銀酉の刻・壱 ー 鬼法医 ー

 町、と呼ばれてこそいるが神成は典型的な田舎の門前町だ。都からも離れているし、宿場町のように旅人が頻繁に訪れるわけでもない。

「神成町にきたのに九陽教を知らずに去るなんて、絶対に損をしていますよ」

 言って、梓は眼前に広がる景色を左腕でひと撫でした。

 中央を貫く大通りは町が栄えるよりずっと前からあり、今も昔も町の生活の中心となっている。両側には飲食店や小間物屋が軒を連ね、大小幾つもの路地が広がっている様は見慣れたながらに壮観だった。最奥には、この町の核となる寺院が燦然と鎮座している。

「見えますか? 奥に見えるのが、九陽院。十五年前の『白亥の大震』以来、我々を守ってくださっている天日てんじつ様がいらっしゃる……って、ちょっと曼珠さん!」

 説明している途中だというのに、さっさと歩を進める青年に梓は声を荒げた。

「興味あるって言ってたから説明してるのに、なんで先に行ってるんですか!」

「え? あー、そっか。ごめんごめん。でもさ、せっかくなんだから全員揃ってからの方がよくない?」

「む……確かに。そう、ですね」

 そういえば、先に夕餉ゆうげのことを言われていた気がする。

「滞在されてる場所は覚えてるんですか?」

「だいじょぶ、だいじょぶ。町に着いたらこっちのもんだよ」

 相変わらずのゆるさに不安は残るが、確かに彼の足取りはしっかりしている。

 てっきりどこかの宿にでも行くのかと思ったが、曼珠が向かったのは町人たちが住まう長屋街の方だった。しかもあまり治安がよろしくない。大通りから外れ、さらに路地をいくつか曲がった先で彼は足を止める。

「ここ、ですか?」

「一月近く滞在することもあるからねえ。宿取るよりこっちのが安いんだ」

 目の前に建っているのは、おせじにも綺麗とは言いがたい古びた長屋だ。

 おそらくは短期間で借主を変えていく類のものなのだろう。表札の類は見当たらず、扉や壁もだいぶと傷んでいる。

「よいしょっと。たーだいまー」

 ガタピシと音を立てる引き戸を開けた曼珠が中へと消える。一人で取り残されるのも心細く、梓も慌てて後を追った。

 足を踏み入れてまず感じたのは、古い紙と濃い墨の匂い。視線を巡らせてみれば、嗅覚を裏切らない視覚情報が襲いかかってきた。

 すなわち、大量の本、本、本。

 それも、専門的なものからわらしが読む黄表紙、果ては歴史書や随筆集まである。

 墨の匂いは、それらの本に負けず劣らず散らかされた大量の紙片だろう。黒くなるほど書き込まれた宿紙しゅくがみや、清書されたらしい半紙が散らばっている。足の踏み場もない、とは正にこのことだろう。部屋の広さは六畳ほどもあるだろうに、よくぞこれだけ紙で埋めたものである。

 先に入った曼珠も呆れたように立ち尽くしていたが、小さく舌を打った。

「五日間でどんだけ集めてんだ、この野郎」

 乱暴に吐き捨てるや否や、草鞋わらじを脱いでわずかに見える畳へと足を踏み出す。彼が進む先を目で追った梓は、そこでようやく本の山に埋もれた人影を発見した。

 部屋のど真ん中。体をくの字に折り曲げて寝息をたてている男がいる。顔はよく見えないが、なぜか頭の下には貧乏徳利が枕のように敷かれていた。

 梓が見守る前で、器用に書物と紙を避けて近づいていった曼珠は、一瞬の躊躇もなく足を振り上げる。

「起きやがれ、この社会不適合者」

 言葉よりも早く動いた右足が、瓶を蹴り飛ばした。側頭部が畳に叩きつけられる鈍い音が部屋に響く。ほぼ同時に、「ふべっ」だか「むげっ」だかよくわからない呻き声が上がった。

 もっとも、蹴った張本人に反省の色は微塵もない。しゃがみ込んだ曼珠は、己の膝に両肘をついてにこやかに告げる。

「ただいま、桜ちゃん」

 床で呻いていた男が、そこでようやく顔を上げた。

 曼珠よりは年は上――恐らくは二十代の半ばだろう。綺麗に筋の通った目鼻だちをしている。だが、白いを通り越して青白い顔色と仏頂面が、美貌をかなり残念なものしていた。櫛削れば、道ゆく娘は振り返るに違いないだろう束ねられた黒髪も同様だ。

「……おう、おかえり」

 桜と呼ばれた彼が立ち上がったのを見て、梓は内心で感嘆の声を上げる。大きい。

 猫背なのと痩身なためわかりにくいが、曼珠より頭一つ分は大きいだろう。

 梓に背を向ける形で彼が向かったのは、部屋の隅に置かれていた薬箱の方だった。町医者が使うような小振りなものではなく、幅広の背負い帯がついた立派なものだ。大きさだけを見れば、薬というより山伏が持つおいの方が近いかもしれない。

「そんで? 今回はどれくらいやったんだ」

「えーと、どうだったかな。途中でわかんなくなってさ」

「ああ?」

 低い声と共に男が振り返る。

「てめえ、ちゃんと数えとけって言ったろうが! 何で俺は問診すらまともにできねえんだよ」

「いいじゃん。桜ちゃんだし」

「よかねえよ! 俺以外と組んだ時に困るのはお前だぞ?!」

 叫んだ切長の目の端が引き攣っている。よく見たら隈もあるし、なかなかに苦労していそうだ。

 と、そこで梓は気がつく。彼の目は硝子ギヤマンのように澄んだ青紫色をしていた。

 色つきの目。彩眼さいがんだ。視線に気がついたのか、宵闇色の瞳が梓を捉えた。

「――なんだ、そこのちんちくりん。狂い目は珍しいか?」

 皮肉げに釣り上がった口から出たのは、彩眼の蔑称だ。乱暴なもの言いに頬が熱くなる。

「ちがいますっ! 私はただ、綺麗な彩眼だなと思っただけで……! それに、私はもう十五です」

「ふーん。……で、誰?」

 後半の問いは曼珠に向けてである。

「梓ちゃん」

「そういうことじゃねえよ。夜鷹にしちゃおぼこいし……何、お前の客か? それか患者?」

「どれも外れー。迷ってたところを、町まで連れてきてもらいました。ついでに今から美味しいご飯屋さんに連れていってもらう予定です」

「あっそう」

 欠伸まじりに相槌を打つ相手に、曼珠はにんまりと笑った。

「ちなみに、あんたも連れてくから」

「はぁ?! 聞いてねえぞ」

「決定事項だよ。どうせ一人だとロクなもん食ってねえでしょ」

 渋る彼の背中をぐいぐいと押し、再び梓の前に戻ってきた曼珠が「ということで、よろしくね」と片手を振った。

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