外れへと、向かっていかない。むしろ、住宅地からオフィス街へと向かっていく。今の時間は通勤を終えたサラリーマンたちが帰宅するために移動しているが、俺はその人の流れに逆流する形で足を動かしていった。そして、ある建物の前で、足を止める。

 ……なるほど。改修中のビルか。

 外壁が落下しないように、目の前のビルには鉄パイプと防音、防火を兼ね揃えたシートが巻かれている。これなら、中で何が起きているのか外からはわからない。匂いを辿って、俺はビルの中へと入っていく。だが匂いは、このビルのエレベーター付近でなくなってしまっていた。おそらく藍さんは、このエレベーターで移動したのだろう。匂いの続きは、藍さんが降りた階に行かなければ感知することが出来ない。

 俺はその横に掲示されている、フロア表示へと視線を移す。見ると、地上階は会社のオフィスとして使われていることがわかる。それよりも俺が気になったのは、地下の方だ。

 ……倉庫になってるってことだけど、逆に言えば荷物を移動させれば人が過ごすためのスペースは出来るよな。

 なら、まず最初に探すべきは地下フロアだ。俺は非常階段を使い、地下へと降りていく。

 すると、匂いの残滓を感じた。

「おい、お前。こんな時間に、何をしている? ここは立入禁止だぞ」

 そう言ってやって来た警備員の男性に、俺は肩をすくめて口を開いた。

「悪い悪い。ちょっと人を探していてね」

「人を? 誰か迷ってここまで降りてきたのか? だが、このフロアはただの倉庫だぞ」

「ただの倉庫? そんなわけねぇだろ? じゃなきゃ何でお前から園本藍さんの匂いがするんだよ」

 そういった直後、警備員は俺に向かって警棒を振るった。だがそんな物、俺には当たらない。躱しながら手刀で警棒を握る手首を強打。警棒が廊下に落ち、警備員の悲鳴が上がるのと同時に、俺は彼の首元へ腕を巻き付けて、気絶させる。だが、ざわめく気配を感じて、俺は舌打ちをした。

 ……しまった。今ので、こいつの仲間に気付かれたな。

 藍さんの名前を出して俺を襲ってきたってことは、こいつらは彼女を襲撃した犯罪集団なのだろう。そして俺がこの場所に辿り着いたタイミングで、奴らも藍さんの居場所に気づき、こうしてやって来ていたのだ。

 ……だったら、藍さんが危ないな。

 ご主人には、藍さんの居場所を見つけるだけだと言って出てきたが、どうもそういうことを言っていられるような場合ではないらしい。俺は稲畑さんに藍さんの居場所をメッセージで送ると、彼女の匂いがする部屋へ一直線に走っていく。

 走る俺に向かって、警棒を構えた男たちが一斉に押し寄せてきた。最初の一人の警棒を躱し、屈みながら二人目の男の右膝へローキックを放つ。男はバランスを崩し、そこに後ろから迫っていた三人目がぶつかった。倒れ込んでくる三人目の顎に左フックを放って意識を刈り取り、後ろに振り向く回転を利用して、俺の背後で警棒を振り下ろそうとしていた男の顎にアッパーを打ち込む。白目をむいたその男が倒れ込む前に、気絶した三人目にのしかかられて身動きが取れなくなっていた二人目の顔を蹴り上げて、気絶させた。

 前を向くと、警備員だけでなくSPのようなスーツ姿の男たちの姿も見える。次々に男たちは襲いかかってくるが、先程の警備員と同じように、俺は彼らを薙ぎ倒していった。

 部屋の扉の前に立つと、俺は扉を開ける。のと同時に、後ろへと跳躍した。その瞬間、部屋の中から二人の男が俺に向かって襲いかかってくる。藍さん以外の匂いを部屋から感じ取っていた俺は、その攻撃を悠々と回避。当て身と裏拳で男たちを気絶させて、部屋の中へと入っていった。

 部屋の中、その隅に、蹲りながら怯えた表情でこちらを見ている少女の姿がある。

 ……見たところ、傷を負っている感じもないな。

 衣類にも清潔感を感じ、不自由な生活を送っている様子はない。でも、それなら藍さんの逃亡生活を手助けしていた存在がいるはずだ。しかしここに来るまで、その様な人達とすれ違うこともなかった。

