第9話 創作に夢中になると時間飛ぶよね
「十郎くん」
「わぁ!? えっ、緋雨先輩?」
机にかじりついていた俺は間近の声に驚いて振り向く。
コンビニの袋を手に下げた緋雨先輩がまた部屋のなかにいた。
「えっじゃないよ。何あれ、ドアのところの紙。入ってと書いてあるから入ってきたんだから」
「ああ……」
扉の外側に「インターホンに反応しなければ、御用のある方は入って声をかけてください。鍵を開けています」と書いた紙を貼っつけてあるのだ。
「俺、過集中になりやすいタイプなんですよね。原稿に夢中になって周りの音が聞こえなくなるので、作業中はよくああいう紙貼ってるんですよ」
「防犯上どうかと思うけど……」
「防犯のことを考えたらそりゃ良くないに決まってるんですが、いろいろとありまして」
オイスター先生の要望なんだよな。ふだん吉祥寺のタワマンで引きこもってるくせに、たまにここに遊びに来る。
むかし、折悪しく俺が小説の原稿で過集中モードになっていて、とつぜん来たあいつが部屋に入れなかったことがあった。
『ひどいよ十郎! ずっとドアを叩いてたら大家さんに警察呼ばれかけたよ!』
『ドアを開けろと鳴く猫かてめーは! 諦めて帰れよ、俺は原稿中だっつってんだろ!』
『せっかく来たのにやだー! ぼくをかまえよ! 気分転換しようよ! 根つめるより息抜きしてからのほうが作業も進むよ?』
死ぬほどウザいゴネかたされた末に、いつでもあいつが入れるように昼間、在宅中に鍵はかけないことにしたんだよな。別にそれだけが理由でもないけど。過集中があると、鍵閉めてたら配達物受け取れなかったり火事から逃げ遅れたりする可能性もあるし……
まあ、あんな牡蠣のことより。
「あ、あの、緋雨先輩……今日はどうしたんです?」
「……用がなくちゃ、十郎くんに会いに来ちゃ駄目?」
軽くすねたような先輩の口ぶりに鼓動が飛び跳ねた。
「ぜんぜんいいですとも!」
オイスター先生に同じこと言われたら「だりぃな、もう」とぼやきながらスマブラ対戦の用意でもしてるところだが、緋雨先輩なら大歓迎だ。
「いまコーヒーでも淹れま……」
俺は立ち上がり、そして後悔した。
立ち上がったことで机の上の液タブが先輩の目にさらされたから。そこに表示された下描きに先輩の視線が釘付けになり、
「……相変わらずえっちな絵を描いてるんだ」
「こ、これは……来月、コミフィに出すやつで……」
「ふうん。コミフィ出るの……って、こないだ絵を描き始めたばかりなのに、もう?」
先輩が目を丸くする。
まあそうだよな。ズブの素人がいきなり同人漫画描いてコミフィに出品、普通はなかなかいないと思うわ。
身のほど知らず。俺も冷静な目で自分のドヘタクソな絵を直視するとそう思う。
その内なる嘲りの声を克服する道は──
「……これに没頭してます。夢中になって描いてると、そのあいだ恥ずかしさが消えるので」
まだ下手なもんは下手、それはどうしようもない。
だからといって臆して描かなければ上手くなるはずもない。
なら、冷静に戻らないまま描くしかない。
恥は捨てろ。ただ夢中になって手を動かせ。
オイスター先生にもらった素材集はもちろん使っているのだが、自分で絵を描かないわけではない。
結局のところ、ネームのすべてのコマを素材集で埋めることなどできるわけもなく、あくまでも「参考」「補助」にすぎなかった。むろん補助があるとないとでは大違いだが……
そうして描きまくった結果として、
「……そういえば、よく見たら」
先輩が身を乗り出し、液タブに表示された俺の絵に目をこらす。
「この前のときより、ずっと上手な気がする。十郎くんの絵」
……うん。
「急速に成長……してると思います。自分でも」
「えっちな絵で」
「そうです。えっちな絵をたくさん描くことで、です」
半ばやけくそで答える。
描きまくるのはやはり効く。
あと、勉強。
俺はオイスター先生差し入れの美術書の山をちらりと見やる。
