白亥の刻・参 ー 桜之宮万象 ー
厚い雲が渦を巻いて流れ、現れた月が辺りを白々と照らす。
まるで、最後の一太刀で雨雲すら切り裂かれたかのようだった。
「立てるか?」
腰を抜かしたまま呆然とする梓の前に、手が差し出される。
曼珠のものではない。もっと細くて、節くれだった手指。
その持ち主を、梓は泣きそうになりながら見上げる。
闇に浮かび上がる真っ白な髪。衣服は乱れているが、そこに確かにあった暴力のあとはほとんど消えている。唯一変わっていないのは、美しい青紫の瞳くらいだろう。
「桜さん……」
恐ろしいわけではない。それなのに、涙が勝手に溢れた。
狼狽えたように引かれかけた手を梓は掴む。
「ごめ……なさ……。違うんです。……でも……」
頭の中で疑問符が渦を巻く。
思えば、おかしなことは幾つもあった。
偽物じゃないなら、どうして彼はあの鈴を持っている。
最初に梓とて考えたはずだ。この年で鬼法医になっているはずがないと――もしいれば、もっと騒ぎになっているはずだと。
どうしてあの鈴には、番号が振られていない。
なぜ、さっきまで立つのもやっとだったはずなのに、傷が消えているのだ。
――どうして、彼の血肉で鬼は死んだのか。
「……あなたは、誰ですか?」
縋った手はひどく冷たかった。死人のような指先に額を押し付けて泣きじゃくる梓に、桜が曼珠を振り返る。
「あんたの好きにすれば? ただし、その子にだけだ」
言って、曼珠はちらりと己の背後を見やった。
「じゃあ」
と、桜は涙を止めれない梓の前に腰を屈める。吸い込まれそうな深い瞳が、幼子をあやすように苦笑する。
色も造形も、年すら違うのにその目はひどく父に似ていた。
「約束。あの火がここにくるまでなら、俺たちは君に嘘をつかない」
言われ、梓も気がついた。彼らの背後にある階段の下――町の方でいくつもの火が揺らめいている。
きっと、先ほどの鬼の叫びが聞こえたのだろう。もうすぐあの火は騒ぎの元を確かめるためにここまでくるはずだ。
「時間はあんまりないと思うから、よく考えてね。……ま、君は賢いから多分わかってるんでしょう」
曼珠が肩をすくめた。梓は頷き、正面にある優しい瞳を真っ直ぐに見やる。
「――あなたの本当の名前は、桜之宮万象。黄泉薬を飲んで不老不死になり、今までずっと生きてきた。違いますか?」
あの鈴に番号がなかったのは、最初に作られたものだからだ。一千年の昔に王から賜った、本物の桜鈴。
「半分正解で、半分不正解」
桜が笑った。
「黄泉薬は、不老不死の薬なんかじゃないんだ。それに、俺はずっと生きてきたわけじゃない」
彼の答えに、なぜか背後にいる曼珠の顔が陰った。
「では、黄泉薬とは一体なんでしょう?」
「わからない」
「え? でも……」
黄泉薬をつくったのは彼のはずだ。声にされなかった梓の問いを察したのだろう。自嘲するように、桜は己の白髪を指先で弄んだ。
「……俺はね、途中で諦めたんだよ。人の身体では無理だとわかると、途端に恐ろしくなった。どうしてもその先に踏み込むことができなかった。だったら、勅命に叛いたと首を刎ねられた方が何倍もマシだと思ったんだ」
桜之宮万象の死因は不明である。
そもそもが千年も前の人物。生没年も推定がつくような曖昧なものだし、ヘタをしたら実在すら不明だ。かろうじてわかるのは、若くして亡くなったことくらいだろう。
成した偉業は伝説として語られ、稚児の御伽噺や戯曲となったが、彼の生涯は消して幸福なものではなかった。
それを象徴するように、伝えられる晩年はどれも悲劇的なものだ。
いわく、時の王の不興を買い処刑された。
あるいは、その才を妬んだ同門の者たちに私刑にかけられた。愛を欲した妻に毒を盛られた。
荒唐無稽なものだと、人心を惑わす妖を鎮めるための人身御供として、その身を捧げたというものまである。
「あなたは、鬼なんですか?」
「多分ね」
階段の下から、明かりと共に人の話し声が近づいてきていた。もう時間がない。梓は最後の問いを口にする。
「……黄泉薬を完成させたのは、誰だったんですか?」
桜の喉が微かに上下した。
適切な言葉を探すように唇を開け、また閉じる。それを幾度か繰り返した末、泣きそうな顔で彼は告げた。
「――友人だよ」
たぶん、それだけでは言い表せない関係なのだろう。
それを問う時間は、もう残っていなかった。
「おい! 塔が燃えてるぞ!」
緊迫した声。たくさんの明かり。時間切れだ。
「行くよ」
桜の肩を叩いた曼珠が、階段とは逆方向の山を顎でしゃくる。しっかり荷物を持ってるあたり、きっと彼は最初からこうするつもりだったのだ。夜の山に入るなど正気の沙汰ではないが、この二人なら問題はないのだろう。
頷いた桜が立ち上がる。入れ違いに梓の方に顔を寄せた曼珠が囁いた。
「寄る辺を壊しちゃってごめんね。僕らを悪者にしても構わないから」
彼らは優しいが、最後まで答えはくれなかった。
梓が立つのに手を貸してはくれても「こっちだよ」と手を引いてはくれない。
「――これからどうするかは、君の自由だ」
鮮やかに笑い、鬼狩りたちは闇に消えた。
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