第19話 炭火


 コンクリートも限界まで夏の熱を帯びた午後三時、MARUYAMA近くのカフェ。


「オイスター先生が私にようやく心を開いてくれたのは、出会って何回目かの打ち合わせ──」


 エアコンが効き、インテリアも目に涼しげな店内。

 俺と向かい合った編集者の陳さんが、コーヒーカップを持ち上げながらふっと笑みを浮かべる。


「話が途切れた時に『ええと……日本語以外もしゃべれるんですよね』と聞かれ『はあ。台湾語と英語を』と答えたところ、『えっと、えーっと、……あっそうだ、バイリンガルと売淫ギャルって似てますよね!』って言われましたね」


「最悪だなあの牡蠣!」


 俺は素で答える。本当に最悪の失礼ギャグだな。あと三カ国語だからトリリンガルだろ。


「ええ、まあ……編集長に訴えていたところですね、未成年の女の子相手でなければ……」


「すみません陳さん、あいつは人見知りのコミュ障なのでテンパると変なこと言うし、距離縮まったと思うほど調子に乗るタイプなんで……」


「まあいいんですよ。そのあと『愛称で呼んでいい? えっと、パンダみたいに美美メイメイとか響き重ねるのかわいいよね。陳さんだから陳陳ちんちん?』って言われたときは『殺すぞ』と思わず口から出てしまいましたが」


「すみませんすみませんたぶん悪気はないんですアホなだけなんです」


 ……なんで俺はこんなとこまで来てオイスター先生のフォローをしてるんだ。

 陳さんがカップを置き、「さて……雑談はここまでにしましょう」と言って、


「お茶しませんかと誘われましたが、私になにか用があるのでしょう? なにか重要なことが」


「お見通しですね」


 そうでなければ多忙な編集者を会社近くとはいえ呼び出したりしないし、陳さんも受けてくれないだろう。


「俺はいま書字障害になってて書けないわけですけど」


「はい。……回復の兆しは見えませんか?」


「いまのところは……リハビリ中ですのでもう少しお待ちいただければ」


「もちろん。療養につとめてください。苦しいときでしょうが私個人としても可能な限り先生の復帰をお助けしたいと思います」


 ……実のところ絵を描くのが楽しすぎて、ぜんぜん苦しくない。とか言えない。

 頭をかいていると、陳さんが小首をかしげた。


「お話はそれだけでしょうか?」


「いえ」


 本題はむしろここからだ。


「……あの、『精神的に書けなくなった作家』の例をほかに知っているならば教えてほしくて。その人達がどうなっているかとか、もし復帰できたのならどうやって治したのかとかも。

 もしかしたら俺の書字障害の克服に役立つかも、なんて。

 編集さんなら、そういう情報に詳しいかなと思ったんです」


 ほんとうに聞きたいのは、緋雨先輩のことだった。

 ……小説を書くのを自分の意思でやめたのなら、何も言わない。熱意を失った、他に打ち込むものを見つけた、そういう人たちはこれまで出会った作家および作家志望者のなかにもいっぱいいた。去る者を追うのはただの野暮だ。

