第5話 えっち絵描くのは人体練習に最適です


「十郎くん?」


「おわっ!?」


 ゆすぶりと背後からの声にとつぜん意識が覚醒。

 俺は叫んで跳ね起きた。といっても椅子に座ったまま上体をびくんとそらしたのだが。

 スケッチブックが机の上にある。鉛筆は手にしたまま。どうやら寝落ちして、机へと前のめりに突っ伏していたらしかった。


 肩越しにふりむき、そこで侵入者の顔を見る。

 黒いブラウスにチェック柄のロングスカートの緋雨先輩がそこにいた。俺の声に驚いた様子で軽くのけぞり気味だ。


「あ……ごめんなさい。電話をかけても、部屋に来てインターホンを何度鳴らしても反応がなかったから、心配になって上がってしまったの。鍵もかかってなかったし……」


 そういう緋雨先輩をほうけたように見上げ──俺の脳は数秒でやっと再起動した。


「えっ、あ、やばっ、せ、先輩すみません! 約束を忘れたわけではなく」


 すさまじい失態だった。

 退院する前に、先輩に会う約束をとりつけていたのだ。これまで音信不通にしていたことなど忘れたかのように、先輩は「いいよ」と応じてくれた。「川崎駅前でお昼ごはんでも食べようか」と。

 相当な勇気を出して誘ったはずだったのに、俺ときたら──


「ほんとすみません! 眠ってしまっていました!」


 最悪だ。寝ているうちにデート(?)をすっぽかしたあげく、先輩を一人暮らしの俺の部屋にまで来させてしまった。……以前伝えただけの住所を覚えていてくれたんだな、とちょっと感じ入るが、それどころではない。


「いいけど……眠るまで絵を描いてたの?」


「は、はい」


 先輩は俺の答えを聞くと、ゆっくりと見回した。

 描き散らして破りとったスケッチブックの紙が散乱する室内を。

 机の上にあるスケッチブックは──四冊目だ。


「いつから描いてたの?」


「え、えーと……退院してから……」


 二日間ずっと描いていた。

 オイスター先生のお絵描き配信を見ながら、寝食を忘れてぶっ続けで描いた。二徹の末に寝落ちするまで。

 楽しすぎてやめどころがわからなかった。

 こんなにも楽しいとは思わなかった。そう、


「ええと……女の子の、はだかの絵?」


「殺してください」


 床の絵を拾い上げて眉を寄せた緋雨先輩の前で、俺は顔をおおった。

 恥で死ねる。なんだこの状況は。

 先輩が眉を上げ、小首をかしげる。


「殺さないけど、すっぽかされた身としては説明は欲しいわね」


「は、はい。もちろんこういう絵を描いてたのには理由があって……あ、そうだ、これ見てください」


 机の上で充電器につなぎっぱなしのスマホを手に取る。

 オイスター先生のお絵描き指南動画を見せながらのほうが説明しやすいだろう。


『はーいオイスターでーす! なんで下着姿の美少女フィギュア持ってるのかというと、今回は「よく見て描くと絵がうまくなる」というのを教えるからです! とくに女の子を描きたいヒト! 安いデッサン人形もいいけど、こういう細部まで作り込まれたお高めフィギュアをみんなもひとつは持っといて損はないよ! 見て見て、この下着のレース! 細部まで作り込まれてとってもえろす!』


 俺は動画を閉じ、スマホを机に叩きつけた。


「…………十郎くん、いまのはいったい……」


「間違えました。いや間違えてないんですが、忘れてください」


 牡蠣かきに頼ろうとした俺が馬鹿だった。空気がさらに微妙になる配信流してやがって。アカウントBANされろ。

 先輩の眼差しがつららのように刺さってくる。

 うなだれた俺は、やむなく口で羞恥の説明を始めた。




 オイスター先生が配信で『ぼくのおすすめはおっぱい描くこと!』とのたまった直後、俺はむしろ呆れていたのだ。

 いくら「興味のあることを描け」と言ったってそんな安直なと。

 しかし、半目で動画を見る俺の前でオイスター先生は身振り手振りをまじえて力説した。


『おっぱい! そう、女の子とそのカラダです!

 考えてもみてよ、人体というのは絵にとって原点にして究極の題材。古今東西、人の体をテーマにした芸術品はたくさんあるでしょ?

 無機物や風景だってテーマとして悪くはない。でもやっぱり、ヒトは本能的にヒトにいちばん興味があるんです。人間苦手なぼくがいうからまちがいないって!

 そして、どうせ描くならかわいい女の子のほうがいい。これも真理! ぼくも女だけど女の子のほうが描きたいしさ』


 いやいやいや……もっともらしいこというけどそんな……ねえ?

 おっぱい自体が好きかと聞かれたらそりゃ、むしろ嫌いな男なんているの? って話だが……

 しかしあまりにも俗すぎない?


