その笑顔が、好きだったはずなのに

くろねこどらごん

第1話

 僕には幼馴染がいる。

 凛堂彩香りんどうあやかという、容姿端麗スポーツ万能成績優秀。更には抜群のコミュ力抜群まで兼ね備えている、同い年の女の子だ。

 僕はというと、容姿学力運動神経、その全てが平均、もしくはそれ以下で、人に誇れるところが特にない、どこにでもいるただの凡人。

 完璧な美少女と凡人としか言いようがない僕では、住む世界が違う。

 本来なら、僕らは交わることなくそれぞれの道を歩んでいたことだろう。


 だけどそうならなかったのは、彩香が小さい頃は身体が弱く、あまり外で遊ぶことは出来なかったからだ。

 仕事の忙しい彩香の母親に頼まれて、僕の母親がよく世話をしていたのだが、熱を出して寝込むことの多かった彼女に、僕はよく本を読んであげていた。

 彩香を可哀想に思ったということもあるが、僕自身が外で遊ぶより、家の中で静かに過ごす時間を好む性質であったことが大きかったと思う。

 熱で動くことが出来ない彼女の部屋で、彩香の好きな本を読んであげるふたりきりの時間が、僕は嫌いではなかった。


 そんな経緯もあってか、彩香は僕によく懐き、いつも一緒にいようとした。

 人見知りする性質であった僕とは違い、明るい彼女には友達も多かったが、事あるごとに僕を優先してくれたことが嬉しくて、無条件に彩香のことを受け入れた。

 そうして僕と彩香はずっと同じ時間を過ごしてきたけど、その関係に変化が訪れたのは、僕らが中学生になってすぐのことだった。


 彩香が僕に告白してきたのだ。

 小さい頃から好きだった。身体が弱くて起き上がれずにいた私にいつも寄り添ってくれたことが本当に嬉しかった。優しい貴方のことが好きだから、これからも一緒にいて欲しい。

 そんなことを幼い頃から一緒だった少女に、風邪とは違う熱のこもった瞳で言われて、断れる男子がいるだろうか。

 僕が頷くと、涙を浮かべて嬉しそうに微笑む彼女を見て、とても嬉しい気持ちになったことを思い出す。

 これから先も、彼女と一緒に歩んでいけることを、僕は心から喜んでいた。



 だけど、そんな幸せな時間は、いつまでも続くことはなかった。

 いや、正確には少し違う。彩香にとっては、間違いなく幸福な道が開けていたのだ。

 それが、僕の望んでいた幸せとは、少し違っていただけ。

 たったそれだけ。それだけだけど、ただどうしようもなかったというだけの話だった。



 中学校に上がった彼女は、以前のような病弱さは嘘のように消え去り、学校を休むこともなくなっていた。

 なら、これは必然というべきなのだろう。彩香は部活に友達に誘われたテニス部を選んだ。

 元々身体を動かすのも好きだったこともあり、断る理由もなかったのだろう。


 一方、僕は帰宅部だ。一応男子テニス部に入らないか、彩香にさり気なく勧められてはいたのだが、運動神経がよく、本来は社交的な性格である幼馴染とは違い、僕は人と関わることが好きではない。

 また、身体を動かすことも好きではなかったため、以前と変わらず、静かに本を読む日々を過ごすことを選んだのだ。


 それもあって、僕らが付き合っていることは当面内緒にしようという約束を、この時僕らは交わした。

 これから忙しくなるであろう彩香の負担にはなりたくないという、僕なりのちょっとした意地でもあった。


 こうして僕らはお互い、放課後は別々に過ごすことになったわけだが、僕は特に気にしていなかった。

 一緒に帰れないことを彼女に謝られたが、家は隣同士だから帰宅したらいつでも会えるし、毎日メッセージのやり取りをしているうえ、朝の登校に関しては一緒だから寂しさを覚えるほどでもない。

