4-2 明水と嘉火と多々良
***
「なぁんだもう、それならそうと言ってくださいよぉ!」
「ぜぇ……はぁ……わ、私は、何度も、言おうとして……ヒュー、げぇっほ、して、たんだがな……ォウエッ」
ちょっともう、大丈夫ですか、と心配そうに身をかがめ、瀕死状態で大の字に寝転がる明水に冷えた水を差し出す。明水は尚もげっほげっほオエエ、と咳込みつつ
あれからずっと、秋芳の元へ駆け出そうとする多々良を阻止するべく、走り回った結果がこれだ。確かに年齢的な話をすれば、である。実は明水の方が若いのである。けれど、夢を食べるためなら一晩で万里をも駆けるとも言われる獏と、登山客を
それで――、
最後の方は当初の目的も忘れたか、完全に鬼ごっこにシフトし、にゃっはにゃっはと楽しげに走り回っていた多々良はいまもピンピンしているが、明水の方は息も絶え絶えという有様なのであった。こちらでもせっかくの久しぶりの母子対面だったが、感動どころではない。
「嘉火さん、ごめんなさいです。明水さん、ぐったりです」
なかなか本人からの返答が得られないので、とりあえず、その母親である嘉火の方に頭を下げる。大丈夫、地獄では死にませんから、と笑い、さらに「こうしていると、赤ん坊の頃を思い出しますねぇ」などと言って、うっとりと目を細め、明水の頭を愛おしげに撫でるのである。赤子の時にこんな半死半生な事態に陥ったことがあるのか、それは果たしてそんなに目を細めてしみじみと思い出すようなやつなのだろうかとさすがの多々良も少々心配になる。
とりあえず、「さっきの悪食は秋芳の妹である」という情報だけは、明水がぶっ倒れる直前に聞いたため、彼を追うことを止め、稲波についての詳細を聞き出そうと明水の回復を待っている状態なのだった。
それからまたしばらくして、やっと明水が起き上がれるようになると、多々良は再び頭をぺこりと下げ、「ちょっとはしゃぎ過ぎたですよ」と謝罪した。それに「良いさ」と手を振って、既に温くなってしまっている水を飲む。
「いや、私も話す順を間違えたんだ。先にお前に話を通しておくべきだったな」
悪かった、驚かせただろ、と髪を撫でれば、くすぐったいのか眉間にしわを寄せつつ「えふふ、良いんですよ」と笑う。
「それで、そう、あの雌悪食がボスの妹ということはわかりました。つまりは、ボクにとっては小姑ってことですね。うん、仲良くしておくに越したことはないです。よし、あとで何か差し入れてやるです」
手っ取り早く食べ物で釣ってやるです、賄賂で友好関係を築くですよ、と確実に本人の耳に入ったらまずいようなことを高らかに宣言し、拳を振り上げる。
そこではた、と気付いた様子で、高く上げた拳をしおしおと下げ、「でも」と弱い声を出した。
「どうした、多々良」
「どうなさったの? お腹空きましたか?」
「母さん、秋芳君じゃないんだから。多々良は獏だぞ」
「あら、そうだったわね。やだ、私ったら」
だって二人共よく似ているから、と口を滑らせれば、多々良もまんざらではないようで、ぐねぐねと身を捩らせて「ぎゅふふ、やはり夫婦というのは似てしまうのですねぇ」などと宣う。小声で「似てる? どの辺が!?」と呆れた声を上げる明水に「だって二人共、白と黒の二色なんですもの」と真顔で返すと、もう「うん、まぁ、それはな」と納得せざるを得ない明水であった。
「いや、ボクもですね、せっかくだから明水さんと嘉火さんを親子水入らずにしたかったです」
甘味処『
「そんな気を遣わなくても良かったのに」
「気を遣うですよ。だって、なかなか会えませんよ? 今回は旅行代金半額キャンペーンだったから来られましたけど、地獄なんてそうそう来れるところじゃないです」
「……だからさ」
そう言って、多々良の前に、す、と名刺を出す。そこに書かれているのは、
『曰くつきでもお任せください! 開かずのナニカお開けします!』
『ご自宅、オフィスの「開かない!」に即対応! 訳あり金庫も大歓迎!』
『金庫、鍵のことなら【鍵のフシキ堂】にお任せ!』
という、なんとも頼りがいのある文面である。鷹なのか鷲なのかわからないキャラクターのフッシー君が「どうだ!」と親指を立ててニヒルに笑っている。鳥なのに親指? などと突っ込んではいけない。
