日々は続く

鈴ノ木 鈴ノ子

ひびはつづく

熱狂が社会全体を支配していた終盤であった。


東京大空襲によって家族は散り散りとなり、小学生であった私は命からがらに逃げおおせたが、翌日に戻った生家は焼け落ち、墨の様に黒焦げになった人の形がごろりと数人横たわっているのを目の当たりにしたのだった。

 父が母かはたまた祖母なのかすらわからぬほどに炭化したソレは、私に悲しみよりも、ああ、こうなってしまうのだ、という感情を残した。

 8月15日、玉音放送が音の途切れるラジオから流れてきて、それを姿勢を正し真剣に聞いていた周囲の大人たちが泣き崩れたことによって、私は大日本帝国が戦に負けたことにより、戦争が終わったことを知ったのだった。行く当てもなく、孤児院とは名ばかりの施設に預けられていた私のもとに唐突に1人の女性が来訪してきた。


「こんにちは。勇士くん」


 モンペ姿の女性は誰だか分からなかったが、詳しく話を聞けば、武蔵野のとある町に住んでいる父方の実家の方だそうで、長男であった父が華族の母と駆け落ちをしたために定石通りに勘当となったが、実家の二男三男は戦地にて戦死をされてしまったため、後継として存在の知っていた私を探し歩いたのだそうだ。

 私とはひと回りほど違う彼女に手を引かれて、私は焼け野原から自然が豊かで畑ばかりの武蔵野の家へとたどり着いた。長く歩いたのは食料難に喘ぐ買出し軌道と化した列車と人々が、食料と引き換えにする荷物を抱えて、目は血走り、憤怒の形相をした姿がそれはそれは恐ろしかったからである。

 父の実家には祖父母が畑を耕しながら慎ましやかに暮らしていた。初めて顔を合わせた時などは、邪険にされるわけでもなく、2人からしっかりと抱き締められて、数ヶ月知らなかった抱擁の暖かさと父と母、そして母方の祖母を思い出し、心に吹き溜まっていた悲しみが溢れてきて、すがる様に泣き続けた。

 

 武蔵野の家は田舎ではあったが、祖父は詩人であったために、たびたび文化人と呼ばれる人達が出入りしていた。立派な背広姿からぼろぼろの着物姿まで、多種多様、千差万別であったが、この家の敷居を跨げば分け隔てなく語り、討論議論を行い、やがて殴り合い、最後に酒を酌み交わしては別れていった。中には ばかやろー と叫んで世の中を騒がせた者もいた気もする。この者はステッキを愛用していたが、酒を飲んだ帰りには必ず忘れそうになり、一本だけ忘れてそれきりのものもある。

 語らい合う時の彼らの目の鋭さは戦地に赴く軍人のようであった。舌鋒は鋭く、銃弾のように跳び、双方が激しい舌戦を繰り広げていた。今となっては想像できぬほどに田舎すぎる田舎であり、雑木林と畑と建物も数えるほどしかない辺鄙に建つこの家は、いつしか武蔵野サロンと呼ばれ始め、何処ぞの料理をこよなく愛した者が陶器でできた皿にそう書いて寄越してきた。

 祖父は何食わぬ顔で玄関先にそれを縄で縛って吊るしては客が来るたびにそれを外して洗い、食器として使い終えると、またかけることをした。後で聞けばそれで料理を出すとよく分からぬけれど、何かしらの効果により、料理の見栄えと味が旨くなるとのことであったが定かではない。


 祖父母は優しさの中に厳しさがある人であった。

 人は勉学から畑仕事までこなさねばならぬと、迎えにきた女性、名前を洋子と言ったが、洋子と2人、それはもう懇切丁寧に育てられた。ちなみに祖父は酒が入ると話が長くなり、私は聞いて耐え考えることを大いに学んだものである。

 

 洋子は親戚筋の戦争で一族郎党悉く死に絶えた家の唯一の生き残りを、祖父母が引き取ったということとなっていたが、祖母に言わせれば、孤児として彷徨っていた洋子を祖父が酔った帰りの勢いで駅から家まで連れて帰ってきてそのままとなったらしかった、しかし、洋子は今持って経緯を話すことはしないから、真実は今も闇の中である。

 

 洋子は頭が良く手先も器用であり、聡明な女性である。そんな女性であったから、年頃になると素敵な殿方との見合い話もでるのだが、本人が嫌がるのと、祖父母が結婚させないと頑として譲らなかったので、私が東京大学に合格した歳になっても独り身であった。