 ふたりで過ごす時間は確かに大切だけど、なにより彩香の身体が良くなったことは喜ぶべきことだし、やりたいことが出来るようになったのも良いことだと思ったからだ。

 事実、中学生になってからの彩香は充実した日々を送っており、笑顔を見せる機会も以前よりずっと多くなっていた。


 それはまるで太陽のように輝く明るい笑みで、病床に伏せていた時に僕に見せてくれた、儚さを孕んだ静かな微笑みとは違っていたけれど、僕はなにも言わなかった。

 あの頃、僕だけに向けられていた笑みよりも、多くの人を引き込むこの笑顔こそが、彩香本来の姿なのだろうと、そう思ったからだ。

 幼い頃の彼女がつらい想いをしていたことを知っているだけに、頑張っている今の彩香に、水を差すようなことはしたくなかった。


 ―――例えそれが、僕らの間にどうしようもない溝を生み出すことになったとしても


 僕はきっと、なにも言えなかったことだろう。

 言ったとして、なにか変わったのだろうか。

 いや、言えるはずがない。僕以外の人に、その笑顔を向けないで欲しいだなんて。


 そんな醜い願望を口に出せるはずが、僕にはなかったのだから。




 それは中学三年生にあがってからのことだ。

 もうすぐ高校生となり、進学先のことも真剣に考える時期に差し掛かっていたが、同時に思春期でもあった僕らの話題に挙がるのは、勉強よりも専ら恋愛についての話だった。


 やれ誰が可愛いだの格好良いだの。そんな浮ついた話が僕の耳にも飛び込んでくる機会が、以前よりずっと増えていた。

 友達の少なかった僕の話し相手は、主に開かれた小説の中の登場人物達だったけれど、教室の中心で集まり、楽しそうに友人達と会話する姿を特に羨むことはなかった。


 彼らは人と話すことが好きだが、自分はそうではないという精神的な線引きが、僕の中では形成されていたからだ。

 自分が人とは少し違っていることを、この時の僕は既に受け入れつつあった。

 だが、それでも必ず心がかき乱される瞬間があった。

 それは彩香の名前が、彼らの口から出てくるときだ。


 この手の話題になると、いつも必ず彼女の名前が挙げられる。

 この時期には、もう彩香は学校でも有名な生徒のひとりになっていた。

 いや、一番知名度があったといっても、過言ではないと思う。


 去年の話に遡るが、二年生ながら、彩香はテニス部のエースとして大会で大いに活躍し、全国大会にまで出場を果たしていた。

 それだけでも十分な功績だったが、彼女の知名度をさらに底上げする出来事があった。

 試合の最中に誰かが撮影した彩香の姿が、SNSに投稿されたのだ。


 中学生になってから以前より社交的になった彩香。

 その笑顔も一層輝きを増し、そして綺麗になっていた。

 それは切り取られた写真であっても、鮮明に彼女も魅力を映し出し、そして多くの人の目に止まった。

 惹きつけるなにかが、そこにはあったんだろう。写真はあっという間にバズり、拡散され、彩香はネット界隈ではちょっとした注目の的となった。

 それを受けてか、大会後に地元のテレビが取材に来たりと、色々なことが彩香の周りで起こり始め、僕らの中学において彼女は完全に時の人になったのだ。


 あとはもう語るまでもないだろう。

 学校という狭いコミュニティにおいて、それらは絶大な効力を生み出し、彩香のスクールカーストは急激に押し上げられることとなった。

 もはや僕らの学校において、彩香のことを知らない人間は誰もいない。



 僕も最初は、ただ喜んでいた。

 彼女が毎日頑張って練習をしていたことは知っていたし、レギュラーに選ばれたことを報告され、我が事のように喜び、お祝いもした。

 病弱だった頃のことをよく知っていたから、元気に動き回れて本当に楽しそうに笑っていることが、僕は純粋に嬉しかった。



 ―――思えば、そこが僕らの分岐点だったんだと思う。



 三年生になってからの彩香は、休み時間は常に誰かに囲まれて過ごす毎日を送っていた。

