白亥の刻・壱 ー 鬼 ー

 その男は血まみれだった。それも全て返り血。鬼の返り血だ。

 両手足の指を使っても足りない数なのは明らかで。放っておけば彼自身も鬼へと変じて死ぬだろうことは明白だった。

 だというのに、その目には何もなかった。恐れも不安もない。

 だから、尋ねた。


 ――お前は生きたいのか? それとも死にたいのか?




 ***


 目が覚めると床に転がされていた。

 そんな経験なぞ、普通は滅多にあるものではない。だが、残念ながら桜にとってはよくあることだった。

 その原因の八割は主に相方のせいだ。

 起き上がると、鳩尾に鈍い痛みがはしった。

「いっ……つつ」

 呻いたところで、首筋を冷たい風が撫ぜた。あわせて運ばれてきたのは、特徴的な甘い香りの煙だ。

 声で気づいたのだろう。半分ほど開いた戸に寄りかかって煙管を咥えていた曼珠が顔を向ける。

「おはよ」

「夜だけどな。てめえの馬鹿力で殴るんじゃねえよ。臓器潰れたらどうしてくれる」

「ちゃんと加減してるよ」

 当たり前のように返され、桜は小さく笑った。それがどうした、と言わない彼はきっと優しい。

「そりゃどーも」

 礼を言うと、曼珠はそっぽを向いた。戸の向こうの暗闇に青白い煙が流れていく。

「そんなもんで間に合わせんな。ちゃんと解毒剤作ってやるから」

 鬼の持つ毒で、人は鬼となる。それは鬼を狩る鬼宿師とて例外ではない。鬼の毒は非常に強力で、体液に触れるだけで罹患する。

 鬼を狩るという仕事柄、鬼宿師は毒の耐性が常人より高くないといけない。生まれながらにしてその身に鬼の毒を宿す者――それが、鬼宿師の名の由来である。

 曼珠が吸っているのは、毒の抑制作用のある葉や花を乾燥させたものだった。

「ここ出て最初の鬼やったのはいつだ?」

「五日前の夜」

「数……は覚えてないんだったか。いいや、換金額から割り出す」

「ん」

 曼珠が放った巾着を受け取り、中を見た桜は眉を寄せた。予想よりかなり多い。

「お前、二、三十って言わなかったか?」

「この近くに鬼がいなかったからな。山二つ越えて行ってきた。そっちは逆に鬼がわんさかいてね、単価を馬鹿みたいに上げてたんだよ」

 鬼の増殖は、一度始まると雪だるま式に増える一方だ。時には人以外の動物をも巻き込んで爆発的な被害を出す。恐らくはそうなる前に鬼狩りを呼ぶための餌だろう。

「一匹で銀二両。普通の二倍だとさ。ありがたくて涙が出るね」

「一人な」

 訂正し、桜は部屋の隅へと向かった。背後で戸の閉まる音がしたのを確認し、必要なものを薬箱から取り出す。

 附子ぶし顛茄てんか莨菪ろうとう。どれもこれも毒消の基本的な薬物だが、摂取量を誤れば死に至る猛毒でもある。

 鬼法医の数が少ないのも、解毒剤が市井にまで出回らないのもそれが原因であった。症例や進行具合によって調合の具合は違ってくる上に、見誤れば死に追いやることすらある。

 その事例を挙げれば枚挙にいとまがなく、市井の鬼法医といえば「藪医者」「人殺し」と揶揄されることも多い。そのくせ期待値だけは高く、精神的圧力は凄まじい。

 だからだろう。国からの認可を受けた鬼法医の多くは宮廷に仕え、地方から集められた鬼の死骸を研究して一生を終える。そちらの方が官位も禄も高く、社会的にも安定しているのである意味仕方のないことではあるが。

「あんたさぁ」

 不機嫌そうな声で桜は我に返った。顔を上げると、胡座をかいた膝に頬杖をついた曼珠と目があう。

「他人のことばっかり見るの止めな。昔から何度も痛い目あってるんだから、いい加減学べよ」

 おそらく、先刻のことを言っているのだろう。殴られた腹がずきりと痛んだ。

「あれは、まだ人だった」

「だから?」

 間髪入れずに返ってきたのは、ドスのきいた低い声だった。

「あそこまで進行していたら、どうせ死んでたろ。それが遅いか早いかだけだ」

 鬼の毒は、病と混同されるほどに進行が遅い。潜伏期間は一週間前後。初期症状は腹痛や筋脱力にくわえ、太陽の光に当たることができなくなるのが大きな特徴だ。初期症状は三日ほどで中期症状へと移行する。

 中期症状は、さらに発熱や呼吸困難が加わる。

 そして、脳が少しずつ破壊されていくのだ。

 意識は混濁し、些細な物音や感覚で錯乱状態となり、別人のように狂う。特に彼らが嫌うのは、水の音だった。

 薬で治るのは、初期症状の者までだ。見世物にされていた男はもう中期症状だった。それも、かなり末期に近い。舌を切られて轡をかまされていたから言葉を話せはしなかったが、目にはまだ意志の欠片があった。それなら――

「人として死ぬべきだった」

 返答は、ハッと嘲るような声だった。

「お前の物差しで測んな。それでてめえがくたばったら本末転倒だろうが、間抜け」

「俺は――」

「お前がよくても俺が困るんだよ。言わせんな、ド阿呆」

 鬼宿師と鬼法医は切っても切れぬ仲だ。鬼宿師は鬼法医の薬なしでは生きれず、鬼法医は鬼宿師なくして鬼に近寄ることもかなわない。

 ゆえに、相性の如何に関係なく鬼狩りは鬼宿師と鬼法医の二人が行動を共にする。利害の一致からくるものだが、一蓮托生というわけだ。

「……悪かった」

「いーよ別に。でも、あれはただの詐欺師だ。僕らの求める奴じゃない。あの水だって、何の力もなかったし」

 元のとぼけた口調に戻った曼珠が軽く肩をすくめた。

「周りに鬼がいないのだけは本当だけど。それだって、裏でそこらの鬼宿師を雇って近くの鬼だけは殺してんだろ」

 だから、周りの町村の方に鬼が流れていったのだ。彼らとて、生存本能は残っている。

「近いうちに次の町に行くよ」

「……わかった」

 答えた声は、思ったよりも重くなった。曼珠が軽く鼻を鳴らす。

「僕はあんたほど優しくないし、時間もない。騙されてても当人たちが幸せなら、それでいいと思ってる」

「わかってる。別に怒鳴りこんだりはしないから安心しろ」

「知ってるよ。あんた、口は悪いし隠しごとばっかりだけど、嘘はつかないから」

 にこりと笑った曼珠は続けた。

ぼくらは弱いからね。何かに縋らないと歩けない生き物だ」

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