4-4 悪食にあるまじき理由

「僕もいつかはここに来るよ」

「いつかって、いつですか」


 稲波が僕の服の裾を強く引っ張るから、そのまま抱き寄せて頭をゆっくり撫でてやる。服が伸びたら多々良がうるさいのだ。


「いつになるかわからないけど、僕はまだ地獄ここでは働けない」

「何でですか!? ここには仲間もたくさんいますし、朝昼晩食べ放題ですよ!」


 地獄って朝昼晩とかあるんだ!? というのが正直な感想である。ここに来て数時間経ってるけど、空の色も温度も何も変わってないよ!?


「何も苦労することもないんですよ? 食べ物を得るために働かなくたって良いんです。獄卒になれば、食べることこそが私達の労働なんです。基本的には獣や虫の獄卒の補助ではありますが、等活とうかつ地獄の不喜処ふきしょに、衆合しゅうごう地獄の朱誅処しゅちゅうしょ大鉢頭摩処だいはちずましょ、それから――」

「わかったわかった。悪食の働き口が豊富にあるのはもうわかったから。僕、そういうの全然覚えられないからさ、一旦良いや」


 本格的に働くようになったら、その時に教えてよ、と言って、透けるような銀色の長い髪を手櫛で梳いてやる。くるくるふわふわな僕のものとは違って、ハリのある、真っ直ぐな髪だ。


「確かに地上はたぶん悪食僕らが生きるにはなかなか不便かもしれないけど。それでも、美味しいものがたくさんあるんだ。まぁ、生きてる人間の方が美味しいって言われたらそれまでなんだけど」


 でもさ、例えば僕がとんでもない馬鹿舌だったりする可能性も0じゃないと思うんだよ。それで、万が一、何かの間違いで生きた人間を食べてしまったとして、美味しく感じなかったらかなり損じゃん。そう考えたら、そんな一か八かで人間を襲うよりは、いま美味しいと感じるものを多少の苦労や我慢と引き換えにでも食べたい。


 僕とそう変わらない大きさの妹をぎゅうと抱き締めて、ゆっくりとそう言う。


「わかるかな、この感覚」

「わかりません、私には。だって、ここでなら、手を伸ばすだけで食べられるんですよ。我慢なんかしなくて良いのに」

「たぶんね、妖怪――悪食の考え方とは違うと思う。僕は人間の世界にずっといたからね、もうだいぶ染まっちゃったのかも」


 あはは、と軽く笑ってみせると、それにつられてか稲波も少し笑った。眉間にしわを寄せて、ぎゅっと瞑った瞼から、涙がぽろりと落ちる。


「地上に五百年もいるからですよ。悪食が我慢するなんておかしいです」

「だよねぇ」


 だけど、地上に残りたい理由はそれだけですか? と稲波が恨めしそうに口を尖らせる。


「何でそう思うの?」

「だって、染まった、なんて言うから。食べ物以外にもまだあるんじゃないかって思ったんです。悪食にあるまじきことですけど」

「確かにね」


 何せ僕らは『食べること』が最優先なのだ。まぁ、大抵の生き物はそうなんだろうけど。


 ふむ、と目を閉じればやっぱり浮かんでくるのは、あの騒がしい『白と黒』の獏っ娘だ。僕の可愛い相棒である。


「あるかも。あのね――」



***



「あっ、あれじゃないか?」


 嘉火から「稲波さんが得意なグルメのコースと言えば、あそこの茶屋は外せません」とアドバイスされ、早速向かった『寒風茶館 頞部陀あぶだ』である。茶館とは名ばかりの吹き曝し――よく言えばオープンカフェスタイル(オープンすぎるが)のそこに、二人はいた。


「おわぁ! あ、明水さん! 大変です! 抱き合ってますよ! 破廉恥! 破廉恥ですよ! 禁断の恋!」

「落ち着け多々良。数百年ぶりの再会なんだから、そりゃあ兄妹と言えど抱き合うこともあるだろうさ」

「むぎぃ。かもしれませんけどぉ!」


 いくら小姑でもちょっとあれは度が過ぎてると思うですよ、と怒りをあらわにして、多々良はふすふすと鼻息荒い。「待て多々良、せっかくの兄妹水入らずだぞ」と彼女の腰の辺りにしがみつく明水をずるずると引きずりながら、それでもややペースを落としてじりじりと近付いていく。