 下級生からは羨望の目で見られるようになり、それらは日を増すことに強くなっているように思えた。

 今や学校の中心には彩香がいると言っても、決して過言ではないだろう。

 誰もそのことを否定しないし、出来る人間もいない。


 そんな彩香のことを、僕はただ遠巻きに見ていることしか出来なかった。

 輪の中に入っていこうなんて思えなかったし、それが出来ない人間であることを、僕自身が誰よりもよく知っていたのだ。


 僕は人と話すことが好きではなく、本の世界に浸ることがなにより好きだった。

 それは昔から変わらないし、きっとこれから先も変わることはないだろう。

 他の生徒たちから、影で根暗な陰キャ扱いされていることは知っていたけど、それでも僕は構わなかった。

 本を開けばそこには物語があり、出会いがある。それで僕は満足だった。自分の世界を広げようとは思わなかったし、閉じた世界に安らぎすら覚えていたのだ。


 なにより、僕には彩香がいた。幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた彼女の存在があればそれでいいと、僕は本気は思っていた。

 彩香もそのことを理解してくれて、学校で一緒にいる時間は以前より少なくなっていたけど、連絡は取り合っていた。好きという気持ちも、電話越しであっても言葉にして伝えていた。

 彼女もそれを受け取ってくれて、同じ言葉を返してくれた。

 だから大丈夫。僕らの気持ちは通じ合っている。

 僕らの関係は決して変わることはないのだと、僕は信じて疑っていなかった。



 だけど。

 だけども。



 僕は気付くべきだったのだ。

 人は変わっていくものであることを。

 そのことに、もっと早く気付くべきだった。



 それから数ヶ月が、瞬く間に過ぎていった。

 彩香は今年も全国大会へと出場し、ベスト4まで残るという快挙を成し遂げ、さらにその知名度を上げていた。

 同時に、より綺麗に、美しくなっていた。

 成長期ということもあるのだろうが、以前より大人びた容姿は、昔から近くにいた僕でさえ時折息を呑むことがあるほどだ。風の噂では校外にファンクラブまであるという。


 そんな誰もが振り返るほどの美少女となった彩香に、男達が群がらないはずがない。

 受験を控えた時期だというのに、大勢の連中が、毎日のように彩香に告白していた。

 当然彩香は断っているようだったが、うちの学校だけでなく他校の生徒や大学生からでさえされているという噂が、時折耳に入ってくるようになっていた。



 何故、人づてに聞いたような話し方をするのかということに、疑問を覚えた人もいるかもしれない。

 その答えは至って簡単で、この時の僕らは会話をする機会が、めっきり減っていたからだ。

 部活を引退してからは毎日放課後は誰かしらに遊びや勉強に誘われ、それに彼女は付き合っていた。その中には告白されに男のもとに向かったことも多いだろう。

 だけど、そのことについて、彩香は一切触れなかった。

 ただ僕に電話なりメッセージで、申し訳なさそうに謝ってくる。


 断れなくてごめんなさいと。今度必ず埋め合わせをするから。

 今は忙しくて中々一緒の時間を取れないけど、一緒の高校に合格したら落ち着くと思う。

 最後に「私が好きなのは君だけだから」と締めくくるのがお約束だ。

 最近は、ずっとその繰り返しだった。


 彩香は元々人付き合いを大事にする子であり、加えて頼まれごとを断れない性格である。

 そのことを僕は知っていたし、美徳にすら思っていた。

 だから気にしなくていいよと返しているけど、内心では自分が少しづつ傷付き始めていることに気付いていた。


 ―――断れなくてごめんなさいって、どういうことなんだ?


 ―――本当に告白を断っているのか?


 ―――もしかして、他の男と浮気しているんじゃないか?


 ―――僕みたいななんの取り柄もないやつより、もっと釣り合うようないい相手を見つけたんじゃないのか?