 疑問に思うが、今は彼女の身柄を稲畑さんへ連れて行くのが先決だと思い、俺は口を開く。

「安心してくれ。俺は――」

「ワンっ!」

 俺の言葉を遮り、一匹の犬が飛び出してきた。茶色い毛並みのトイプードルは俺と藍さんの間に立つと、こちらを睨みつけるように唸り始める。

「マロン! 危ないから出てきちゃ駄目っ!」

「ワン! ワンワンワンっ!」

 マロンというのが、あのトイプードルの名前なのだろう。藍さんはマロンを後ろから守るように抱きしめるが、相変わらずマロンは俺に向かって吠え続けている。その様子を、俺は愕然としながら見つめていた。

 藍さんにはただマロンが吠えているようにしか聞こえないかもしれないが、俺には、犬の俺にはマロンの言葉がわかる。その言葉の意味を理解して、自分がとてつもない勘違いをしていたことに気がついた。

 ……俺がさっき倒した男たちは、藍さんを狙っていたんじゃない。むしろ、藍さんを守っていた人達だったんだ!

「いやはや、こんなにもすぐに藍様の居場所がわかるなんて、流石社長ご推薦の探偵事務所なだけありますねぇ」

 そう言いながら、稲畑さんが部屋に入ってくる。彼は一人だけでなく、屈強そうな男たちを引き連れていた。一様に無表情で黒いスーツ姿の男たちの首には、俺と同じように『首輪』が巻かれている。つまり、人化した動物たち。

 ……匂いでわかるぜ。あいつらは、ドーベルマンだ。

 ドーベルマンたちの『手綱』は稲畑さんが握っており、その稲畑さんに向かって、マロンがよりいっそう威嚇の唸り声を上げる。

 ……そうか。そういうことだったのかよ!

 俺は犬歯を剥き出しにしながら、言葉を吐き捨てる。

「俺たちに持ってきた依頼は、全部逆だったってわけか」

「おや、もう気づいてしまったんですか?」

 そう言いながら、稲畑はハンカチで汗を拭いながら、邪悪な笑みを浮かべる。

「ですが、わたくしの立場からすれば、藍様が身元不明となったというのは、事実だったのですよ。昨日藍様を攫うのに成功していれば、こんな手間はかけずに済んだのですがねぇ」

 つまり、こういう事だ。

 藍さんを襲った犯罪集団。あれは、稲畑が手引して行われたのだ。だが襲撃に失敗し、藍さんは信用できる人たちの手で、ここに匿われていた。

「いやはや、社長が藍様の身柄を一時的に隠すと言われたときは、驚きましたよ。しかも、潜伏先は関係者以外知らせず、秘書のわたくしにすら教えて頂けなかったのですから」

「でも、そいつは慧眼だったんじゃないのか? 身内にお前みたいな奴がいるのを想定して指示してるみたいに聞こえるしな」

「ええ。ですがそうした用心も、全て無駄になってしまいましたね」

 そう言われて、俺は思わず舌打ちをした。慎重になるべきだというご主人の言葉を無視して、結果犯罪者たちの片棒を担がされてしまった。

「でも、何でわざわざ俺たちに依頼なんてしたんだ? そんなにドーベルマンがいるなら、こいつらにだって匂いを追跡することも出来たはずだろ?」

「ああ、こいつらの鼻は、もう駄目なんですよ。うちの組織は、少しばかり躾が厳しいものですから。ですが、それも考えものですね。こうして弊害が出てきてしまった以上、鼻の機能を残すやり方を考えなくては」

 かつてペットだった動物たちを、僅かばかりも気にかけないその言葉に、俺は思わず顔を歪ませる。確かに『手綱』を使えば、簡単に動物たちを自分に従順な存在に育て上げることが出来るだろう。

 ……でもよぉ。そんな関係、俺たちペットが望んでると思ってんのか?

 当然、望んでいるわけがない。かつてこの星にやって来たという宇宙人は、『人間はもっと同族と、同族の隣人を愛するように』と言っていたはずだ。あんな、感情を失ったような顔で人間の隣に立つために、俺たちは生きてるわけじゃない。

 動物と一緒に生活するということは、ペットを飼うということ(ペットオーナーシップ)は、そういうものでは、断じてないはずだ。

「さぁ、どいてください。同じ動物同士、しかもわたくしたちの方が頭数も多い。たとえ人間以下の動物であっても、どうするのが懸命なのかは、野生の本能でわかるというものでしょう?」

 そう言って、稲畑が完全に俺を見下した目で見つめてくる。だが、奴の言ったことは事実ではあった。人間相手ならまだわからないが、同じ犬同士、多勢に無勢で、俺の勝ち目は万に一つもあり得ない。

