第2話 専業作家は病気で書けなくなると詰むよ
「書字障害だねぇ」
椅子を回して俺に向きあった医師はそういった。髪の毛が薄くメタボ気味で眼鏡をかけた、人の良さそうなおじさん医者だ。
「ディスレクシア、いわゆる読み書き障害。文章が書けないんだろ?」
「あ、はい」
いやあ、まったく書けないわけじゃなくてですね、と俺は間延びした声で補足する。
「長文が書けなくなったんです」
俺の態度は傍目には冷静に見えると思うが、ショックのあまり現実感にとぼしくなっているだけである。頭部MRI検査や認知機能検査など、半日にわたる検査を経て疲れているのもある。
歩道橋の階段から落ちて頭を打った俺は入院した。
頭皮が切れて流血したのでそこそこの大怪我ではあるが、頭蓋骨骨折というわけでもない。大したことはあるまいと最初はたかをくくっていた──が、病室で手持ち無沙汰に次回作のプロットをメモしようとして発覚したのだ。
長い文章を書けない、ということが。
書こうとすると百字もいかないうちに文章のリズム感が狂う。全体がどういう文章になっているのかとたんに認識できなくなる。推敲のために読み返しても頭に入ってこない。
んん、と咳払いして、うなるように医者はいった。
「ディスレクシアといったけど、正確にはちょっと違うんだよね。
精神面の問題にしろ脳機能の問題にしろ、先天性障害じゃなくて後天的にこうなるというのは……なかなか見ない。僕も他に一例しか知らないよ」
「あの……つまりそれで……治し方は?」
「うん、そのね、なにせ珍しい症例だからね。検査の結果、脳に出血もなかったし……こうなると薬や手術でどうこうなるもんじゃないんだよね。
ひとまず経過観察かな。いつのまにか治ってるかも」
「治らないかもしれないってことじゃないですか!?」
「まあでも、長文書くことって生活の上ではそうそうないからさ」
不幸中の幸い──そうとれるなぐさめの言葉だったが、応えて俺ののどからは悲鳴じみた声が出た。
「俺は作家なんです!」
死活問題だよこれ!
「えっちょっと待って。なんとかならないんですか先生!」
文章が書けない専業作家は無職と同義である。
「十郎くん……」
心配そうな声が後ろからかかり、肩に手が置かれる。
たおやかな手は緋雨先輩のものだ。
俺は深呼吸した。事故からこっち、病室に通ってまで付き添いしてくれている先輩のおかげでかろうじて冷静になれる。
「緋雨先輩、大丈夫です。落ち着きました」
眼の前では医者が気の毒そうな面持ちで眼鏡を直し、
「あー。脳機能のリハビリというかね、ひとまず、脳の刺激になりそうなことはいろいろやってみるといいよ。ゲームやパズル。新しいことを学んだりも。回復が早まるかもしれない」
「ありがとうございます、先輩。連日お見舞いに来てくれて」
病室のベッドに戻り、上体を起こして座りながら、俺は緋雨先輩に礼をいう。
「十郎くんが丁寧だと調子狂うな」
ベッド横のパイプ椅子に腰掛け、先輩はほのかに表情をゆるめた。苦笑めいた柔らかい笑み。
「気にしないで。きみが階段から落ちちゃったのは私にも責任あると思うし」
「いや、あんなの俺がドジ踏んだだけで……」
再会した驚きでふりかえり、足を踏み外した。酒が入っていたうえにポケットに手をつっこんでいたせいで受け身がとれなかった。
結果として入院沙汰になっているわけだが、それは先輩のせいではない。
そんなことより──いやそんなことで済ませられる結果ではないのだが──先輩とのあいだには積もる話がある。
『いままでどうしてたんですか』
『なんで急に連絡くれなくなったんですか』
『次の本は……いま書いているんですか』
落ち着け、と自分をなだめる。聞きたいことはいろいろあるが、焦るべきではない。とくに最後の質問はうかつに聞いていいことかすらわからない。
