第20話 菅木明日葉


 夏コミが終わった。


「──はっ!?」


 俺は愕然としてあたりを見回す。

 夢から覚めた心地というか時間がいきなり飛んだ感じだが、あいにく夢でも時間跳躍でもない。

 いまは八月十五日の午後四時。立ち尽くしているのは東京ビッグサイトの出口近くだ。祭りが終わり、最後に残った参加者たちが帰路につくべくぞろぞろと出口から出ていっている。


「う……うっそだろ……おい……」


 呆然としながら俺は手にした本を見る。

 百部(おまけとして印刷所からもらった余部を合わせれば厳密には百部より多いが)刷った今回の新刊。オリジナルのラブコメ漫画をチュイッターに投稿し続け、それをまとめた本だ。

 百部の頒布を目標にして、今日まで打ち込んできた。


「なんで……」


 我ながら頑張ったと思う。執筆作業はもちろん、宣伝も力を入れた。当日のために大判ポスターだって発注して掲げた。

 過半数の六十部ほどは開場から正午までに捌けた。これなら目標の完売もいけると踏み、最後まで粘った。それこそ四時の閉場になるまで、最後の一秒も無駄にすまいと地道に呼び込みの声を上げて頒布した。

 その結果が──


「なんで……あと一冊で目標達成なのに売れ残るんだよぉぉおぉ!」


 サークル「アルマジロの呼び声」。

 九十九部の頒布を達成。

 百部頒布ミッション、失敗。

 呆然としすぎていまのいままで意識が半ば飛んでいたのだ。


 ほとんど百部なんだからいいじゃないかと理性はなだめてくるが、俺の心の中のオイスター先生が「九十九は百じゃありませーん」と煽ってくる。


「ち……畜生……ていうかあいつ、急に欠席しやがって……」


 てりぃ先生だって俺のサークルに立ち寄って本を買っていってくれたのだ。オイスター先生がこの夏コミに来ていれば一冊買ってくれたはずだ。そうしたら百部頒布達成できたのに──

 俺は黙る。

 それから、スマホを取り出してオイスター先生の番号を押した。


 しばらくしてから、いつもより微妙に低い声が電話に出る。


「……なに? 十郎」


「夏コミが終わった。俺の本一冊とっといてるけど、おまえいる?」


 少しの沈黙。ややあって、


「……いる」


「そっかーそれじゃ持ってくわ! ついでに一緒に夕飯でも食おうぜ!」


 通話を切ってスマホをしまう。

 よし……これで当日中に百部頒布達成と言い張れる。

 ガッツポーズをして、俺は荷物を抱えながらりんかい線のホーム目指して歩き出した。





「持ってきてもらって悪いね……別々の出版社からのおしごと、締め切りを取り違えちゃってて、今しがたまで突貫作業中だったんだ……夏コミ行けなかったし三日徹夜した……」


