鴇申の刻・弐 ー 鬼病 ー
戸を叩こうと手を上げ、下ろす。この動作も五度目だ。
だが、帰るわけにはいかない。結局、ぐだぐだと思い悩んでいるうちに夕刻になってしまった。これ以上引き伸ばすと夜になってしまう。
意を決し、梓は六度目の挑戦をしようと再び拳を上げ――
「別にとって喰いやしないよ。開いてるからどーぞ」
中から響いた気だるげな声に、握った拳を開いて戸にかけた。
「……失礼します」
「はいはい」
覗き込んだ室内は、昨日より格段に片づいていた。といっても、隅に本を積んで紙を束ねただけだ。それでも、本と紙以外のものが無さすぎるため部屋はかなり広くなっている。
がらんとした部屋に胡座をかいていた曼珠が顔を上げた。膝には、おそらく部屋にあったのだろう本をのせている。
「や、昨日ぶり。それで、何か用かな? あそこまで言ったのに顔を見せにくる女の子は初めてだよ。肝が据わってるねえ」
ケラケラと笑う彼に、昨夜の冷たさはない。
そのことに少し安心して、梓は
「昨夜は、申し訳ありませんでした」
失念していたとはいえ、彼らにアレは見せるべきではなかったのだ。謝ってすむことではないが、それだけは伝えたかった。
土下座する梓の頭上で、ぱたんと本を閉じる音がした。ついで、ギシギシという床の軋む音。
「顔上げな。昨日も言ったけど、別に僕は怒ってないよ」
顔を上げた梓の前に、手が差し出された。
「外聞も悪いし、とりあえず上がんな」
指は細いが、預けた掌は
「茶はないけど、水でいい?――って、器どこにやったっけな」
言いながら、流しをごそごそと探る曼珠の背に梓は声をかける。
「……お優しいんですね」
「うん?」
「私を許してくださったので。ありがとうございます」
顔だけで振り返った曼珠が、わずかに口角を上げる。
「そうかな?」
仕草だけで部屋に上がるよう促され、梓は
「これは僕の持論だけどね」
器を探すのは諦めたのか、椀に水を注いで持ってきた曼珠が言う。
「怒るっていうのは、きっと誰かに期待してるからなんだよ。言えばわかってくれるかもしれない。理解しあえるかもしれないってさ」
欠けた椀と、比較的綺麗な椀。後者を梓の前に「どうぞ」と置いて、曼珠は最初に座っていたあたりに腰を下ろした。
「でも僕は他人にそこまで期待してない。もっとハッキリ言うと、君たちに興味がない。だからお礼は言わなくていいよ。それよりさ、僕も気になってたんだけど」
口を開きかける梓を制するように話題を変えた曼珠は、軽い笑みのまま続ける。
「どうして君はこの町にこだわるの? 確かに、ここは鬼が出ないよ。でも絶対じゃない。それに、他の大きな町だって中にまで鬼が入ってくることは滅多にないだろう?」
非難の色はない。ただ、彼は事実を淡々と告げているだけだ。その事実のことごとくが、梓が無意識に選んできた逃げ道を潰しているだけで。次に何を言われるか予測してしまい、梓は懐の守水を強く握りしめた。
「君は賢い子だ。鬼に家族を殺されたのなら、本物だって見たことはあるだろう。鬼法医を目指す父親がいたなら、尚更だ。昨日のアレがどういうことかもわかっているはずだし、何ならその守水だって――」
「止めてください!」
自分でも驚くほどの大きな声が喉から出た。笑みを消した曼珠が、梓を見つめる。
明り取りの窓から差し込んだ夕日が、白い顔を赤く染め上げた。
「父は……鬼になって死にました。最期の方はほとんど自分もわからなくなって、看病してた母も殺して。かろうじて浮き上がった理性の合間に、己の喉を掻き切って死にました」
昨日殺された男と同じような、中期症状特有の錯乱だ。呂律の回らない舌で上げた父の絶叫が、今も耳朶にこびりついて離れない。
「アレを、あなたたちは人と呼ぶんですか?」
鬼の病は体液などから感染する。耐性があったのか梓自身は鬼に変じなかったが、彼女の家から鬼が出たということは、たちまち村中に広まった。
「家は焼かれ、私は鬼の子として村を追われました。……そんな時、私を助けてここに連れてきてくれたのが天日様でした。あの人は私に居場所をくれたんです」
手持ち無沙汰に梓は椀の縁をなぞる。水面に波紋が広がった。自分は泣いているのだと、その時初めて梓は気がついた。
「
梓の恨み言にも、曼珠は眉一つ動かさなかった。
「鬼宿師は手遅れだから父を斬ると言ったし、鬼法医は村の人と一緒に私の家を焼いたわ。……助けてって言ったのに。誰も助けてなんてくれなかった!」
「――ああ、そう」
返ってきたのは、ひどく興味の薄そうな声だった。腰を上げた曼珠は、部屋の隅にある大太刀に手を伸ばす。
「僕は嘘が嫌いだから、正直に言ってあげる。――その状況なら、どんな鬼狩だって同じように動くよ。もちろん僕らもね」
「……っ!」
「でもまぁ」
手慣れた動作で背に大太刀を負った彼は、次に旅荷に手を伸ばす。二人分。これまた、あっという間に身につけると部屋を横切る。
「その後、君を一人にはしなかったかな」
言って、彼は腰をかがめて
「君の言うことはもっともだしね。それに、僕も拾われたからその気持ちはわかるよ」
頭が冷えた。同時に、なんて残酷な人だろうと梓は思った。
ここで怒ってくれたら、梓は自分の恨みが八つ当たりだと気がつかなかっただろう。
共に悲しんでくれたなら、その同情に溺れて現実を見なかっただろう。
けれど、彼はどこまでも梓に興味がなかった。だから否定も肯定もせず、事実だけを述べる。
立ち上がった曼珠は、呆然とする梓を振り返った。その顔には、見慣れた軽薄な笑みが浮かんでいる。
「あ、そうだ。その貸本さぁ、返しといてくれないかな」
「……どこへ行くんですか?」
「さて、どこだろうねえ。なんなら、一緒に来るかい? 面白いものが見れるかもしれないよ」
彼が言い終わると同時に、戸を叩く音が黄昏色の室内に落ちた。
「もし、こちらに鬼宿師様はいらっしゃいますか? 私、天日様の使いでやって参りました」
告げられた名に、曼珠が薄い唇を歪めた。
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