 と。


「大切な子がいるんだ」


 まだ三人の到着に気付いていない秋芳が、稲波の肩の上に顎を乗せた状態でぽつりと言う。


「お、おい、聞いたか多々良」

「聞きました! 聞こえました明水さん!」

「これはもうちょっと様子を見るべきなんじゃないのか」

「そのようですね」


 突然地べたに這いつくばり、ヒソヒソ話し出す二人に、嘉火が「二人共、これを」とどこから取り出したか、大きな葉がわさわさとついている枝を二本ずつ手渡す。これで身を隠せ、ということなのだろうが、それは草むらで潜入する際に効力を発揮するものであって、少なくとも、今回のように草木が一本も生えていないような砂利道で使用するアイテムではない。


 それでも「ナイスです、嘉火さん」「さすがは母さん。気が利く」と受け取るあたり、この二人も相当である。


「大切な子って」


 自分達のすぐ近くでそんなコントのような光景が展開されているとは露知らず、こちらはこちらでシリアス継続中である。


「多々良っていうんだけど、僕のことを一番大切にしてあれこれ世話を焼いてくれる夢喰い獏なんだ。僕はどうやら寿命なんてないみたいだけど、多々良はいずれ死んでしまうからさ、その時になったら僕も一緒に地獄に行く。多々良のいない世界でなんて僕はきっと生きていけないだろうし、多々良も僕がいないときっと駄目だから。だからさ、その時まで待っててよ」


「ひぐっ、ぼしゅぅ……。ぼ、ボクのことをそんな風に思っててくれたでしゅかぁぁ……」

「良かったな、多々良。何だ秋芳君のやつ、何だかんだ言って多々良のこと満更でもないんじゃないか」


 ぼたぼたと大粒の涙を流してひぐひぐとしゃくり上げる多々良に、彼女ほどではないものの、じわりと涙を滲ませる明水。まるで状況を理解していないが、二人が何やら感動している様を見て、うんうんと目を細める嘉火である。


「その方は、何ですか。恋人ですか、奥様ですか」


 そこへ稲波がそう問う。


「どっちでもないよ。ただの相棒。娘みたいな」


 迷う素振りもなく、秋芳はさらりと答えた。

 

「――んなぁっ?!」

「……やれやれ、その返答が実に秋芳君だ」


 この流れはどう考えてもどっちかで答えるところのはずですよぉ! と多々良が涙と鼻水まみれの顔で抗議する。やっぱり行ってくるです、と立ち上がりかけるのをまぁ待て、と明水が押さえる。


「何するですか、明水さん!」

「しぃっ、声を落とせ多々良。まだ続くようだ」

「続く?」


 見ろ、とこっそり指差す方向にいる秋芳は、依然として稲波を腕の中に抱いたままである。


「僕はそう思ってたんだけどね」

「相手の方は違うと?」

「うん。僕のお嫁さんになりたいんだって」

「お嫁さん……」

「僕のこと、好きなんだって」

「兄さんは、どうなんですか。その方のこと、本当に相棒とか娘さんとしか思ってないんですか」


 沈黙が流れる。

 秋芳の言葉を待っているのは稲波だけではない。多々良と明水もまた――むしろこの二人の方が心臓をバクバクさせながら待っていた。


「わかんない」

「わかんないですか」

「本当にわかんないんだよね」

「私が食べてしまったからでしょうか」

「そうなのかな」

「その方について何か思うこととかはないんですか?」

「思うこと?」

「可愛いとか、一緒にいたいとか、そういう感じの」

「それは常々思ってるよ」


 常々……?