 だが俺は、睨み返すように稲畑と藍さんの間に立った。先程、マロンがしていたように。

「悪ぃけど、渡すわけにはいかねぇな」

「……どうやら、随分と知能が低いみたいですね。動物の分際で人間に逆らうことは」

「はっ! 確かに俺はご主人の話を満足に聞けないし、お前みたいな犯罪者にいいように踊らされる、ド低能だよ。でもなぁ? 自分のケツも自分で拭けねぇ程無能じゃねぇつもりだし、てめぇみてぇなド畜生に小さな女の子渡す程落ちぶれてもいねぇんだよっ!」

 そう言うと、稲畑は頬を引きつらせながら、口を開いた。

「……なるほど。いいでしょう。言って聞かないのであれば、方法はこれしかありません。わたくしが直々に、人間様に対しての振る舞いを躾て差し上げましょう」

 稲畑がそう言うと、ドーベルマンたちが俺の方へと歩みを進めてくる。無表情の彼らに向かって、俺は踊りかかった。

 一番前の男のみぞおちへ、鋭い右ストレートを叩き込む。拳越しに、確かにダメージを与えた感触があった。だが彼は僅かに息を吐いただけで、右拳を俺の顔へと打ち付けてくる。吹き飛ばされる俺に向かって、稲畑は嬉しそうに、そして嫌らしそうな笑みを浮かべて、こう言った。

「ああ、いい忘れましたが、鼻だけでく、こいつらは痛みも感じません。なにせ躾の過程で、かなりの時間電流を流し続けていますから。過酷な重労働や戦闘に必要な機能以外、全てなくなってるんですよ。もちろん、感情もね」

「……そんな、自分の都合のいいロボットみたいな奴が欲しければ、動物じゃなくて、ロボットを作って使えばいいだろうが」

 痛みに呻きながら立ち上がる俺を、稲畑が不思議そうな顔で見つめている。

「何を言っているんです? ロボットを作るような技術やお金が無駄じゃありませんか。動物なんて保健所で殺すぐらい大量に余ってるんですから、有効活用した方が人間のためになるでしょう?」

 ……ああ、こいつとは一生、わかりあえないだろうな。

 そう思うのと同時に、絶対こんな奴には負けられないという気持ちが、俺の中にふつふつと湧き上がってくる。

 俺は雄叫びを上げながら、ドーベルマンたちに殴りかかる。しかし痛みを感じない彼らは、ほぼ捨て身に近い攻撃でこちらに迫ってきた。どれだけ蹴ろうが殴ろうが怯まず、味方を巻き込むのも恐れずに俺に向かって手を伸ばしてくる。

 なんとか三匹は動きを止めたものの、ついに俺は組み伏せられ、地面を這いつくばう形になっていた。

「やれやれ。一匹相手にこんな手こずって、何をやってるんですか」

 そう言って稲畑は『手綱』を取り出すと、倒れた三匹に電流を流し始めた。電流を流されたドーベルマンたちは、水揚げされた魚のように、地面の上でバタバタと跳ねた。視界の端で、マロンを抱えた藍さんに悲痛の表情が浮かぶ。

 加虐的な笑い声を上げながら、稲畑が俺の方へと視線を移した。

「さて、次は貴様の番ですね」

「いやぁ、そいつは少し待ってもらえませんかねぇ」

 そう言って、この部屋に新たに男が入ってきた。

 無精髭の彼はヨレヨレのシャツとジャケットを着ており、懐から煙草を取り出して、しまった、という顔になる。

「あ、このビルって禁煙ですかね? いやぁ、どこもかしくも禁煙禁煙で、喫煙者には辛い時代になりまましたよねぇ。煙草の値段もどんどん上がるし」

「ど、どうしてお前がここにいるんです!」

「……ご主人」

 驚く稲畑と、呻くように呟く俺に向かって、ご主人は頭をかきながら口を開いた。

「いや、だって蕨の『首輪』にはGPS付いてますからねぇ。場所ぐらいわかりますよ」

「そ、そうだとしても、外の奴らはどうした? 連れてきた犬たちに、この部屋に近づく奴は殺せと命じていたはずなのに!」

「ああ、あの可愛いワンちゃんたちですか? ちょっと遊んであげたら、疲れて寝ちゃいましてねぇ」

 絶句する稲畑に向かって、ご主人は薄ら笑いを浮かべる。

「そういうわけなんで、うちの蕨を返してもらえませんかね? ああ、もちろん園本藍さんたちも一緒ですよ」

「ふ、ふざけるな! お前たち、こいつを――」

 そこまで言った所で、稲畑の腹にご主人の左腕が突き刺さる。稲畑は気絶して白目を向くが、命令は有効のようで、俺を抑えていたドーベルマンたちが一斉にご主人の方へと向かっていった。