西条緋雨は俺の高校時代、ひとつ上の先輩だった。
理知的な目鼻立ち、白磁めいたなめらかな頬。モデルのような長身を白いハイネックのニットに包んでいる。ひと目で見て取れる肢体のスタイルの良さ。
“図書室の麗姫”と他の生徒たちにささやかれていた憧れの人は、二十一歳のいまになって大人びた色香をさらに強めていた。
病室のカーテンの切れ目から夕陽がさしこんでいる。ほのぐらい室内にひろがる薄光が追憶の扉をゆっくり開けた。
「高校のときみたいね」
ぽつりと先輩がいった。思うことは同じだったようだ。
書庫や俺の部屋。俺と先輩とふたりきりで、ずっと熱っぽく小説のことを話し続けた放課後。お互いの好きな作家について語り合い、今から思えばこっぱずかしい創作論を交わし、ネタ出ししあってノートにまとめ、応募する新人賞の傾向について調べ、ときにはプロットや文章を添削しあって声を荒らげて衝突し……
いっしょに夢を追っていたあの頃の記憶。
「あらためてお久しぶりです、緋雨先輩。二年ぶり……かな」
二年。先に作家デビューしたはずの先輩が出版界から、そして俺の前からも姿を消してからの期間だ。
「……うん」
先輩は言葉少なにうなずき、それきり黙ってしまった。
俺は待つ。いままでのことを無理にでも聞き出したい気持ちはあった。だがこの流れなら、もしかしたら先輩のほうから話してくれるかもしれない。
やがて、ためらいがちに先輩の朱唇が開き──
「お見舞いだぞー、十郎! 鴛鴦堂のシュークリーム取り寄せてやったから感謝して食べ……あ、お客……?」
とつぜん病室に乱入してきたオイスター先生に顔を向け、先輩は口を閉じてしまった。
そのオイスター先生は先輩を見るや気まずげに「十郎、それじゃ、あとで……」なんてもごもご言いながら廊下に引っ込んでいく。
あのピンク頭、人見知りっていうか、初対面の相手とはうまく話せないタイプのコミュ障だからな……
「私、帰るね。十郎くん」
魔法の空気は消えた。先輩はそそくさと立ち、病室を出ていった。最後に小声で「また明日」といってくれたことは救いだったが。
俺は恨めしげなまなざしをオイスター先生に送る。おずおず再入室してきたそのアホは、内弁慶っぷりをみるみる取り戻し、口をとがらせて人の面に文句をつけてきた。
「なにそのシブ顔、もっと歓迎しろよー。親友の明日葉ちゃんが来てやったんだから」
「親……友……?」
「ちょっ、なんでそこで解せぬって顔すんのさ! 長い付き合いの友達だろ!」
「とも……だち……?」
「ふ、ふざけんなあ! そこからかよ!」
喚いて手をふりまわし、ぽかぽか叩いてくるオイスター先生。痛えからやめろ。
雰囲気ぶち壊しやがったこと許してねーからな、おい。
気配を殺すようにつつましく、オイスター先生の後ろに立っていた女性が、制止の声を発した。
「あの、病院ですから静かにしましょう」
「あ、
「有馬先生。このたびは突然のお怪我で驚きました。お具合はいかがですか」
陳さんはデビュー作からの俺の担当編集だ。イラストレーターのオイスター先生とももちろん仕事仲間。今回は出版社代表として連れ立ってお見舞いに来たのだろう。いつでもスーツ姿のキャリアウーマン。台湾系華僑の、若い美人だ。
「それでですね先生、こんなときにデリカシーがなくて申し訳ないのですが、お仕事の進行に遅れが出そうならいまのうちに教えていただきたく……」
本当に申し訳なさそうな陳さんを前に、俺はため息をひそかにのみこんだ。
編集部に文句を言える筋合いのことでもない。いま何も書けなくなっているというのは、遅かれ早かれ伝えねばならないことだった。
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