1-4 多々良の駆け込み寺
***
「由々しき事態です、
真っ赤な顔をした多々良がフシキ堂の開店時間に飛び込んで来たのはその翌日のことである。「朝からうるさいぞちび助! 社長ならあっちだ!」と
「由々しき事態なんです!」
「うん、それはいま聞いた。その続きを頼む」
社長がこの状態でも、店の方は問題ない。何せ優秀な店番(欽一)がいるし、元々そこまで忙しい店でもない。
「ボスが、生きてる人間を食べるかもしれないです!」
「はぁ? まさか」
ずーっ、と汁を啜りつつ、箸で具を摘まむ。どうやら
「そりゃ秋芳君もね、多少はショックだったろうさ。自分が本来は生きた人間を好んで食べる妖怪だったなんて。だからきっと、一時的なやつだと思うよ、私は」
うんうん、と納得したように頷いて、飲み終えた汁椀を置く。その上に箸を揃えると、多々良がそれを回収して流しへと運んで行った。悪いね、と背中にかけられた言葉にいえいえ、と返してから、多々良はくるりと振り向いた。
「だけど明水さん、ボスは『気になった』って言ったですよ。人間ってどんな味がするんだろうって」
「うん? そりゃあ秋芳君だって気になることくらいあるだろ。あれが食べたいとか、これが食べたいとか、しょっちゅう言ってるじゃないか」
「それは言いますけど、でも、『気になった』なんて言わないです! 食べたいやつは食べたいって言います! すぐボクに可愛くおねだりするですよ! そうじゃなくて、何ていうか! 何ていったら良いのかわからないですけど、何か嫌な感じなんですよ! ずーっとそればっかり考えてるみたいなんです! ボスが変わってしまいそうなのが嫌なんですよぉ! いままでは頑なに生きた人間になんて興味を示さなかったのに! わかってください、このモヤモヤぁ!」
うがぁ、と叫んで足をだんだんと踏み鳴らす。いまはまだ人間の姿だからまぁ良いが、これが獏だったら床が抜けるところだ。そう危惧したらしい明水が「わかるわかる」と流すように言う。それが明らかにその場しのぎのトーンであったため、多々良は「明水さぁん!」と抗議するようにその名を呼んだ。が、明水は「落ち着け多々良。続きがある」と彼女の眼前に手のひらを向けて、よくいう話だが、と語り出した。
「『好き』の反対は『嫌い』じゃないんだ」
「はい? 何の話ですか?」
「まぁ聞け、多々良。あのな、『好き』と『嫌い』というのは、一見真逆の感情に見えるが、実は違うんだ。正にせよ負にせよ、相手に向かっているだろ、感情が」
「確かにそうです」
「だから、『好き』の反対は、『無関心』なんだ。どこにも感情が向かってない。相手がいないんだ。秋芳君は、たぶんいつもそうなんだ。もちろん例外はあるがね。お前や私辺りは『好き』のカテゴリに属してるだろうし、好物もあるだろ?」
「あります。ボスはあんこがずっしりしたお菓子が特に好きです」
「恐ろしい量食うもんな。私だったら胃がやられる。そう。それでだ。そういうもの以外について、関心が薄すぎるんだよ。食べ物と認識したものに関しては貪欲なんだろうが、それ以外への関心がほぼないんだ」
言われてみれば、と多々良が納得したような声を上げる。思い返してみても、秋芳が食べ物以外に何か特別執着する様を見たことがない。
「それで恐らく、これはあくまでも私の推測だが、秋芳君は心のどこかで自分が生きた人間を食べる妖怪だというのを知っていたと思う。忘れているのか、それとも、その記憶を自分で食べてしまったのかわからないが」
「そうか、ボスは何でも食べちゃうから。その可能性もあるですね!」
「自分で自分の記憶を食うとか、そんなことが可能なのかわからないがな。とにかくだ。だとすると、だよ。秋芳君にとっては、その『生きた人間を食う』というのは、表に出て来てほしくない事柄なわけだ」
「そうなりますね」
ということは、それは秋芳君にとって『嫌い』なんだよ、と明水は言った。そして、
「『嫌い』というのは、さっきも言ったように、負ではあるが、相手に向かう感情だ。えてして、そういう感情は、案外ひっくり返りやすい」
そう言いながら、多々良の目の前に右手を差し出し、それをくるりと返してみせた。
「『好き』も『嫌い』も向かう方向が違うだけだからな、ちょっとした刺激がきっかけで、『好き』が『嫌い』になることもあるし、その逆もある。たぶん、いまそれがぐらぐらしてるところなんだろ」
「……てことは。てことは駄目じゃないですか! ボスが人間を食べちゃう! 地獄からお迎えが来ちゃう!」
