金戌の刻・弍 ー 大鬼 ー

「汚れなかった?」

 曼珠が振り返った時には、その場に立っている者は梓を除いていなくなっていた。

 男たちはかろうじて生きているようだったが、逆に言えば生きているだけだ。

 足を飛ばされた者、手を裂かれた者。顔を削がれた者。

 重症というのも躊躇われる惨状を作り出した本人は、顔色一つ変えていない。

 恐ろしいのは、暗闇に光る彼の獲物も同じだったことだ。あれだけ派手に斬ったというのに、刀身には血がほとんどついていない。


 ――昔、聞いたことがある。


 達人が振るう刃は、その速さゆえにほとんど血脂がつかず何人でも斬れるのだと。それは、とりもなおさず彼が人を斬ることに何の躊躇いもないことの証左に他ならない。

 白々と光る刃に、梓は身震いした。


「とりあえず、事情の説明はほしいな」


 痙攣する男たちを容赦なく踏みしだいて進んだ曼珠は、柱に縛りつけられていた桜のいましめを解いた。

「ぶ、無事ですか?」

 男たちを避けながら傍に寄った梓は、こわごわと尋ねる。

「生きてはいるよ」

 素気なく答えた曼珠は、そこで眉を寄せた。

「悪い、梓ちゃん。そいつお願い」

 言葉通り、ぐったりした桜を押し付けられる。痩身とはいえ、男性の身体だ。思わずよろめく梓には構わず、曼珠は高欄から身を乗り出して下界を見下ろした。

 血の匂いに酔っていて気がつかなかったが、外は大雨だった。湿っぽい風が髪を乱して吹き抜ける。


 ずん、という低い地響きが塔を揺らした。


「な、何……?」

 思わず血塗れの男たちに突っ込みそうになった梓は、かろうじて踏みとどまる。

「鬼だよ」

 端的に答えた曼珠は、不機嫌そうに唸った。

「奥の手にしちゃタチが悪いデカさだな。あのクソ坊主、どこで飼ってやがった」

 再びの地響き。今度はさっきより大きい。明らかに、がこの塔に危害を加えている。

「血の匂いに釣られてる。あと数回で崩れるぞ」

「そんな……急いで逃げないと!」

 追い詰めるように、再びの衝撃。パラパラと天井から建材の欠片が降ってくる。

 小さく呻き声を上げる桜と、泣きそうな梓を順に見た曼珠が小さく溜息をついた。

「いいよ、君はゆっくり降りてきな」

 言うが早いか、高欄に足をかける。彼が何をするつもりか悟り、梓は悲鳴を上げた。

「曼珠さん?!」

「その代わり、そいつのこと頼んだよ」

 言葉だけを残して、その身体が宙に踊る。一拍ののち、人とも獣ともつかない咆哮が夜闇に轟いた。

 その絶叫によばれたかのように、稲光が室内を昼のように照らし出す。


 血塗れの壁に映されたのは、異形の化物の影絵だった。


 優に人の倍はあるだろう巨躯。振り乱された髪。伸びた爪。裂けた口に並ぶアレは牙だろうか。

 その肩口に刀を突き立てている小さな影は曼珠だろう。

 あれでは子供と大人。いや、子猫と大人だ。

 見えたのは一瞬だが、まなこに焼きついた絶望的な光景に足が竦む。

 勝てるわけがない。


「……あの、馬鹿」


 腕の中で上がった苦しそうな声に、梓は我に返った。

「桜さん、大丈夫ですか?!」

「俺は問題ない……それより、あの馬鹿止めないと」

「そ、そうですよね。あんなの、勝てっこない……!」

「いや、それは」

 言いかけ、激しく咳き込む背中を慌てて梓はさすった。だが、そこで違和感をおぼえる。

 ひどく苦しそうだが、彼の傷は先ほどより減っている気がしたのだ。

「桜さん……?」

「あれくらい、普段のあいつなら楽勝だよ」

「え?」

 普段ならとは、どういうことだろう。

 よろめきながらも歩き出す彼に肩を貸しながら、梓は尋ねる。

「曼珠さん、どこか悪いんですか?」

「鬼を三十近く斬って健康な人間がいるかよ」

 吐き捨てられた言葉に、梓は瞠目した。その数が人間離れした数だというのは、いくらなんでもわかる。

 階段を降りながら、桜は続ける。

「あんたが会ったのは、あいつの鬼退治の帰りだよ。昨日の晩から解毒剤は飲ませてるけど、一週間くらいしないと毒は抜けない」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、再びの衝撃。

 ただし、今度は先より随分と小さい。

 鬼より小さなものが、叩きつけられたような振動だ。

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