3-2 金木犀の下にいた小さな獣

 にゃっは、にゃっは、と多々良はご機嫌である。

 

「まったくあの木偶助でくすけには困ったものですよ」


 でも! ボクが一番ですもんねぇ、と言いながら、満面の笑みを向ける。否定しても面倒なので、こくこくと頷いて板チョコサイズの畳を齧った。これはこれで食べやすくて良い。


 僕から同意を得られたので、多々良はもうほっぺたをふくふくに膨らませてご満悦だ。とくとくと、ポリタンクに入れた水道水をコップに注いで、どうぞ、と手渡してくる。


 人が多く集まる公園である。

 だだっぴろい芝生の上にレジャーシートを広げて、現在は持参したお弁当を食べている。

 これが多々良のしたかった『人間のデート』というものらしい。お弁当は畳だし、飲み物は水道水なんだけど。



 多々良と出会ったのは、僕が二百五十を過ぎた頃だっただろうか。

 その時の僕は定期的に見る悪夢に悩まされていた。

 もういまとなってはそれがどんな夢だったのか思い出すことも出来ないけれども、目覚めた後の身体の震えであるとか、喉の渇きや酷い空腹感は覚えている。


 その日僕は、悪夢でおかしな時間に目を覚ましてしまい、震える身体を落ち着かせようと外に出たのだ。時刻はいまでいうと真夜中の二時くらいかな、いわゆる丑三つ時というやつである。


 月明かりの下、何か食べないとと考えながら歩いていると、ふわりと鼻先を掠めたものがある。金木犀の香りだった。特別好きというわけではないけど、思い入れはある。僕は、金木犀の下で生まれたのだ。きれいなものも汚いものも生きてるものも腐ったものも形のあるものもないものも、ありとあらゆるものを食べることが出来る『悪食アクジキ』なんて卑しい妖怪は、秋にうんと芳しい香りを放つ花を咲かせる金木犀の下で生まれたのである。『秋芳あきよし』という名前もそこからつけた。


 風に乗って届いたその香りの大元を探した。

 また食べたいと思ったからだ。

 僕がまず最初に食べたのは金木犀の花だった。

 だけど、食べ尽くしてしまうのが惜しくて、落ちている花弁だけを食べて止めた。僕は、きれいなものばかりを食べてはいけないのだ。きれいなもの、美しいものは、きっとこの世界にはそんなにたくさんはない。僕は常に空腹だから、きれいなものばかりを食べてしまったら、この世界からきれいなものはなくなってしまう。


 だから、死んだ木の根をほじくり返して食べ、さんざんに痩せた土を食べ、淀んだ沼の水を啜った。とにかくいまの空腹さえ満たされればそれで良かった。何を食べたって僕は死なないのだから。ただ美味しくないだけだ。そこはあまり問題じゃない。


 だけどその時は無性に金木犀の花が食べたくなった。

 心細かったのかもしれない。怖い夢を見た後で、喉もカラカラで、目もかすみ、足元がふらつくほどの空腹で、手を取ってくれる親も仲間もいなくて。だからせめて、花弁一つでも良いから、きれいなもので、腹だけじゃなく、心を満たしたかったのだろう。


 匂いを頼りに見つけた金木犀の根元に、小さな獣が転がっていた。


 死んでいるのだろうか。

 死んでいるなら食べてしまおうか。


 僕は生きているモノは余程のことがない限り食べないと決めている。


 僕が何でも食べられる妖怪だと言うと、皆、怖い怖いと泣いて、食べないでくれと命乞いをする。そんなつもりは毛頭ないのだが、その姿を見れば、僅かにでもあった食べようかなという気持ちはなくなってしまうのである。だって可哀想だ。僕は、誰かの命を奪う妖怪ではありたくない。


 それの周りに落ちている金木犀の花をつまみながら、よくよく観察してみると、どうやらそいつは生きているらしい。小さな腹が呼吸に合わせて上下している。


 まだ短い象の鼻がひくひくと動いた。ああそうか、これは夢喰い獏の幼体だ。


 困った。

 その辺の妖怪ならまだしも、こいつはちょっと特殊だ。夢しか栄養にならないのである。他の妖怪ならまだその場しのぎで、花の蜜だの、人間の垢だのを舐めさせておくことも出来るが、夢喰い獏だけは駄目だ。腹は満たされても何の栄養にもならない。