 その年の暮れ、下宿生活から久しぶりに帰省して、大作を撮影した監督や世界的な賞を受賞した小説家、新進気鋭の若手俳優のような小説家などなどが、お忍びで訪れては語らいをしてゆくのを遠くて聞いてご相伴に預かりながら、便所へと行った帰りに洋子の部屋の前を通りかかり足を止めた。


 障子が少しだけ開いていた。


 のちに聞けば閉め忘れたとのことであったが、その締め忘れが私たちを結びつけたのだろう。

 閉めようと手をかけて、なにげなく視線を上げた先に洋子の裸体があった。寝巻きへと着替の最中であったようだが、卓上電灯の薄明かりに照らされたその四肢は洒落た香水瓶のように美しく、淡い肌の色合いが艶かしくて激しく青年であった私の欲情を誘った。

 そして洋子が独り身である理由をも垣間見ることになった。右胸から右腰の辺り一面までをてかてかと光るケロイドの皮膚が覆っていたのである。


「誰!?」


 そう詰問のような問いかけが飛んできた時、私は静かに障子を開けて静かに室内へと足を踏み入れていた。洋子は寝巻きを胸元まで隠すようにしていたが、障子を閉めて側まで寄った私を見て寂しそうにため息を吐いた。


「見たのね…」


そう悲しみを吐き出すように言った洋子に頷き、私は寝巻きを洋子の手から取り去った。キツく睨むような視線が向かってきたので、私も真剣にその目を見据えると口を開いた。


「綺麗だ」


 途端、睨んだ視線が溶ける。

 引き攣った顔が崩れて、やがてくしゃくしゃになると目元から大粒の涙が溢れた。そんな姿がとても愛おしくなり、私は洋子をしっかりと離さぬように抱きしめていた。洋子が苦しさからケホンと咳を漏らすまで、私は力強く抱きしめ続け、咳に思わず力を緩めると、互いに自然と見合わせたのちに、ゆっくりと口づけを交わして男女の仲となったのだった。

 翌日、祖父から呼ばれ、無言のまま近くの武蔵野の雑木林を歩いた。


 「洋子をどう思っている?」

 

 葉の落ちた桜の木を通り過ぎたところで、祖父はそう短く問うた。暫く思考したが、どう答えれば良いか迷いに迷った。もちろん、納得をさせるためにだ。

 洋子とは昨晩のうちに互いの気持ちも、互いの想いの強さも、溢れ出す湧水のように言葉を交わしながら、確かめ合っている。


「姉から妻になる。それだけです」


 私がそう言うと祖父は大きく笑った。こちらへ振り返った祖父は、私の肩を叩くと笑みを浮かべて頷く。


「洋子を頼むぞ」


「はい」


 その一言に祖父は満足した様にゆっくり頷いてその話は結末を迎え、あとは世間話をしながら家に帰りつくと祖母の隣に洋子が顔を赤く染めながらこちらを見てきた。

 どうやら、私と同じように祖母と洋子で話があったようであり、祖母を唸らせる答えをしたそうで認めてもらえたと教えてくれたが、なんと言ったかまでは今に至るまで怖くて聞けていない。


 あれから、洋子の年齢を考えて学生結婚をして、そののちに3人の子宝に恵まれた。今は3人とも自立し家庭を持ち子育てをしている。1人は離縁してシングルとなったが立派に子供を育てる母であることに変わりはなく、むしろ尊敬に値するほどの頑張りようである。

 

 大学から大学院、そして助教授から教授へと進んだ私は、一昨年に退官して、今は悠々自適の老後を車椅子に乗った洋子と過ごす毎日である。祖父と歩いた雑木林は公園となり、あの道はアスファルトで舗装されている。車椅子を押して、季節ごとに移り変わる色鮮やかな木々や風を楽しんでいる。洋子は幾つになっても美しく可愛らしい。溢れる笑みを見る度に愛おしさが湧いてくる。子供のためから介護のために一緒に風呂へと入る度に、火傷の後と胸元を見つめては洋子に咎められている。

 こればかりは男のサガなのだろうか、幾つになっても変わらないようだ。


 携帯電話の操作が難しくなってきた時、ふと数多くのものが変貌を遂げたと気がついた。現役学生や学会を離れたせいもあるだろうか、昔を懐かしむことも多くなる年頃となったようだが、変化があると言うことは争いなく平和な時代が続いていることの現れだと感じている。

 祖父から続くサロンも私の代から作家となった息子へと続いて、近くの息子の家の玄関にはあの皿が縄で縛られて揺れている。


 人生の燈明も短くなってきた。育み慈しんでくれた武蔵野に感謝しながら、終道を最後まで手を繋いで洋子と2人で歩いてゆくだろう。


 うつろいゆく時代に、安寧を感じ、時は過ぎてゆく。


 日々は続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日々は続く 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