駄目です! 地獄は観光で行くものであって、働く場ではないですぅぅぅ! と慌て出した多々良を「どうどう」となだめる。そんなもので多々良の興奮は収まらなかったが、己の発した『地獄は観光で行くもの』という言葉でキャンペーンのことを思い出したらしく、「そういえばぁっ!」とそのおかしなテンションのまま明水の肩を掴んだ。
「ボスが今度地獄観光行かないか、って言ってましたぁ! 行きましょう、明水さぁん!」
「お、おぉ、そうか。何かもう情緒がめちゃくちゃだな多々良。うん、ええと、謹んで同行させてもらうよ。噂によれば、あそこにも結構開かずの何やらがあるらしいからな。名前を売っておいて損はないかもと思っていたんだ。とりあえず一番偉いやつに名刺を渡してこようかと」
「うわぁ、行ってみたいって観光目的かと思ったらまさかの営業目的じゃないですか」
「はっはっは。ビジネスチャンスというのはどこにだって転がってるものさ」
地獄で一番『偉いやつ』と言えば、それはもちろん閻魔大王である。つい最近生まれたような若い妖怪、しかも半妖の小娘が、大王に会う気でいるのだから恐れ入る。さすがは威張ることしか能のない妖怪だ。多々良は密かにそう思った。
「しかしだな、多々良。仮に秋芳君が人間を食べたとして、だ」
コキコキと首を鳴らして、じ、と多々良を見つめる。しゃべり倒しているうちにやっと働ける状態になったのか、だいぶ顔色も良い。
「それで地獄から迎えが来たとして」
「……はい?」
「それは秋芳君にとっては幸せなことなんじゃないのか?」
「ほへ?」
だってさ、とテーブルに頬杖を突く。
「地獄に行けば、秋芳君は一生飢えることもないんだ。果たして亡者とやらが生きた人間に匹敵するほどの味なのかはわからんが」
「それは、確かに」
「そりゃあ生きたまま食われる人間は気の毒だけど。まぁ、欽辺りなら逆に喜ぶんじゃないか?」
「確かに、あの
ぶえっくしゅ、と店の方から派手なくしゃみが聞こえる。まさか彼も奥の部屋で自分が『生きたまま食われてもハァハァしてそうなドМ』などと噂されているとは思わないだろう。
「ま、その辺は置いといて、だよ。どうなんだ、多々良。君は秋芳君のことを溺愛しているが、本当に愛しているのなら、彼のために手頃な人間の一人や二人見つけ出して献上でもすべきなのではないのか?」
「うぐぅ……」
「そりゃ、彼が地獄に行ってしまったら多々良は寂しいかもしれないが。死ねばいつか会えるだろうし……つっても罪状によっては会えないかもしれんがな」
「それは……わかってるですけどぉ……」
多々良だって、理解はしているのである。
悪食が元々地獄の妖怪であるならば、秋芳にとってもそこが最も住みやすい環境なのだと。だから、明水の言う通り、彼のためを思えば、朝食を用意するくらいの気軽さで生きた人間の一人や二人見繕ってしかるべきなのだ。
「ボク、ボクは、嫌です」
その場にべしゃりと尻をつき、べそべそと泣く。
「ボスと離れるのなんて嫌です。ボスはまだまだこっちでボクと一緒に美味しいもの食べるですよぉ! そしてぇっ! 仲良く一緒にホラー映画を見たりしてぇっ、ボクはボスの美味しい美味しい悪夢を食べるんですぅ! ボスと良いことたくさんするんですぅ! 多々良ってお名前は、ボスが、『僕とたくさん良いことしようね☆』って意味でつけてくれたんですぅ!」
多々良の由来は正しくは『良いことが多々あるように』である。混乱のあまりにおかしくなっているのか、はたまた年月を経て都合よく解釈されたのか、定かではない。
うわぁん、うわぁん、と声を上げる多々良に「秋芳君のやつ、そんな意味で『多々良』ってつけたのか。案外むっつりでやらしいやつだな」と首を傾げる明水である。
と、そこへ、
「うっ、うわぁぁぁぁ、秋様! 秋様、ど、どうなさったんですか、そのお姿はぁぁぁぁ!」
欽一の絶叫が店内から聞こえて来た。
その声に素早く反応した多々良が恐るべき瞬発力で店の方へと飛び込むと、そこにいたのは――、
「おお、いたいた。迎えに来たぞ、多々良」
いつもと同じ、のほほんのんびりな顔をした秋芳である。
ただ、いつもと違うのは、彼の身体が、頭のてっぺんからつま先まで赤黒い液体でべったりと汚れていたという点だった。
「ぼ、ボス! 一体どうしたですかぁぁぁぁ! まっ、まさか、人間を――!?」
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