 理想は悪夢だが、僕はもう見終えてしまった。残滓ざんしくらいはあるかもと、試しに抱き上げて、その短い鼻を額に当ててみる。


 最初は慣れぬ感触に戸惑うような動きを見せたその獏は、やがて悪夢の残りかすを嗅ぎ取ったのだろう、赤子が乳を吸うかのごとくに鼻をちゅっちゅっと鳴らした。そんな滓でも幼体には足りたのか、やがて、げふぅ、と立派なげっぷまでして満足気な顔ですやすやと寝息を立て始めた。僕の方でも、身体に残っていた悪夢がすっかりなくなったからだろう、渇きと飢えはあるが、震えは止まった。


 朝までそのままでいたが、親が迎えに来る気配はなかった。捨てられたのか、あるいはこの子を産み落として死んだのか。夢喰い獏の生態はよくわからないが、妖怪の中には、自身の命を捧げて新しい生命を産み出すものもいるのだ。


 この子にとってはどちらが良いのだろう。例え捨てられたとしても、親が存在している方が良いのか、否か。


 いずれにせよ、最初から親なんてものがいない僕には選べない、贅沢な問いである。


 朝になって、目を覚ました幼体は、すっかり僕に懐いてしまった。悪夢を与えたからだろう。


「おとと様」


 そしてそいつはそう言った。僕のことを、父、と。すごいなこいつ、僕の性別を一瞬で見抜いたのか。そんなところで思わず感心してしまうほど、僕は雌によく間違われたのだ。そんなことがきっかけではあったが、僕はそいつを育てることに決めた。まだよちよちの、姿を変えることも出来ない幼体だった。


 僕の夢の質が良かったのか、思った以上に夢喰い獏の成長は早かった。あっという間に大きくなり、こっちの方が生きやすそうだと僕の真似をして人間の姿への変化も覚えた。その時になって雌だと知った。


「おとと様、何でボクには名前がないんですか?」

「何でって言われてもなぁ」

「お父様の名前はどこから生まれたですか? どこかに落ちてるですか?」

「名前は生まれるものじゃないし、落ちてもいないよ。僕は自分でつけた」


 つけてくれる人もいなかったし。


「じゃあ、ボクも自分でつけるですか?」

「そうしたいならそうすれば良いんじゃないか?」

「おとと様につけてほしいです。ください」

「くださいって言われてもなぁ。雌の獏の名前なんて僕はわからないぞ」

「雌の名前じゃなくても、獏の名前じゃなくても良いです。お父様がくれるなら、何でも」

「だけど、名前って結構大事らしいからなぁ。人間なんかはそこにいろんな願いを込めたりするし」


 そう言うと、願いですかぁ、と呟いて、両手をもじもじと擦り合わせた。良いのを思いついたらつけてやると約束すると、彼女は、白いほっぺたをふくふくと膨らませて、楽しみにしてるです、と笑った。それまではずっと『お前』とか『獏』と呼んでいた。


 その時も僕は、看板こそ掲げていなかったけれども、何でも屋みたいな仕事をしていた。妖怪の存在はある程度認知されているけれども、人間の中に紛れて生活をするのなら、とりあえずは働いて金を得なければならない。日がな一日家の中にいて、その辺の草だの土だのを食べていれば色々と問題になるのだ。僕は海や山じゃなく、人間の里で生まれた妖怪だから、ここを追い出されたら行くところがない。ここにしがみついて、溶け込まなければならないのだ。


 働いて、金をもらって、形だけでも人間の振りをする。『食べられるために作られたもの』の味を覚えたのもこれくらいの時期だ。菓子は甘くて美味しい。ふわふわした洋菓子も好きだが、ずっしりした重さのある和菓子の方が食べごたえがあって好きだ。獏もまた、栄養にこそならないものの、人間の食べ物は好きらしく、土産を買って帰ると喜んだ。


 獏と暮らして何十年か経ったある日のこと、頼まれた用事を一つ二つ片付けて帰宅すると、一人で留守番をしていたはずの獏がいなかった。


 何が何でも僕以外の夢は食べないと常日頃豪語しているから、まさか出ていくなんてことはないはずだった。だからそれだけに、どこへ行ったのか、皆目見当がつかない。どうしよう、探しに行った方が良いのだろうか、と再び外に出た。当時、家の裏にある小さな菜園で野菜を育てていたから、もしやと思って裏に回ってみると――、獏はそこにいた。


 しゃがみ込んで、べそべそと泣いて。


 口の周りと身体が、誰のものかわからない血で、べったりと汚れていた。 

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