 でも先輩はそういう人ではない。

 不幸なトラブルで、あれだけ愛していた創作の世界から無理やり引き剥がされたようなものだ。


 治るのならば、治してあげたい。


 俺の頼みに対し、陳さんはしばらく黙っていた。それから、


「私は経験が浅く、そういう苦境におちいった作家を担当したことがまだありません。

 でも、ほかの経験の深い編集者のなかには、そういうケースを知っている者がおそらくいるでしょう。

 よろしければ、編集部内で聞いておきましょう」





〈創作から心が離れた者? 個人的には立ち直れたケースを知らないな。本人の問題でしかないから、医者でもカウンセラーでもない者は深入りしないほうがいいのでは?〉


〈……身も蓋もないですね〉


 てりぃ竹橋先生にも相談してみたところ、辛辣な言葉が返ってきた。

 ちょっとムッとしてしまう。こういうところは性格合わないんだよな。


〈それより君の絵の話だ。フォロワーが順調に増えているようだな〉


〈ええ、まあ……〉


 緋雨先輩のことを考えるほどもやもやして、それを振り切るように俺はますます絵に打ち込んでいた。

 皮肉なことに、現実逃避がチュイッターへの投稿量の増加につながり、投稿量は画力の上達とフォロワー増加につながっていた。


〈零人から一万人までフォロワーを増やす。一万人から二万人までフォロワーを増やす。

 どちらも同じ一万人増だが、難易度は圧倒的に「零から一万」のほうが難しい。

 はずなのだが……

 アルマジロ先生のフォロワー、現在4600人。急速に増えている〉


〈てりぃ先生がRTしてくれますからね〉


 8万5千人のフォロワーがいるてりぃ先生が拡散してくれる時点で、相当なインプレッション数が期待できるのだ。

 てりぃ先生様々である。

 が、当の本人は〈言っておくが勘違いするなよ〉と打ち込んでくる。


〈私は気に入らない絵は拡散しない。最近の君のチュイッター漫画でも、評価に値するものしかRTしていない〉


 てりぃ先生ツンデレ味ありますね、と返事するべきか一瞬迷ったがやめておいた。絶対怒るし。

 代わりに二ヶ月後に迫った夏コミへの意気込みを打ち込む。


〈夏のコミフィでは、100部刷ろうと思います。目指すは完売です〉


 100部頒布。オイスター先生に約束させられた目標のひとつだ。

 そう告げる俺に、てりぃ先生は〈ほう、大きく出たな〉と返し──


〈──とは言わない。いまの君ならもしかしたらいけるかもしれないからだ〉


 おっ?

 ほんと? いける?


 夏コミ、目前。



●   ●   ●   ●



 武蔵小杉の古びたアパート、二階の廊下。

 訪れたオイスター先生こと菅木すがき明日葉あしたばは身を硬直させる。

 彼女の視線の数メートル先には、先客がいる。

 有馬十郎の部屋の前に、西条さいじょう緋雨ひさめが。インターホンを押すべきか迷って立ち尽くしていた様子で。


 緋雨が横からの明日葉の視線に気づき、けげんな顔をする。その姿は白いワンピース。ミュールサンダルに白の日傘。シンプルだが可憐さのあるよそおいが、スレンダーでスタイルのよい肢体を引き立てている。

