金戌の刻・壱 ー 九陽教 ー
いつの間にか空には煌々とした丸い月が昇っていた。その月に誘われるようにして、店から家屋から、ぞろぞろと人が通りへと流れてくる。
「今宵は満月ぞ」
「天日様が鬼祓いをされる」
「ありがたや、ありがたや」
「これで、この月も乗り切れるというものだ」
一体どこにこれだけに人間がいたというのか。通りへと溢れた人が波となって目指す先は、町の奥。
暗い中に威容をもって
大きな階段の先には朱と金で飾られた立派な表門があり、両側で燃える篝火に照らされている。そこだけが真昼のように照らされた様は、まるで芸能の舞台のようですらあった。
今、その表門には一人の男が立っている。
禿頭のため判然としないが、年の頃は五十前半に見えた。緋の衣に袈裟。袈裟には、太陽を象った円と十字を組み合わせた黄金の太陽十字が描かれている。
「誰あれ」
梓に連れてこられ、大階段の下に集った曼珠が男を無遠慮に指差した。
「天日様ですよ! 九陽教を興して私たちを守ってくださっている、偉大なお方です」
「ふーん。桜ちゃん、知ってる?」
「俺が貸本屋と往診以外に外出ると思ってんのか、お前は」
当然のごとく言い切られ、曼珠は「だよねえ」と苦笑した。
「というかさ、なんでこの短期間で客とってんだよあんたは」
「道端で腰挫いてた婆さんを診てっやったら、なんか増えた。ちなみにお前がさっき蹴った徳利は礼代わりに貰ったやつだ」
「あー、はいはい。悪うございました」
ひょい、と曼珠が頭を下げたところで
「皆さん」
天日が口を開いた。応じて、集った町人が声を上げる。賞賛の言葉しかないそれらを受け止め、片手を上げてやんわりと制した彼は視線をツイと逸らす。
「今宵も、破邪の薬水をお授けいたしましょう」
向かって左に控えていた侍従が、一歩進み出た。捧げられた両手には美しい朱塗りの大きな杯がのっている。いっそ深皿とでも言ったほうがよいそこに、天日は揃いの
杯は空ではなかった。引き上げられた柄杓には、並々と液体がたたえられている。仄かに黄金がかったそれを、天日は眼下の者たちに向けてふりかけた。
ワッと歓声が上がる。
篝火の赤と満月の白々とした光に照らされ、粘性を帯びた水がきらきらと宙を舞った。
「天日様がご祈祷してくれたこの薬水には、鬼を遠ざける力があるんですよ。だから、この町にはもう何年も鬼が出ていないんです」
梓たち町人が肌身離さず持っている守水に入っているのも同じものだ。
「へぇ」
降りかかった薬水の匂いを嗅いでいた桜の口が、皮肉げに歪む。
「それは結構」
水を撒き終えた天日に再び視線で促され、今度は右の従者が進み出た。その手には注連縄と見まごうほどの太い縄を持っている。
縄に繋がれた先――暗闇から現れたのは、一匹の鬼だった。
色の抜けた白い髪に、こぼれ落ちそうなほど押し出された目。常人ではあり得ない太さへと膨れ上がった腕と胸。声を上げないよう
だが、集った人々から上るのは悲鳴ではなく歓声だ。思わず梓は目を逸らす。傍にいる二人が息を呑む気配が伝わってきた。
しまった、今日は
「あれは何?」
尋ねたのは曼珠だ。やけにその声は優しい。
「お、鬼……です」
震える声で梓は答えた。顔を上げることができない。
「鬼だと?」
頭の上から振ってきた平坦な声は桜のものだろう。
天日が再び声を張り上げる。
「さぁさ皆様、
熱狂する人の声。
「あれが鬼だと、お前は本気で言ってるのか?」
きっと鬼は、いつも通り水を怖がるのだろう。怯えた隙に従者が首を落とすのだろう。
――そして人々はなんの疑問も抱かずにそれを受け入れる。
「てめえ、知ってたな?」
低く唸った桜の声に。そこに確かに宿る侮蔑に、梓は思わず目を閉じて耳を塞いだ。
「放っといてください……! そっとしておいて。私には……私たちには、これが幸せなんです」
指の隙間から、喜色に染まる人の叫びが、くぐもった鬼の声が入り込む。いつもと違ったのは
「クソが」
怒りに満ちた毒づき。「ちょっと」という慌てたような声。
ただならぬ様子に、思わず梓は顔を上げる。
「あんた、何するつもりだよ」
「わかってんだろうが! あの茶番を止めるぞ、手伝え」
手を振り上げて夢中になっている町人を押しのけた桜が「この詐欺師野郎!」と叫ぶ。だが、何十――何百といる人の叫びには届かない。もちろん、遥か彼方にいる階段にいる天日や鬼は言うまでもない。
だというのに、鬼が顔を向けた。目が合う。
遠くて見えないはずなのに、血走った目に宿る哀願をはっきりと梓は見た。従者が刀を振り上げる。
「止めろ、このクソ詐欺師!」
今度は、何人かの耳にはとまったのだろう。近くにいた男たちが鋭い目を向ける。
「あの馬鹿」
舌打ちした曼珠の体が沈み込んだ――と、思った時には桜が「ぐ」と短い苦鳴と共にくずおれた。曼珠に腹を殴られ、気絶したのだ。鮮やかな手つきでその痩躯を肩に抱えた曼珠が「すいません、こいつ酔ってたみたいで」と謝罪しているのが微かに聞こえた。
あらかた人の興味を逸らした曼珠が、梓の方を振り返る。
口は笑みの形を刻んでいるが、目は笑っていない。
「別に俺は怒らない。それが君らの生き方だっていうなら、お好きにどうぞ」
でも、と続けられた言葉は氷よりも冷たかった。
「もう見たくはないかな。不快だから。次は俺も、君を斬らない自信がない」
彼の後ろで、刎ねられた鬼の首が宙を舞った。
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