 その数、実に七匹。

 痛みを恐れない不屈の番犬たちが、ご主人へと襲いかかる。だがご主人は、彼らの攻撃をまるで風が流れるかのように軽やかに躱していった。そしてすれ違いざま、正確に顎を打ち抜いていく。痛みを感じなくても、骨を伝った振動は脳に伝わる。脳震盪を起こした犬たちが、一匹、また一匹と地面へと沈んでいった。

 ……やっぱり、凄いな。ご主人は。

 俺は確かに、人間より耳も鼻もいい。だが、それだけで遠く離れた藍さんを追跡するのは、不可能だ。警察犬だって、訓練しなければ警察の捜査をサポートすることが出来ない。

 俺に追跡方法や戦い方のイロハを教えてくれたのは、ご主人だ。

 普通の人間は人化したペットには腕力じゃ敵わない。だが、ご主人は普通じゃないのだ。前は、ある特殊部隊の指導教官を務めていた凄腕の精鋭で、本来あの雑居ビルに引っ込んでいていい人ではない。

 でも、ご主人はその第一線から退いた。

 俺のためだ。

 捨て犬だった俺を拾って育てるようになってから、ご主人は仕事を辞めてしまったのだ。だから俺は、どうにかしてご主人をご主人が相応しい舞台へ戻したいと、そう思っていたのに……。

「さて、あらかた済んだと思いますが、もうワンちゃんたちはいませんかね? 蕨」

 ドーベルマンたちを全て倒し終えてたご主人は、埃を払いながら俺に散歩に行くような気安さでそう問いかける。ご主人にはそれぐらい簡単に出来ることが俺には出来なくて、そして勝手に空回りしてご主人の手を煩わせてしまったという後悔に苛まれて、悔しくて歯ぎしりをした。

「……ああ、もう、いねぇよ。匂いがねぇ」

「なんです? また泣いてるんですか? 蕨は本当に出会った時から、人化しても泣き虫ですねぇ」

「な、泣いてなんかいねぇよっ!」

 目元を拭いて立ち上がろうとするが、まだダメージが残っているのかふらついてまだ上手く立つことが出来ない。そんな俺に、ご主人が肩を貸してくれる。

「あららぁ。これはまた、酷くやられましたねぇ。スカジャンもボロボロじゃないですか。何か新しい服を買いましょうね」

「……嫌だ」

「あら? どうしてです?」

「……だって、ご主人が最初に買ってくれたものだから」

「本当に、強情ですねぇ。そういう所は、人化しても変わりませんか」

「……うっせぇな」

「まぁ、人化しようが犬の姿のままだろうが、蕨は蕨ってことなんですかねぇ。ああ、それから藍さん」

「は、はいっ!」

 怯えたようにマロンを抱いている少女が、震える声でご主人の方へ顔を向ける。一方彼女の手の中に収まっているマロンはもう唸っておらず、落ち着いた表情を浮かべていた。

 ……そうか。お前も、ご主人は大丈夫だって、わかるのか。

 そう思っている俺をよそに、ご主人は無精髭を撫でながら、口を開く。

「うちの子(ワンコ)が焦って、とんだご迷惑をおかけしました。愛之助(あいのすけ)さんには連絡してますんで、すぐにお迎えがいらっしゃると思います」

「お、お父様を、ご存知なんですか?」

「ええ。ちょっと縁がありまして」

 では、僕らはこれで、と引き上げようとしたご主人の背中に、藍さんが言葉を投げかけた。

「あ、あの!」

「はい? 何でしょう?」

「お二人は、その、とっても、仲がいいんですね。わたしもマロンとお二人みたいになりたいんですけど、どうすればなれますか?」

 俺たちみたいに、というのは、ここではマロンが隣人化現象にあう、つまり人化することも含まれているのだろう。だが、その隣人化現象の原理は現在では全く解明されていない。