 明日葉は自信なさげにうなだれ、後じさりして階段に戻ろうとする。

 だが思い直したようにそこで足を止め、裏返った声を出す。


「あのっ、あああ、あの」


 精一杯の勇気をふりしぼって、緋雨に声をかける。


「どこかでお茶でも、しませんかっ?」


 決死の声かけに、目を丸くした緋雨がこてんと首をかしげ、


「……ナンパ?」


「ち、ちち、違いますよぅ!」


「ごめんなさい。冗談よ」


 くすっと緋雨が一瞬笑みを浮かべた。





 適当なファミレスに入り、明日葉と緋雨は向かい合わせで座る。


「あ、あの……西仲しずく先生、ですよね」


 おそるおそる明日葉は話しかける。

 緋雨の表情が一瞬苦痛をこらえるように歪んだのには気づかず、


「ぼく……えっと……わたし、す、菅木、明日葉……っていいます」


「……菅木さん。何の話かしらと聞く前にひとついい。

 私の名前は西条緋雨。できればペンネームではなく本名の方で呼んでほしいの」


「あっ、は、はい。それじゃ西条さん。

 そ、そうだ。ぼくのっ、あ、わたしのペンネームはオイスターですけど、名前でもペンネームでもどっちでも好きに呼んでくれればっ」


 オイスターという名を聞いたとき、アイスティーをマドラーでかき混ぜていた緋雨の手が止まる。

 あらためて緋雨が、明日葉の顔をしげしげと見やる。


「それなら十郎くんの本のイラストレーターさんじゃない」


「あっ、はい。そうです。西条さんは十郎の──」


「ただの高校の先輩と後輩。それだけの関係」


 窓の外のビル群に顔を向けるようにして緋雨は言う。

 だが、


「た、ただの、じゃない。こないだの出版パーティーでは……十郎に介抱されて帰ったじゃないですか」


 明日葉の指摘に、う、と緋雨は顔を赤らめる。

 正直、あの日の顛末は恥ずかしすぎてあまり思い出したくない。


「……十郎くんに送られて帰ったのは認めるけれど。それだけよ」


「そ、それだけってことない。女の子扱いされてました。あいつぼくが風邪ひいて熱で朦朧としてたときは雑に座薬突っ込んできたんですよ! 扱いが違いすぎる!」


 すすろうとしたアイスティーを吹きかけて、緋雨はおしぼりで口元を押さえる。

 両拳を握って主張した明日葉は、恥ずかしそうに小声で、


「ざ、座薬は中学の時の話ですけど……看病してくれるにしてもあんまりにもデリカシーないと思いません?」


「……十郎くんがデリカシーないのは昔からなのね……というか、中学からの知り合いなのね?」


「あっ、はい」


「じゃあ知っているでしょう。あの子、基本的に親切というかお人好しだから。パーティ抜けて私を送ってくれたのもそれだけのこと」


「お人好しなのは知ってますけどっ」


「あと、女好きだから。私といた高校のときも、かわいい子に面倒事持ちかけられてたら引き受けて鼻の下伸ばしてたわよ?」


「…………ちょっとその話、詳しくお願いできます?」


 当事者たちにも意外なことに、ぽつりぽつりと始まった会話は、三十分経つ頃には相当盛り上がっていた。

 十郎の悪口で。


「それでうちの生徒会って可愛い子ばかりで……十郎くんが帰ってくるのが遅いので生徒会室を開けたら✕✕で○○な状況になってて」


「さ、サイテーだ十郎……法的に取り締まるべきじゃない?

 そういえば買い物に行ったとき、花屋のお姉さんが△△なことになってたから十郎といっしょに助けてあげたんだけど、そしたら後日お姉さんが十郎にだけお礼といって会いに来てて」


「あるある。十郎くん、なぜかそういうところあるのよ。初見だと目つき悪すぎて女の人に怖がられるのに……印象が反転したらなぜか『この子の良さは私しか気づかない』みたいな感じになって母性本能をくすぐるらしくて。謎に満ちた不条理のひとつだわ」


「ほんとそれ。十郎も十郎で寄ってこられたらすぐでれでれしだすし。おまえ最後まで硬派を貫けよってなりますよね!」


 急激に親近感が高まるふたり。いまにも握手を交わしそうな勢い。

 その流れが変わったのは、明日葉の告白だった。


「その……すみません。ほんとは、西条さんを見かけたのってこないだのパーティが初めてじゃないです」


「そうなの? そういえば十郎くんが頭を打ったとき、病室であなたに会ったおぼえが」


「……病室のときは西条さんだと気づきませんでした。それより前です。西条さんと十郎が高校にいたとき」


「………………」


 明日葉の話の意図をつかみかねて緋雨が困惑の表情になる。

 お冷やのグラスを手でくるくると回し、明日葉は、氷の中に過去を見つめるようにまなざしを落としながら語る。


「……十郎から『先輩』の話を聞くことが増えて。

 なんか……その語り方が嬉しそうで、弾んでるようで。

 だから一度、怖かったけど、十郎の通っている高校の前に行ってみたことがあるんです。

 そのときに見たんです。十郎と西条さん、ふたりで話しながら校門出てくるとこ」


「声をかけてくれればよかったのに。そうすればもっと早くお知り合いに──」


「無理でした。あいだに入れないって思っちゃった。

 十郎と西条さんは小説の話で声高に議論してた。あなたたちふたりは校門の植え込みの陰にいたぼくに気づきもしなかった」


 まぶしくて、悔しくて、泣きながら帰った。明日葉は懐かしそうにそう言う。


「『ふたりとも同じ世界にいるんだ』って、そう思った。

 同じ夢を抱いて、同じ方向を見つめて、お互いしか見えてないくらい寄り添って──……」


「……過去の、話よ」


 苦しげに言う緋雨に、明日葉は顔を上げる。

 瞳に浮かぶ挑戦的なかがやき。


「ぼくだって、十郎と同じ世界を見たいと思った。同じ場所に立ちたいと思った。

 だからライトノベルを書いてみたんです。編集部に企画を持ち込んで、本にもなりました。

 でもダメでした。小説家の才能がぼくにはなかった。絵描きとしてのコネで企画を通しただけでしかなくて、十郎と同じ地平を見つめることなんてとてもできなかった。

 だけど、それなら、って思ったんです。

 ぼくが十郎小説家の世界に行けないなら、十郎のほうからぼく絵描きの世界に来てもらえばいい」


 明日葉の瞳の中に、緋雨は赤い熱を見る。

 執着。執念。長年燃え続けた炭火のような。

 ひとりの男に対する獰猛な思慕。


「十郎には絵描きとしての才能がある。

 今度は、十郎の隣はぼくがもらう。

 ……とつぜんこんな話してすみません。でも、あなたには一度言わなきゃいけない気がしたから」


 ぺこりと頭を下げ、伝票をつかんで明日葉はレジへと向かう。

 その背後では、緋雨が悄然とつぶやく。


「…………ほんとうに昔の話なのに」


 わざわざ宣戦布告などしてもらうまでもない、と緋雨は自嘲する。

 作家志望者として十郎と同じ場所に立っていられたのは、もう取り戻せない昔のことだ。

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