白亥の刻・弍 ー 決着 ー

 半ば転がるように外に出た途端、冷たい雨が全身を濡らした。

 見上げた空は黒く、雲の合間を青い稲光がはしっているのが見てとれる。

「……っそ、が」

 すぐ傍で聞こえた声に、梓は視線を下げる。

 散らばった瓦礫に半ば埋もれるようにして呻いているのは曼珠だ。先ほどの音と振動は、やはり彼が塔に叩きつけられたものだったのだろう。

 立ちあがろうとするのを押さえつけるように、白い閃光がひらめく。凄まじい破裂音が塔の上部から響いた。

「落ちたな……」

 ぼそりと言ったのは桜だ。燃え上がる炎に、周囲が赤く照らされる。

「……あっちに落ちてくれりゃよかったのに」

 曼珠の文句を嘲笑うように、雷鳴とは異なる咆哮が赤い空間を震わせた。

 赤黒い皮膚。人の数倍はあろうかという体躯に、それに相応しい大木のごとき手足。涎の滴る口元からぞろりと覗く牙は、どれもが梓の持つ包丁より大きい。

 境内の真ん中に仁王立ち、雷にいらうように吠えているのは一匹の鬼だった。

 その足元に見覚えのある姿を見つけ、梓は思わず叫ぶ。

「天日様!」

「おや」

 初めて梓に気がついたように向けられた顔に、梓の知る優しい面影はなかった。

 顔の造形が変わったわけではない。まして、浮かべる表情が変わったわけでもない。

 だが、この惨状で常と変わらぬこと。それが、はっきりと彼の異常性を示していた。

「この鬼は……何。いえ、誰……ですか。私たちを、騙してたんですか?」

「そうだよ」

 彼の声は、説法と同じようによく耳に響く。この嵐の中でさえも。

「お前たちみたいに助かりそうな奴は助け、そうでない者は餌として、あるいは見せ物として引き取るんだ。――家族も、喜んで私に預けたぞ」

「くそが」

 罵ったのは桜だ。

 その声が聞こえたのだろう。桜に目をやった天日が、驚きに目を見開く。

「お前、なんだその髪は……?!」

 同じく目を向けた梓も、思わず息をのむ。

 髪が溶けていた。

 違う、溶けているのは彼の髪の色だ。雨に濡れた下から現れたのは、まるで鬼のごとき白。

 答える代わりに、桜は別の問いかけを返す。


「――お前は、こういう髪をした男を他に知っているか?」

「知るわけがないだろう! ……ああ、そうか」


 何かに気づいたように、天日の顔が醜悪に歪む。

「黄泉薬を飲んだ盗人というのはお前の方だったのか! やはり知っていたんだな! ははははは! よい、よいぞ! これで不老不死の力は私のものだ!」

 タガが外れたように天日が笑いだす。思わず足を引いた梓の肩が、後ろから軽く叩かれた。叩いたのは曼珠だ。

「……黄泉薬?」

 梓を後ろに押しやった彼が、平坦な声で尋ねる。

「お前、もしかしてのために俺らにちょっかいかけたのか?」

「そんなもん、だと? お前は何もわかっていない。不老不死だぞ?! 欲しがらない方がどうかしている!」

 目を剥き、唾を飛ばしながら叫ぶ天日には、もはや聖人然とした教祖の姿はない。

 そこにいるのは、醜い欲望を晒すただの老人だ。背後に従えられた鬼が緩慢に足を踏み出す様が、やけにゆっくりと目に映った。


 視界に影が差す。

 梓は、いつの間にか自分がへたりこんでいることに気がついた。

 影は彼女の前に立った二人の男のものだ。

 半身で鬼に相対する彼らの顔が、梓にはよく見えた。

 そこに浮かぶ表情をなんと言葉にしよう。


 同情。憐憫。あるいは諦観。


 それらを断ち切るように一度目を閉じた桜が、黙りこむ曼珠に顔を向ける。

「……曼珠」

「嫌だ」

 噛み締めるように言われた声は震えていた。鬼が一歩を踏み出し、石畳が砕けた。

「ダメだ。今のお前にはこれ以上許可できない」

「嫌だ」

 がんぜない子供のように繰り返した曼珠が刀を持ち上げる。だが、梓の目から見てもその動作はひどく鈍い。

 ため息をついた桜は懐から一本の短刀を出す。


 鬼がさらに歩を進める。


「知ってるだろ。俺は別に大丈夫」

 苦笑した桜が刀を抜く。白鞘から抜き放たれたのは、一見すればごく普通の刀だった。

 だが、よく見れば切先だけが違う。まるで銛のような、がついている。

「……そういう問題じゃねえんだよ! いい加減わかれ。死ななけりゃ何してもいいわけじゃねえんだぞ!」

 怒声を上げる曼珠に、桜が目を細めた。

「怒るなよ。俺は好きでお前に血を預けるんだ」



 鬼の姿はすでに間近に迫っていた。

 爛々と光る目が三人を見下ろしている。



「あんた、ほんっとーに狡いよな」

 曼珠の頬を滴が一つ伝った。きっと雨だろう。けれど、梓の目にはそれが泣いてるように見えた。

「最高の褒め言葉だよ」

 桜が己の左腕に刀を突き立てる。間髪入れずに抜き、曼珠に押し付けるように渡した。


 鬼が手を伸ばす。

 生臭い息を吹きかけられ、雨がぱっと飛び散った。


 同時に、曼珠が踏み込む。上方に振るわれた白刃が、鬼の腕に触れた。

 響いたのは、ごとりという音。

 落ちたのは石となった鬼の腕だった。

 のけぞった鬼の口から、この世のものとも思えぬ絶叫が迸る。無茶苦茶に振り回される逆の腕を避けざまに、さらに一閃。

 再び硬い音を響かせて、鬼の手首より先が落ちた。

 軽業師のように鬼の腕から肩までを一息に駆け上った曼珠が、鬼の首筋に刀を叩き込む。動きを止める体を滑り降り、さらに左胸――心臓を一突き。


 今度は鬼の口から悲鳴は出なかった。

 ただ、何かに安堵するような小さな吐息を残し――見る見るうちに全身を石に変じさせ、限界を迎えたように砕け散る。


「な……」

 石が雨と降る中、呆然とする天日の前。中空に放り出された曼珠がくるりと体勢を整える。

「あばよ」

 嗤い、その脳天に思い切り柄が叩きつけられた。

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