『いまキミ、「もっと高尚なものが描きたい」とか「だってエッチなもの描くとか恥ずかしいし」とか思っていませんか? 多いからねーそういう反応する人』


 うっとうめく視聴者に向けてオイスター先生は慈愛に満ちた表情で胸に手を当て、


『本当に本当に描きたくないのか、もっと自分と対話してみて。羞恥心も世間への言い訳もとっぱらって、自分の適性を探り当てなきゃ。

 絵の適性っていうのはね──楽しく描けるものがあるかどうかなんだから』


 うーんそこまでいうならしょうがねえや、描いてみるかな。

 そんなふうに俺はひとりごち、


「人間描くのむっず!?」


 スケッチブックにおずおず鉛筆を走らせはじめ、


「ん……でも乳は我ながら割とよく描けてね? もっと大きくしてみるか……」


 ぺりっとスケッチブックをめくって二枚目を描きはじめ、


「四つん這い……えーと、参考資料……エロ動画見て描くか」


 気がつくと二桁を超えて女の裸を描いており、


「エロい絵にするには……頬の赤らみ、汁、震え、吐息の描き込み……こんな感じ?」


 なんか変な方向に夢中になりはじめ、


「もっとこう……このシチュならもっとエロエロな絵が頭に浮かぶんだよな……腕がついてこない、畜生!」


 すべてを忘れて没頭していた。

 そして今に至る。




 話を聞き終えた緋雨先輩は、机に寄りかかるように腰掛けた。形のいいお尻が俺の机の端に乗る。


「ふうん。『リハビリと意地のために絵を描く』『没頭するために好きなものを描く』『ずっと描けるほど好きなものがエッチな絵だった』と……」


 すらりと長い黒タイツの美脚を組み、髪を肩の後ろに払いながら、俺のたどたどしい説明を冷徹にまとめる。


「そうかー、十郎くんがずっと描けるほど好きなのはエッチな絵かぁ」


「く、繰り返さないでくれませんか先輩」


「いいんだよ……男の子だしね」


「冷たいのか生温いのかわからない目をやめてください!」


 羞恥のあまり悶えながら俺は血を吐くような声を上げる。


「俺だってまさかと思ったんですよ! 俺の、俺の絵の適性がッ……こういう本能丸出しの方向だったなんて!」


 先輩は「あはは」と乾いた笑いを漏らしてから、


「んー、うーん……そこに関してはとくに不思議がないかな」


「うそ!?」


「だって君、えっちだし」緋雨先輩は自分の身を抱きしめるように腕を体に回し、「高校のときだって、油断したらキスしてきたし……」


「えっ」


 あれは……なんかこう、いい雰囲気になってたし、見つめ合ったあと先輩も目をつぶったから……合意かと……勘違いだったの?

 えっ、まさか先輩が俺を避けてたのってそういう理由?

 絶望しかけたところで緋雨先輩が咳払いした。眉根を寄せて視線をそらし、ほんのり頬が染まっている。


「ごめん、責任押し付けるのはフェアじゃなかったね。あのキスは、うん、私も『こういう経験しておけば文章に役立ちそう』って。そう思って、受け入れてました」


 あ、と俺は思い出した。

 あのときも同じことを言われた。

 夕暮れの書庫。書架のあいだ。付き合ってもいないのにキスだけしてしまったときに。


 ──勘違いしたらだめだよ、十郎くん。

 ──これは小説のためだから。


 正面から指をからめて手をつなぎ、唇を重ねたあとで、たしかに先輩はそう言った。彼女のうるんだ瞳、湿って熱のこもった吐息をいまもありありと思い出せる。

 その言葉の真偽を問いただす勇気までは出なかった。

 先輩の卒業までずるずると付かず離れずの関係で、俺たちはまともに付き合いもしなかった。


 それでもたまに連絡はとりあっていたのだ──俺が作家デビューした直後、そのつながりが彼女の方からぷっつりと断たれるまで。


「……それじゃ、今日は帰るね」


 まだ少し火照った様子で、緋雨先輩が立ち上がる。

 呼び止めかけて俺は思いとどまった。昼時は過ぎかけており、俺は風呂にも入っておらず無精ひげが伸びただらしない姿だ。とても一緒に出かけられるような有様ではない。

 どうやら今日のデートは始まる前に失敗したようだ。

 いったん切れてもう一度結び直された縁だが、これでまたぷつりと──


 それはいやだ。冗談じゃない。


 恥も外聞もなく思わず声をかけていた。


「あ……あのっ、先輩!」


 先輩は戸口で立ち止まり、けげんそうに振り向いた。

 何を言うか考えていなかった俺は必死で頭を巡らせ、ようやく話題らしきものを思い出した。


「来年早くのMARUYAMAのパーティですけど! 行くんですか?」


 MARUYAMAは書籍の出版やメディアミックス全般を手掛ける巨大エンターテインメント企業だ。

 俺が本を出しているレーベルもだが、先輩がデビューした出版社もMARUYAMA系列だ。パーティの招待状が来ているかもしれない、いやおそらく来ているだろう。

 今年のパーティでは先輩の姿を見ることができなかったが、もしかしたら来年は……


「わからない」


 先輩の声は、俺の思索を半ばで断ち切るほどに硬かった。

 だが、こちらに向けられた先輩のまなざしが、ふとゆるんだ。


「十郎くんは行くの?」


「はい。行こうかなと」つい食い気味に答える。「来年は先輩とも会場で会えたらと」


 返事には少しの間があった。


「ふうん……」


 顔をそむけ、先輩は靴を履きながら、


「それじゃあ、私も考えとく」


 静かな言葉を残してドアがぱたんと閉まる。俺はほうっと息を吐いた。

 かろうじて、縁の糸は切れずにすんだ。そう思いたい。

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