3-3 良いことが多々あるように

「泣かない泣かない。もう大丈夫だよ。一人にしてごめん」


 わしゃわしゃと血を洗い流して、きれいな手拭いで拭いてやる。幸いなことに――で合ってると思うが、それは彼女の血ではなかった。


 となると当然誰の血か、という話になるわけだし、身体中が真っ赤になるほどの返り血を浴びたとなれば、その相手の生死も気になるところではあるのだろうが、僕は特に気にならなかった。人間と妖怪とではその辺の倫理観が違うのだ。


 妖怪の世界には、他者を殺してはならないという決まりはない。やられたらやり返すくらいのことはするが、争ったって無駄に数を減らすだけだとわかっている。棲み分けというものがしっかり出来ているから、欲に駆られて縄張りを広げたいなんて思わなければ、余程の場合を除いて他種族同士で争うこともない。けれども、些細なきっかけで、かなり激しい喧嘩をしたりはする。それこそ両者血まみれになるくらいのやつだ。化け狐と化け狸のようにとにかく仲の悪いやつらもいるが、妖怪同士で争う分には、人間達も特に問題にはしない。


 だから、まぁせいぜいその程度だろうと思ったのである。

 この辺にそんな血の気の多い妖怪が住んでいるなんて知らなかったが、きっとそうなのだろう、と。


 だけれども、獏はほろほろと泣きながら違う違うと首を振った。喧嘩じゃない、と。


「喧嘩じゃないなら何だ? 他の妖怪にいじめられたか? ああでも、これはお前の血じゃないんだよなぁ」

「おとと様が来たです」

「は? 僕?」


 思わずそう反応してから、気付く。違う、の方か、と。生きてたのか。ということは、やはりこいつは捨てられたのか。


「お父様だなんて言われても、ボクには全然わからなかったですけど」

「そりゃそうだろうな」

「だけど、お父様なんだそうです」

「そうか。迎えに来たのか」


 夢喰い獏の生態はよくわからないが、父子の再会がまさかこんなにも流血を伴うものだったとは驚きである。お父上は無事なんだろうか。


「お迎え――とかじゃなくて、その」

「お迎えじゃないのか?」

「ボクは、エサだったというか」

「エサ?」

「ボクをエサにして、お父様を釣り上げたんだそうで」

「は? ちょっとわけがわからん。迎えに来たのがお前のお父上で? お前をエサにしてお父上を釣って?」


 本気で混乱していると、彼女もまた「そうじゃなくて、そっちのお父様じゃなくて」と僕を指差したり、明後日の方向を指差したりと、わたわたし始めた。


「ええと、ですから、その、お父様。釣り上げたお父様は、あなた」


 びし、と僕を指差す。


「ああそうか、僕のことか。紛らわしいな」

「お父様みたいな良い悪夢を見る人を釣るために、夢喰い獏は子どもをあちこちにばら撒くんだそうです」

「子どもをエサに、ってそういうことか。それで、その良い悪夢を見る僕を釣って? その後は?」

「その子どもを追い払うか殺すかして、代わりに夢を食べるんです。大人の夢喰い獏はそうやって一晩にたくさんの夢を食べるんだって言ってたです」


 夢喰い獏といえども、他者の夢を勝手に食べられるわけではない。食べられる側の受け入れ体制が重要なのだ。それが整っていなければ夢への門は開かない。だから、まずは子獏で人間を懐柔し、門を開きやすい状態にしておく必要があるらしい。そうして、美味しいところは親がすべて持っていくということなのだろう。


「つまり、お前もいずれ自分の食い扶持のために子どもをたくさん産んで、その辺にばら撒くようになるってわけか」

「そんなの嫌です」

「そうか。嫌ならしなければ良い。ずっと僕と一緒にいて、僕の夢を食べてりゃ良いじゃないか」

「良いんですか」

「良いんじゃないのか? よくわからないけど、僕の夢は美味しいんだろう?」

「美味しいです。思い出すだけでよだれじゅるじゅるです」

「よだれは拭きなさい。じゃあ、それで良いじゃないか」


 そう返したけれども、獏はまだ何かあるのか、すっきりしない顔をしている。庭の隅にある不自然に盛り上がった土の山を見て、その理由に僕は気付いたけれども、わざわざ確認する理由もない。


 それで、、など。


 何が埋まっているのかなんて、話の流れを考えればわかることだ。それに、隠しきれなかったのだろう、その日のうちに自ら白状してきた。


 もう一度言うが、妖怪には、妖怪を殺してはならないという決まりはない。己の生活を脅かすものが現れたら、基本は威嚇して追い払うが、それでも向かってくるならこちらが退くか、あるいは立ち向かうかだ。獏は、僕との生活を守るために父親を噛み殺したのだ。親を殺すのだって、妖怪ならば、決して珍しいことではない。何なら親を食べて大きくなるものもいる。