「お、おう……こっちがごめん……」


 目の下にクマを作って死にそうな様子のオイスター先生に出迎えられて、俺は恐縮する。

 吉祥寺のマンション、午後五時。

 いつものTシャツにホットパンツ姿のオイスター先生は、ふらふらしながら「いいよぉ別に。ちょうど終わったしぃ」と言いながら作業デスクの前に座る。


「見せて。十郎の本」


 俺から受け取った本をオイスター先生はその場でめくりはじめる。少し気恥ずかしい。

 読みながらうん、うんとうなずいて、


「ほんと上手くなったねえ……十郎」


 ストレートな称賛。

 その口の端にはほのかな笑みが刻まれている。眠いからか、ふだんと違って煽る態度のかけらもなく、彼女はわがことのように嬉しさを表している。

 俺は急に、先ほどから感じていた居心地悪さを自覚する。


 素直なオイスター先生のそばにいると、妙に心臓がどぎまぎするのだ。

 その主たる理由のひとつに、ためらいながらも俺は言及する。


「なあその……俺も人のこと言えないけどさ。没頭してると忘れがちだし。そもそも仕事でそんな余裕すらなかったのもわかるし」


「……? 何いってんの、十郎?」


「その……風呂も入れよ」


 居心地悪げにもぞもぞしながら俺は言う。

 冷房の風弱めの部屋に、オイスター先生の甘くも発酵したような匂いが充満している。


 それは俺的には悪い匂いじゃないのだ。けれど、その濃厚な女の匂いは俺の男としての部分を刺激してくる。

 なんていうか……その……あえて露骨な言い方すると、メスくせぇ……


 ぽかんとしてこっちを見ていたオイスター先生の顔がしだいに火照っていく。


「あ、あ、あわっ……い、息吸うなー!」


「無茶言うなよ……」


 完全に真っ赤になって俺の本をデスクに置き、オイスター先生は椅子からはねあがるように立ち、


「窓開けてっ、いっ、いますぐシャワー浴びてく──わあっ!?」


 バスルームに駆け出そうとして俺の横でけつまずいた。


「わっ、ばか!」


 とっさに俺は腕を伸べて、派手に転ぶところだったオイスター先生を横から抱き支える。

 腕のなかに、だぷんと乳房の重みが弾んだ。

 小柄な体から伝わる体熱と柔らかさ。太っていないくせに尻も太もももむちむちの、豊満に詰まった極上の肉感。間近でぶわっと立ちのぼる、雄を煽る発酵した体臭。

 がっしり抱き止めたほんの一瞬で、ぐわんと理性が揺らされる。


「へぁ、ぁ、じゅうろ……」


 恥じらいに震える小声を間近に聞きながら、友達に抱くまじき感想を抱いた。


 ──こいつってすごく抱き心地がいい。


 気がつくと彼女を抱き上げ、ベッドに横たえていた。

 のしかかるように身を乗り出すと、びくっとオイスター先生が目を閉じる。


 ──ん? 何してんの俺?


 一拍遅れでまともな思考が戻ってくる。


「うおっ!? いいいいや、まずちょっと眠れって言いたくてな!?」


 煩悩にクリティカルヒットもらってダウンしていた理性、レフェリーのカウント9ではねおきた格好。敗北寸前の起死回生。

 苦しい言い訳をした俺を、ベッドに横たわったオイスター先生が薄目を開けて見上げてくる。とろんとした表情。


「十郎」


 腕が伸びてきて、覆いかぶさっていた俺の首に回された。

 仰向けのオイスター先生は、そのままころんと横に転がる。必然、俺も彼女にうながされるようにして、向き合ってベッドに転がる形になった。


「すき」


 抱きついてきたオイスター先生……菅木が囁く。


「え、おい、す、菅木……」


「好きだよ、十郎」


 熱い呼気に乗せて、想いが耳朶にとどく。


「ずっと好きだよ、気づけよばかぁ……」


「ず、ずっと、って」


「言っとくけど、ぼくみたいなカワイイ女の子にさ、寄ってくる男いなかったわけないじゃん。プロになって社会に出てからいっぱい声かけられたよ」


「え、……そうなの?」


「それぜんぶ断ったの、だれのせいだと思ってるんだよぅ」


 見た目はともかく中身残念なので浮いた話ないんだろうなと思ってました。

 とかぶっちゃけない程度には俺だって空気は読む。


「……ぼくがひきこもってた中学の時、三年間毎週毎週、『先生に様子見ろって頼まれた』ってうっとうしく家に来るやつがいてさあ」


 う。


「部屋になんか入れてやらなかったのに、いつも学級新聞だけ持ってきて『読んでくれよ』ってドアの下からすべりこませてきて」


 ……俺、新聞部として学級新聞書いてたんだよな。当時。

 下手なファンタジー冒険譚を連載なんかもしてた。俺の、正真正銘の最初の作品。


 行き当たりばったりで展開を考えて、まともなオチもつけられなかった黒歴史の小説だけど、当時は大傑作だと思ってた。

 学年でただひとり俺の小説を読まない奴がいるってことが腹立たしかった。俺の傑作小説で心が動いて、学校くるくらい元気になるんじゃないかとも思った。


 だから家に押しかけて、そいつにも読ませた。

 自己顕示欲と思い上がり……ただそれだけだった。


「会ったこともないクラスメートや先生の、学校来いって寄せ書きはいつもすぐ捨てちゃったけど……うちに来るそいつは『学級新聞の小説読め』以外強要しなかった。だからそいつの小説は読んでた」


 やがて、こいつがドアを開けてくれて。シーツをかぶって怯えながらではあったが。

 部屋の中に入れられて、ゲームをしながらぽつぽつ話すようになって。


「一年経つころには、そいつが来るのを楽しみにしてた。

 待ってるあいだ、そいつの小説読みながら挿絵こっそり描いてみたりして」


 ……初耳なんだけど!? こいつ俺の黒歴史小説に挿絵つけてたの!?