 多々良の肩がぴくりと動く。

 明水もまた、「おや?」と呟いた。


「いつも楽しそうにしてるとことか、僕のことを見つけるとものすごく嬉しそうな顔をするとことか、可愛いと思ってるよ。朝昼晩ずっと一緒にいて、これからも一緒に美味しいものを食べていたい」


 秋芳がそう答えると、稲波は、ああ、と何もかもわかったような顔をしてそうですか、とだけ言った。


「多々良喜べ、あのな、秋芳君は本当にバブちゃんなだけだ。あいつ、好きっていうのを本当に知らないんだ。娘っていうのも、世間一般的な話をしてるだけだ。それともあの妹がその辺も食ってしまったのかもしれんが」

「ほ、ほわぁ、ぼしゅぅ……」

「あとはもうこれ時間の問題だな。よし、行け多々良。秋芳君をものにしてこい。何なら私はもう一部屋取ったって良いんだから」


 ゴー! と明水が多々良の背中をひっぱたくと、それがスイッチにでもなっていたのか、弾かれるようにして彼女は駆け出した。


「ぼ、すぅぅぅぅぅぅぅ!」

「――うわぁ!」


 どす、と秋芳の背中に体当たりをかますと、その衝撃で稲波が離れる。


「何だ多々良か。お前いつの間に来てたんだ」

「さっきです!」

「そうか。もしかしてそろそろ宿に行く時間だった?」


 ここ、時間の感覚おかしくなるな、などといつものようにのんびりと言って、頭を掻く。彼には、さっきの稲波との会話を聞かれていたら恥ずかしい、などといった感情は存在しない。何せ、彼の中では聞かれて困るようなことを話した覚えなどないのだ。


「まだ時間はありますけど。ボス、そんなことよりも」

「そんなことより? どうした? 何か美味しいものでも見つけた?」

「うぐ。それはないです。しまった、ボクとしたことが……!」

「じゃ、食べてく? ちょうどアイス食べてたところなんだよね。稲波、追加の注文お願い。そっちはね、普通の量で良いから」

「いや、ボス、ボクは別に」

「すごく美味しいからさ、多々良にも食べさせたいって思ってたからちょうど良かった。ほら、座って」


 そう促されれば、座るほかない。それにいま秋芳は言ったのである。自分にも食べさせたいと思っていた、と。何よりも己の空腹を満たすことを最優先するはずの悪食が、もちろん優先こそしているけれども、それでもその思考の隙間に自分を差し込んでくれた、という事実が多々良には嬉しい。ぶぇぇ、と声を上げて泣き始めた相棒に、ぎょっとした顔をして、秋芳はおろおろとその背中を擦った。


「ちょ、どうした。えっ、何これ。多々良?」


 そこへ「おい、稲波。そのアイスもう二つ追加だ。ミニサイズでな」と、明水が向かいの椅子を引き、どっかと腰を下ろす。「お話中に失礼しますね」と嘉火がその隣に座った。


「あれ、伏木さん。と、嘉火さん」


 いままでどこにいたの? と多々良をあやしつつ尋ねる。


「すぐそこで隠れてた。いや全く、秋芳君は悪い雄だよねぇ」

「何それ、僕、悪いことなんて何もしてないよ」

「そんで無自覚だから質が悪いんだ。全く罪作りなヤツだよ。まぁ、どう言っても君には伝わらんだろうがな」


 その言葉に秋芳は不服そうに口を尖らせたが、彼にしてみれば、明水の方こそ何を言ったって無駄なのである。口では到底勝てないし、かといって腕力の方でも少々自信がない。一応は生粋の妖怪であるわけだし、雄でもあるわけだから真正面から挑めば勝てるかもしれないが、それでも勝てる気がしないのだ。


 だから秋芳は色々と諦めて、多々良の背中を擦る手を止めた。

 そして、ぶぇぇぶぇぇと泣き続ける多々良の顔を覗き込み、とんとん、とその肩を叩く。


「多々良、泣いてる場合じゃないぞ。僕、お腹空いてるんだけど」


 そうしていつものように、大きく口を開けて見せる。


「食べさせて、早く」

「ボスぅ」

「お前が食べさせてくれるんだろ。これからもずっと」

「も、もちろんです! ずっとずっとボクが食べさせるです! ボス、大きくお口あーんですよ! ああん、大きなお口でアイスを待ってるボス、最高にきゃわたんです!」


 よいしょよいしょと匙でアイスを削り、せっせせっせとそれを秋芳の口に運ぶ。明水はそれを見て、「それでこそ君達だ」と満足気に笑い、嘉火は何が何やらと思いつつも、娘に釣られて微笑み、そして秋芳の妹、稲波はというと――、


「兄さんが一人ぼっちじゃないのなら、それで」


 いつかお二人でいらっしゃるのを待ってますね、と言って、ほろりと泣いた。


***

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