 けれど、獏は人間の世界に染まりすぎた。

 ありもしない決まりに怯え始めたのだ。自分は親殺しである、許されないことをした、と。

 悪夢を食べる獏が、あろうことか悪夢にうなされるようになったのだ。


「よしよし泣かない泣かない。良い子良い子」


 眠い目をこすって、うなされる獏の背中を擦る。

 しばらく擦ってやれば落ち着くが、朝目が覚めると、「獏の癖に悪夢にうなされるなんて」と酷く落ち込むのだ。僕の夢も悪夢以外は断片的にしか食べられなくなり、ガリガリに痩せてしまった。こうなると正直僕としても限界である。


 だから、苦肉の策だった。


「僕が食べてやる」


 ぐすぐすと泣く獏に向かってそう言った。


「何を食べるですか?」

「あそこに埋まってるお前のお父上の亡骸と、それからお前」

「え」

「僕は悪食アクジキだからな。この僕に食べられないものなんてない」

「ええ」

「お前の悲しい記憶なんて、お父上ごと全部食べてやる」

「なぁんだ、びっくりしました。ボクまで骨まで残さずにむしゃむしゃ食べられちゃうのかと思ったですよ」

「僕は生きてるモノは余程のことがない限り食べないと決めてるんだ。だから、お前が生きてるうちは食べないよ」


 と言ったものの。

 形のないものを食べるのは苦手だ。どこまでが食べて良くて、どこまでが駄目なのかがわかりにくいからである。けれども、やるしかない。多少食べ過ぎてもどうにかなるだろう、まだ若いし。


「それで、いらないところをきれいに食べたら、お前に名前をつけてやる」

「ほんとですか! もう決まってるですか?」

「決めた。食べ終わったら教えてやるから」

「ほんとですね? 約束ですよ」

「わかった。約束だ」


 それで。

 

 結論から言うと、まぁ多少食べ過ぎた。

 親に捨てられただの、その親が戻って来て自分を殺そうとしただの、それを返り討ちにしただの、という部分はきれいに食べたから良かったのだが、夢喰い獏の生態の部分であるとか、僕のことを『おとと様』と呼んでいた部分まで食べてしまったのだ。


 だから彼女は、夢喰い獏という妖怪が、どのようにして身体を大きくし、それを維持するためにどうやって大量の夢を集めるかという手段を知らない。なんなら親の存在も知らない。自分は、僕のようにある日突然ぽつんと生まれたものだと思っている。彼女は、生きるための栄養こそ足りてはいるものの、身体をさらに大きくするために必要な量を得ることが出来ない。だから、とっくに成体であるにも関わらず、いつまでも小さいままだ。


 だけど、記憶のどこにも『悲しい思い出』がないからか、彼女はいつもにこにこと楽しそうである。それは良かったと思う。


 記憶の大半を失う結果となってしまったけれど、残ったものもある。


 一つは、僕のことだ。『おとと様』とはもう呼ばなくなったけど、彼女の大切な存在のままであるらしい。


 それからもう一つは――、


「約束通り、ボクに名前をください、ボス」


 僕との約束だ。


 直前に見た西洋絵巻か芝居の影響か、なぜか僕のことを『ボス』と呼び始めた彼女は、約束をちゃんと覚えていた。食べ終わったら、名前をつけてやると言った、その約束を。


「『多々良たたら』だ」

「たたら? たらららん、たったらたーん、の、『たたら』ですか? 楽しいお歌ですか?」

「いや、その『たたら』じゃない。そんな愉快なやつじゃない。別にそっちでも良いけど」


 そっちの方が良かったかな、と思った。楽しそうに「たらららん、たったらたーん♪」と歌う様を見れば、別に願いなんて込めなくても良かったかも、と。


「じゃあ、どういう『たたら』なんですか? もしかして人間みたいに願いを込めてくださったですか?」

「まぁ、一応」

「聞きたいです! 早く早く!」

「急かすなよ、もう。その、何だ、これから先、お前に良いことがたくさんあるようにって。お前のこれからの記憶が全部良いことで埋め尽くされるように、『いこと』が『』あるように、で『多々良』だ」


 悲しいことなんて、もう一つもありませんように。


 そう言いながら手のひらを指でなぞって漢字を教えてやると、彼女は、僕の右手を掴んで「もっかい、もっかいです」と何度もせがんだ。「ちゃんと覚えるです。書けるようになるですよ。ボスと良いことがたくさんあるように、ちゃんと覚えるですよ」と言って、覚えるまで何度も手のひらに書かされた。彼女が最初に書けるようになった字がそれだ。比較的簡単な漢字で本当に良かった。


 かくして、金木犀の下で拾った悲しい獏の子どもは、多々良という名の、ちょっと能天気な僕の相棒になったのである。

 

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