「そいつは、ぼくが絵を描いてるって打ち明けても笑わなかった。

 ぼくがひとりで描いてた練習絵を見せたら、すごいすごいって褒めてくれた」


 それは……たしかに褒めた。

 真実、こいつ絵が上手いと思ったから。ほかの創作者に敬意を抱いたのはあれが初めてだった。

 無理に学校来させようとは思わなくなるくらい、こいつの絵は輝いて見えたんだ。


「『俺、小説家になるからさ。おまえ挿絵描けるくらい偉くなれよ。俺が文章、おまえが絵描いて本にしようぜ』って言ってきてさ。ふふっ。ぼくあれで絶対プロ絵描きになるって決めたんだよ。

 夢、かなったね。僕が先にデビューして、数年して十郎が追いついてきて……

 スタリオン戦記。ぼくらの作品こども、出版できた。

 残念なことにすぐ死んじゃったけど……」


 抱き合うかたちで横たわって、紡がれる昔話を聞きつづける。


「ねえ十郎。親も放置してたぼくの相手をひとりだけしてくれて、絵を褒めてくれて、将来いっしょに本作らないかって誘ってくれて──

 この世で一番近くに来てくれた男の子を、この世で一番好きになったっていいじゃん。

 順当な、つまんない恋、したっていいじゃん」


「菅木……」


「あは、『オイスター先生』じゃなくなってる。昔みたい」


 安心しきった表情で身を俺にゆだねて、首筋に鼻を寄せてすんすんと嗅ぎ、


「十郎のにおい……子宮がきゅんきゅんする感じになるぅ……

 ああ、これすき、大好き、十郎……好き」


 熱に浮かされたように火照りとまどろみが入り交じる声。


「ねえ……次の作品こども、作ろうよ。

 十郎が文章書いて、ぼくが絵を描いて……

 出版社じゃ打ち切られちゃうなら、ふたりで出そう? そういうこともできる時代だよ。

 次こそぜったい死なせない。ぼくは──十郎の小説も好きなんだ」


 蠱惑的な──詐欺みたいな本気の甘い話。

 くらくらしながら、俺は苦渋の声をなんとか出す。


「俺は……文章が書けなくなってるんだぞ。もう一年近くも」


「治るよ、いつか。ぼくが養ったげるよ。ぼくの年収なら余裕だよ。

 治らなくたっていい。ずっとうちにいて、いつか治るって夢を見ながら生きようよ。

 どうせもうすぐ、十郎はぼくのものになる。そのために賭けをしたんだから」


「……なんのためにあんな賭けを言い出したのかずっと謎だったよ」


 奴隷だなんて言いだして、てっきり俺をおちょくるためかと思っていた。

 まさかこんな、なんのひねりもなくそのままの……。


 菅木が俺の首に回した腕にぎゅっと力をこめて密着してくる。むにゅん、と互いの胸板のあいだで豊満な乳房がつぶれる。濃密な女の肌の香。俺の心臓がはね、どくんどくんと心悸が脈打つ。

 桜桃のようなぷるんとしたくちびるが、間近から眠たげな声で囁いてくる。


「十郎の小説、好きだけど……文章を書けなくなった十郎も悪くないな、同じ絵の世界で生きられるもん……

 絵をもっと教えてあげる。立派な絵描きに育ててあげる。

 十郎になら……どんなことだって、してあげる……」


 徐々に声が間延びし、ゆるゆると消えていった。

 心臓を暴れさせながら俺は菅木の腕をやんわり引き剥がす。

 菅木──オイスター先生の目は閉じられて、健やかな寝息を立てていた。


 ……寝落ちかよ!




 オイスター先生を残してマンションを出る。

 マンション前の公園で自動販売機から缶コーヒーを買う。夕陽を浴びつつ、俺はブランコに座ってコーヒーを一息に飲み干した。

 そして、頭を抱えた。


「うおおお、あっっっぶねえ……親友に手を出すところだった……」


 あいつが寝落ちしなかったらマジでヤバかった。

 えー……ていうか、


「マジかー……」


 告白された、のか? 俺……あいつに?

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