そしてもちろん、明水の名前と店の電話番号、それからメールのアドレスも明記されている。むしろそれがなくては意味がない。
「ここが得意先になりゃあ、出張料ってことで交通費含めて請求出来るからな。そうすりゃほいほい会いに来れるだろ。それで、助手ってことで、欽の代わりに馬鹿親父と兄貴も連れてこようと思ってな。そういう算段だったんだ、一応な。一か八かとは思っていたが。でも」
そう言って、彼女もまた物騒なカップに淹れられた黒豆茶を一口飲み、ぷはぁ、と気の抜けた声を出す。
「秋芳君の妹もいるとわかった以上、何が何でもお抱え鍵師にならんとなぁ」
うんと悪い笑みを浮かべ、「お前だって小姑と仲良くやりたいだろ?」と囁くと、多々良もまた邪悪に笑って「そりゃあもう、外堀から埋めるですよ」と肩を揺らす。
うぇへへ、いひひ、と明水と多々良が悪い顔を突き合わせて笑っていると、「二人共、お待たせしました」とのんきな声で嘉火が割り込んで来た。
「何のお話なさってたんです? とっても楽しそうでしたけど」
などと邪心0の顔を向けられると、何となく視線を逸らしてしまう二人である。
「そんな大した話はしてないさ。それより母さんの方は最近どう?」
地獄の罪人に「どう?」と尋ねても、通常は返答に窮するだけである。せいぜい、自分がいま受けている罰を紹介するくらいなものだからだ。それでもまだ嘉火の場合はガイドとしての業務があるので、そっちの話であればある程度のネタはある。けれどももちろん個人情報であるため、ぺらぺらと話すわけにはいかない。いまの時代、地獄も何かとコンプラにうるさいのだ。
そのため、
「私の方はぼちぼちよ」
そう答えるしかない嘉火に、多々良がさっと助け舟を出す。
「明水さん、せっかくですし、ご家族のことお話するですよ。ね、聞きたいですよね、嘉火さん。ボクも聞きたいです。何せ、明水さんが威針との半妖だって知ったのも、ごく最近ですし。明水さん、普段から謎が多くてミステリアスなんです」
ミステリアスな男装美女の秘密に迫りたいです! などと重ねると、明水の方でも乗って来たのか「仕方ないなぁ」と言って、「何から話せば良いかな?」とキメ顔のサービス付きである。多々良は内心「明水さんも案外転がしやすくて助かるです」と思っている。
それで明水が得意気に語ったのはもちろん先日の『開かホニャ』での騒動である。父親のうっかりミスによって手放してしまった大事な金庫を奪還すべく奮闘した息子とその(自称)彼女の(色々ザルすぎる)冒険譚だ。
明水が少々大袈裟に語る度、
「
「憂火にはそれくらいしっかりしたお嬢さんの方が良いかもしれないわね」だのと言いながら、眦の涙を拭う嘉火である。
「あの金庫はな、私が実家に顔を出すついでに風通しも兼ねてちょいちょい開けてたんだ。まぁ自主的に帰省するというよりは、定期的に親父に泣きつかれるんだよ、嘉火の写真が見たいから開けてくれ、って」
「だったらむしろ飾るとか、しまうにしても、もっと開けやすいところにしまえば良いんじゃないです?」
「そう思うだろ? だけど、親父曰く、『外気に触れたら劣化する! それに、すぐ開けられるところでしたにしまって盗まれたらどうする!』なんだと」
「成る程、金庫に入れておけば安全ですもんねぇ。しかも難攻不落の岡女金庫! 守りは完璧です!」
と言ってから「それで、まさか金庫ごと手放すなんてオチ、あります?」と多々良が苦笑する。
「いや、ほんともうそれなんだよ。何やってんだ馬鹿親父。母さんも、次に夢枕に立つ時にガツンと言ってやってくれ、ボケるには早すぎるぞってな」
「そうねぇ。もうすぐ
母さんに任せて、などと言って両手で力こぶを作って見せる。夢枕で喝を入れる際に何の筋肉が必要なのかはわからないが、とにかく彼女はやる気らしい。にこり、と明水に向かって微笑んでから、少しだけ暗いトーンで「それと、ずっと気になってたんだけど」と困ったように眉を下げた。
「明水はどうして男性の恰好をしているの?」
***
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