ラノベ作家への罵言の中で、てりぃ竹橋先生はひとつ正しいことを言った。
絵画や漫画は学びやすく体系化されている。
長い歴史のなかで磨かれた
パース。
構図。
色彩。配色。
カメラワーク。
コマ割り。漫符。
人物の表情、髪型、衣装……
読むことで吸収する。描くことで習得する。
知識を詰め込み、すぐ実践して身につける。
まあ目下すぐにでも必要なのは漫画に活かせる知識だ。色彩とかは後回しにしている。
それにしても、学ぶことが楽しい──そう思えるのは久々だ。
「描くことも学ぶことも楽しめてます。なぜもっと早く絵を描かなかったのかと後悔してるくらいですね。……あ、小説に打ち込んだのが間違いだったとは思ってないですけど」
たとえいま書けない状態に成り果てているとしても、十代の後半を小説に捧げたことは悔いていない。書いていなければ高校のとき先輩と接点も持っていなかったのだし。
ただ……絵を先に描き始めていれば、絵のほうで大成を目指していたかもしれない。それこそ、傍らで輝く星だったオイスター先生を追いかけるようにして。
「君はすごいね。うらやましいな」ぽつりと緋雨先輩が言った。
「な、なんです、突然に」
「小説が書けなくなったのに、打ち込めるものがまた見つかった」
つかの間、痛いほどの沈黙が部屋を満たした。
「……先輩、あの、」
「十郎くん。私もなにか手伝えたりするかな」
聞こうとした瞬間にはぐらかされた──そうとわかっていても、踏み込むのはためらわれた。
それに、要望ならひとつあった。
「あ……絵の参考に使う写真が欲しかったんですよ」
ネットで拾えるといえば拾えるが、ピンポイントでほしいアングルの画像に限ってなかったりする。それに、著作権的に考えて自分で撮ったものがいちばん安全だ。
俺はスマホを手に取る。
「先輩、モデルになって撮らせてくれませんか」
そこで動きを止める。なぜか先輩が真っ赤になっていた。
先輩の腕は、葡萄酒色のセーターに包んだ身を守るかのように自分を抱き、姿勢は逃げ腰になっている。
「えっちな本にするための? モデル? 写真撮るの?」
「あ、はい。百枚ほど」
「脱がないからね?」
「そんな心配されたんですか!?」
心外である!
「俺をなんだと思ってるんですか! いくらなんでもそこまで要求するわけがないでしょ!」
「恥ずかしいポーズもしないからね? 脚開いたりとか」
「………………要求スルワケナイデショ?」
チッ(心のなかで舌打ち)。
いや、邪念じゃなくて、ほんとに絵の参考にするためにだな……
「え、ええと、それなら……いいけど」
先輩はまだ頬を染めながらも了承してくれた。
「じゃあ、その……椅子に座るポーズからお願いします」
「う、うん」
俺は椅子を立って先輩と位置を替わる。少し胸を高鳴らせながらスマホを構える。
……本当に美人だと思う。
個人的な思いを除いて客観的に「描く対象」として見ても、これ以上のモデルはそうそうないだろう。
黒絹の布引めいてさらさらと落ちる艶めいた髪。大理石の婦人像のようになめらかな頬とくっきりした目鼻。
胴の細いくびれ、女性らしい曲線を描く胸や腰の丸み、優美にすらりと伸びる腕と脚。胸の大きさならオイスター先生のほうが上だろうがあれは規格外として、めりはりのきいた完璧なプロポーション。
こないだも思ったが、このボロアパートの自室に先輩がいると、掃き溜めに鶴という感じがする。
先輩は椅子に座り、すー、はーと深呼吸している。かすかに震える手で持っていたコンビニ袋をまさぐる。紙パックの日本酒を取り出してストローを差しぢゅっと一口──
「せん……ぱい? なにをしてるんですか……?」
「え? あ!? ああっ、これは違うの! 緊張をほぐそうと……!」
鶴が瞬時に掃き溜めに馴染んだ。思わず撮影する手も止まったわ。
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