 そんな疑問が、最近はよく頭をよぎるようになった。

 考えたくないことばかりが、どうしても思い浮かんでしまう。


 わかっている。わかっているんだ。

 彩香が僕になにも言わないのは、僕に対して配慮してくれているからだってことくらい、頭では分かっていた。

 ただでさえ一緒にいる時間が短くなっているんだ。他の男の影があれば僕が不安に思うことは、頭のいい彼女にはわかってる。

 僕が彩香のことを誰よりも知っているように、彩香もまた僕のことを誰よりもよく理解してくれているから、これが最適な行動であるんだろうことは、分かってるんだ。


 僕と彩香が付き合っていることは、未だ周りには隠したままだった。

 彩香がカーストを駆け上がる速度が早すぎて、言い出すタイミングを失ってしまった結果、誰にもバレることなくここまで来ていた。


 それは悪いことではなかったと思う。

 僕と彩香が付き合っていることが今知られれば、どんな目で見られるのか。

 それを考えただけで、僕は身震いしてしまう。耐えられる気がまるでしないし、もしかしたら嫉妬からいじめにまで発展してしまうのではという、最悪の未来すら考えられるのだから。


 だから付き合っていることが知られていないことは僕にとってはいいことで、彩香は誰とも付き合っていないことを公言したまま、今日も誰かの告白を受けに行く。

 それは僕を守ってくれているに等しい行動であり、本来は感謝するべきことなんだろう。

 そのことについて、僕はちゃんと分かっていた。

 彩香が好きなのは僕なのだ。だから告白はちゃんと断ってくれる。大丈夫なんだって、全部頭ではわかっているんだ。



 だけど、感情は納得してくれない。



 ―――彩香は本当に僕のことを好きなままでいてくれるのか?


 ―――僕はなにもしてないし、彩香のためになにかをしてあげることもできないのに


 ―――彩香がなにも言ってこないのは、とっくに僕に見切りをつけているからじゃないか


 ―――そうじゃないと、相談してこないのはおかしいだろ。僕は彼氏なのに


 ―――そんなに頼りないと思われているのか


 ―――なら僕なんかより、彩香に相応しい相手はいるんじゃないか


 そんなことを考えてしまう自分がいた。

 なにも言ってくれない彼女に、勝手に劣等感を抱き、最悪の妄想を繰り返し、少しづつだが確実に心が磨り減っていく。

 わかっている。こんなことを考えている暇があるなら、本人に直接聞けばいいだけだということくらい、僕にだって分かってる。


 だけど、僕にはその勇気がなかった。

 会話が減り、多くの人に囲まれ笑う彩香のあの笑顔を見ると、とっくに僕から心が離れているんじゃないかという考えが、どうしても捨てきれなかったのだ。

 彩香と僕の心がすれ違い、溝が生まれているのではないかという現実を直視することが、僕はとても怖かった。

 そんな自分を僕は心底軽蔑したが、もう自分でもどうしようもないほど、取り返しがつかなくなりつつあった。


 ―――僕はもう、彩香と別れたほうがいいんじゃないか?