 どう藍さんに答えるのかと思ってご主人の顔を覗くと、彼は嬉しげに笑っていた。

「そのワンちゃん、マロンは、あなたにとって大切な存在ですか?」

「は、はい! 大切な、わたしの家族です!」

「なら、そのまま接してあげてください。もしマロンが何か間違ってしまったとしても、傍にいて、どうすべきだったのか、根気強く教えてあげてください。そして、どうしてマロンが間違ってしまったのかも、一生懸命考えてください。人間だって、気分のいい時もあれば、悪い時もあります。それは、人間だって、ペットだって、変わりはありません」

「そうやって接していれば、マロンはずっとわたしの傍にいてくれますか?」

「あなたがマロンが一緒にいたいと思えるような人であり続ける限り、一緒にいてくれますよ。ペットは大切な僕らの隣人であり、家族であり、相棒(パートナー)なのですから」

「わかりました。ありがとうございます!」

「では、失礼しますね」

 そう言って今度こそ、俺たちは部屋を後にする。ビルを出ると夜が更けて、風が少し寒くなっていた。ご主人は俺に肩を貸しているので、歩くスピードはかなりゆっくりになっている。

 町の街灯に照らされながら、ご主人は溜息を吐いた。

「全く。僕が園本さんと面識があるって言ってるんだから、裏取りする時間ぐらい待っていてくれてもいいじゃありませんか」

「……悪かったよ」

「せっかちなのは、犬の姿だった頃と全く変わりませんねぇ。変わったのはこの身長に、体重ぐらいですか。でも、これは重くて、中々支えるのに苦労しますねぇ」

「……だったら、俺、犬のままの方がよかったのか?」

「まさか。こうやって話せるんだから、格段にこっちの方がいいですよ。何考えてるのかわかりますし」

 まぁ、わからないのを考えながら接するのも楽しかったですがね、とつぶやいた後、ご主人は小さく笑ってこう言った。

「だから、蕨も、ちゃんと話してくださいよ」

「だってご主人、仕事の話すると、嫌がるし」

「それは蕨が大変な仕事を僕に受けさせようとするからでしょ?」

「でも、それじゃあご主人がっ!」

「だから、いいんですって。本当に、気にしなくても」

 夜の町を、二人でゆっくりと歩いていく。車のクラクションや酔っぱらいたちの喧騒も聞こえているのに、ご主人以外の声が、全く気にならない。

「何も、僕が仕事を辞めたのは、お前を育てるからっていう理由だけじゃないんですよ。教官の仕事は、仇討ちが終わって抜け殻みたいになっていた僕に友人がとりあえず与えてくれた役柄で、何となく続けてただけだったんですから」

「……仇討ち」

「昔、仕事でいろんな人から恨まれましてね。妻と子供もいたんですが、逆恨みにあって殺されまして」

「そんなっ!」

「だから、仇討は終わってるって言ってるでしょ? それで、何となく教官を続けていて、何となくただ生きていて。そんな時ですよ。お前を拾ったのは」

 あれは、雨が降っていた夜だった。俺が入れられていたダンボールは水浸しになってひしゃげ、このままでは凍えて死んでしまうと、俺は捨てられていた公園から離れ、手当たり次第道を彷徨っていたのだ。

 でも、当時子犬だった俺が移動できる距離なんて、たかが知れている。体温が下がり、意識も遠ざかって、水たまりに顔から突っ込んだのだ。その水たまりから顔を上げる体力もなく、凍え死ぬ前に窒息死しそうになっていた、その時。

 ご主人が、俺の首根っこを持って、その地獄から引き上げてくれたのだ。

『お前も、独りなのか?』

 それが俺と、ご主人の出会いだった。

 ご主人が言っていた通り、俺はあの水たまりの中で死にそうだった時のままの、どうしようもない犬だけど、あの時決めた決意も、変わらずあの時のままだ。

 命を救ってくれたこの人のために、これから先俺は生きようと、そう誓ったのだ。

 ……でも、ご主人の役に立てるようになるのは、まだまだ時間がかかりそうだな。

 少しだけ無言になって、夜道を歩いて行く。いい加減俺を抱えるのが腰にきたのか、ご主人はタクシーを止めるために手を上げた。

「何はともあれ、ひとまず無事だったんでよかったですよ。事務所に戻ったら、傷の手当をしましょうか」

「……ああ、そうだな」

「傷口に薬が染みそうですねぇ」

「……ちゃんと、優しくしてくれよ」

「はいはい、わかりましたよ」

 やがてタクシーが俺たちの前に止まり、その中へ独りと独り。一人と一匹が乗り込んでいく。

 タクシーの扉が閉まると、車は俺たちの家まで向かって、ゆっくりと走り始めた。

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