 そして最後にはいつも、この考えだけが残るようになっていった。




「こうして一緒に帰るのも、随分久しぶりだね」


 それからまた、しばらく経ってからのことだった。

 ある日たまたま彩香に用事がないタイミングがあり、帰る時間をずらして待ち合わせた僕らは、息も白みつつある寒風の吹く帰り道を並びながら歩いていた。


「うん、そうだね。確かに久しぶりだ」


「ごめんね、いつも帰れなくて。高校生になったら、きっと大丈夫だと思うから…」


 頷く僕に絢香は申し訳なさそうに笑みを向けてくる。

 それは遠い日に見た、僕が好きだった儚げなあの笑顔に、どこか似ていた。


「気にしなくて大丈夫だよ。僕は気にしてないから」


 だけど、僕はすぐに目を背けてそう返した。

 気を遣わせてしまっていることがわかったからだ。

 本来の彩香の笑顔は、太陽のように輝くものであるはずなのに、僕を前にしたらこんな顔をさせてしまっていることが、ただただ申し訳なかった。


「……うん」


 彩香はなにか言いかけたが、途中で口を噤んだ。

 長い付き合いだから、なんとなく察したんだと思う。

 最近はいつもこうだった。なにかを話すべきなのに、なにを言えばいいのか分からない。


 少し前に彩香の好きだった小説の最新刊が出たことについて話題を振ってみたことがあったが、その時は彼女が申し訳なさそうに首を振っていたことを思い出す。

 聞けば、彼女はもうその小説を読んではいなかったそうだ。

 思えば当然だった。休み時間は友人達に囲まれ、放課後は部活に人付き合い。

 帰ったら成績を保つために勉強と、小説を読む時間を取れるはずもない。

 そのことについて、頭を巡らすべきだったと反省したが、彩香から振られた話題については、今度は僕が閉口する番だった。

 彼女の口から出る話題は、どのクラスの誰がなにをしたという話が多く、大体にして身近ないしは有名人といった、現実の人物が絡んでくるものばかりだった。

 対人関係に疎い僕が、それらの話題について語れるはずもない。

 そのことに、彩香も後になって気付いたのだろう。ハッとしながら、どこか泣きそうになっていたあの顔は、忘れられそうになかった。


 そうだ。僕らはお互い、もうとっくにズレていたのだ。

 僕は彩香から目をそらし続け、彩香は僕を守ってくれていたが、直接僕と関わることはなかった。

 その間に、僕らはすれ違い、それは埋めようのない溝になった。

 僕は変わらないまま昔の彩香のままでいてくれると思い込み、彩香は人と関わるようになった結果、僕と話題がまるで噛み合わなくなっていた。


 価値観が違ってしまった。見ているもの、見たいものが違っていた。

 分かっていたはずなのに、気付けなかった。いいや、目をそらして誤魔化していた。

 好きだという気持ちがあれば、それで充分だと思っていた。


 だからこうなることは、きっと必然だったのだ。

 そしてこれから起こることも、また―――



「―――あれ?凛堂さん」


 家まであと少しの、最後の交差点に差し掛かった時のことだった。

 信号待ちで並んで立ち止まっていた彩香に、誰かが気付いたのだ。


「あっ…久我、くん」


「やぁ、こんなところで会うなんて奇遇だね」


 そう笑顔で彩香に話しかけてきたのは、背の高い整った顔の男子だった。

 見覚えがあるし、久我という名前にも聞き覚えがある。よく彩香と一緒にいる、クラスメイトのひとりだったはずだ。


「ちょっと用事があってこっちまで来たんだけど、もしかしてここから家近いの?」


「あ、うん。そう、だけど…」


 爽やかな笑みを浮かべる久我からは悪い評判を聞いたことはなかったが、答える彩香はどこか困惑しているようだった。

 いつもは満面の笑みで答えるはずなのに、どうして―――そんな僅かに浮かんだ疑問は、すぐに解消されることになる。

 僕に気付いた久我が、横目でこっちを見てきたからだ。


「あれ、水野くんじゃないか。君も帰りなの?」


 瞬間、心臓が跳ねた。

 同時に、とてもまずい状況であることに嫌でも気付く。


「というか、凛堂さんと一緒だったの?もしかして、ふたりは一緒に帰って…」


「ち、違うの!」


 否定しないといけないと思い、口を開きかけるも、その前に彩香が慌てて口をはさんでくる。

 それはいつもと同じく、僕を守るための行動だったんだろう。


「水野―くんとは、なんでもないの!彼とは、たまたま帰りが一緒になっただけで!」


 それは疑うべくもなかった。

 現に彩香の顔は必死だったし、気持ちを疑うべくもない。

 だけど―――


「―――ただの同級生なんだから!」


 目の前でそれを言われた瞬間、なにかが壊れた音がした。

 多分、僕らの間をかろうじて繋いで決定的ななにかが。

 ぷつりと音をたてて、確かに壊れた気がした。


 身勝手な言い分だってことは百も承知だ。

 だけど、僕は、彩香には。彩香にだけは―――









 それから久我が去った後。

 僕らは無言で、互いの家の前まで歩いていた。

 空は夕焼け色に染まりつつあり、どこか幻想的にも見える。

 確か、こういう時間を、逢魔が時というんだったか。

 良くないものに出会う時間帯だと聞いたことがあるけど、なるほどそれは正しいなと、思いつつ歩を進める。

 カツカツとコンクリートを叩く靴音が、しばしの間二重奏を奏で、やがて止まった。


「………ごめん。あんなことを言って…」


 僕の家の前で、彩香が頭を下げてくる。

 本当に申し訳なさそうに。泣きそうな顔をして、彼女は下を向いていた。

 そんな姿でも絵になると思ってしまうのは、彩香がどこまでも綺麗に見えてしまうからだろうか。

 本当に僕には勿体無い―勿体無さすぎて、釣り合わない。


「……気にしてないよ」


「っ……!」


 そう答えるも、彩香の顔色が露骨なまでに変化する。

 …本当に、長い付き合いというのは厄介だ。もうズレているはずなのに、気付いて欲しくないことには気付かれてしまうんだから。


「あの、聞いてケイ君!あれは本心なんかじゃないの!私、本当にケイ君のことが…!」


「大丈夫、分かってるから」


 彩香の気持ちを、僕は疑っていなかった。

 分かってる、彩香が僕のことを、僕との関係を守ろうとしてくれていたんだってことは、痛いほどに分かっていた。


 でも、僕は否定して欲しくなかった。

 互いが今も好きでいるという暗黙の了解。

 それはきっと、僕らを繋いでいた、最後の一線だったのだから。

 例え偽りの言葉であっても、否定だけはして欲しくなかったのだ。


 僕は彼女に、好きだと言って欲しかった。


「……別れよう」


「え…」


 もう、疲れた。

 悩むことも。自分の醜さを突きつけられ、苦しむことにも。


「僕達、もう別れよう。終わりにしよう」


 もう全部、投げ出したくなってしまった。

 僕の心はあの瞬間、多分折れてしまったんだ。


「なん、で…何で!」


 彩香は何を言われたのか、わからないような顔をしていた。

 それでもやがて僕の言った意味を飲み込んだのか、真っ青な顔で目から涙を零していた。


「さっき言ったことを気にしてるならごめんなさい!でも、しょうがなかったの!だって、ああ言わないと、きっと私達の関係がバレて、ケイ君が困ると思ったから…わ、私、ケイ君のことを考えて、ああ言っただけで、あんなの…」


「それは分かってる。分かってるよ…」


「なら、なんで別れるなんて言うの!?」


 彩香は泣きじゃくっていた。

 あんなに大人びて見えた彼女が、今は小さい子供のように見える。


「彩香…」


 思えば、僕らは喧嘩もしたことがなかった。

 だから、彩香を泣かせたことは一度だってない。

 むしろ体の弱い彼女に、僕がついていてあげないといけないと誓ったことを、今更ながら思い出す。


「ごめん。もう、無理なんだ」


 もう、手遅れなんだよ。

 恨めしそうに睨んでくる幼い頃の自分から、僕は目を背けた。


「無理って、そんな…」


「彩香は悪くない。悪いのは僕なんだ。僕がもうこれ以上は駄目だと思った。だから、ここで終わらせたいんだよ」


「あ、ぁぁぁ…」


 彩香の顔が絶望に染まっていく。

 どこまでも、幼馴染というのは損な関係だ。

 ずっと一緒にいて、お互いの気持ちがわかっているはずなのに、それでもどうしようもなくなることがあるんだから。


「ごめん。弱い僕がいけないんだ。僕が彩香と一緒にいられるような人間だったら、きっと―――」


 言いかけて、口を噤んだ。

 これはただの未練だ。これから先は言ってはいけない。


「ごめん…」


 僕は泣きじゃくる彩香に背を向けると、家の中に飛び込んだ。

 結局僕は、最後まで逃げることしか出来なかった。


「なんで…なんでこうなっちゃったの。私はただ…ケイ君と一緒にいられたらそれで良かったのにぃ…」


 最後に耳にした彩香の言葉は、僕の本心と重なっていた。

 同じ気持ちを共有していたのに、なんでこうなったんだろう。



 考えても。考えても。

 好きだったはずの彼女から逃げ出した僕には、それはきっと分からないことだった。

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その笑顔が、好きだったはずなのに くろねこどらごん @dragon1250

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