2-2 夢喰い獏と大きな子ども
***
「よしよし、泣かない泣かない、泣かないんですよ」
ダブルサイズのベッドの上で、胎児のように丸まって眠る秋芳の背中をとんとんと軽く叩きながら、夢食い獏の多々良が、歌うように言う。
「可愛い可愛いボクのボス、良い子良い子ですよ。もう怖くないですよ。明日もまたお腹いっぱい食べましょうねぇ」
秋芳の額に当てた象の鼻をふんふんとひくつかせ、犀の目をうっとりと細めて、牛の尻尾をふぉんふぉんと振りつつ、虎の足で彼の背中を温めるようにゆっくり優しく擦る。大きな熊の身体ですっぽりと秋芳を包んで、多々良は、彼の夢を食べている。
秋芳が見る悪夢はすべて、前世の記憶だ。
彼がまだ人間だった頃の。
自分の前世が人間だったという記憶は、いまの秋芳にはない。それは、悪夢となって彼の前に現れたのだった。
自分がかつて人間だったことも、飢えで死んだことも覚えていない秋芳にとっては、単なる質の悪い悪夢の一つではある。けれどそれは、他のどんな悪夢よりも恐ろしかった。目覚めた後も震えが止まらず、再び同じ夢を見るのが怖くて、それが例え真夜中であっても、もう一度眠る気にはなれなかったものである。
その夢を見るのは決まって、『人間に関わるモノ』を食べた後のことだった。とはいえ、いくら秋芳が『何でも食べる妖怪』でも、生きている人間を食べたことはない。余程のことがない限り、命を奪ってまで食べねばならぬものでもないと思っているからである。そこまでせずとも、道には草木があり、石も土もある。腹が減ったらそれを食べれば良い。
けれど、昔は、人間の方から食べてくれと頼まれることもあった。
「自分が死んでも弔ってくれる人がいない。焼いてくれる人も、埋めてくれる人もいない。だからどうか、私が死んだら食べてほしい」と。
死んでからという話なら、そして、そういう理由ならば断る理由もない。
約束通りにいただき、そして怖い夢を見る。その時はまだ、その法則がわからず、たまたまだろうと思っていた。後に夢喰い獏の多々良を拾ってからは、悪夢に限らずすべての夢は軒並み彼女の食事になったので、震えて目を覚ますこともなくなった。
それからさらに数百年が経ち、
齋藤氏の『塊』のように、人の形を保っていなくとも関係ない。とにかく、かつて人間でありさえすれば、僅かにでも人間と関わってさえいれば、食べた後に悪夢を見る。けれど、それがわかったところでどうということはなかった。何せ、どんな夢も、相棒の多々良が食べてくれるのだ。
目を覚ませばどんな夢を見ていたかなんてきれいさっぱり忘れ、残るのは「悪夢を見たらしい」という記憶だけ。だから、最近では、その『悪夢』のことも朧気である。遠い昔にそんな夢を見たかもしれない、という程度だ。
「いつもいつも僕の夢ばかり食べているけど、飽きないのか?」
さすがにちょっと悪い気がしてそう尋ねてみたところ、多々良は、
「ボスの夢は、すっごく美味しいから大丈夫です! 飽きないです! 大丈夫!」
などとよだれを垂らしつつ評した。彼にしてみれば、特に嬉しくもない評価である。ただ、不味ければ食べてもらえないだろうから、それはそれで良かった。
それがどこから漏れたか、「何でも屋を営んでいる秋芳とかいう妖怪の夢、特に悪夢は美味らしい」という噂が夢喰い獏の間で広まり、『一度で良いから食べてみたい悪夢百選』に選出されたというのが、多々良の今年のエイプリルフールネタだった。実はあながち間違いではなかったというか、選ばれたのは『悪夢百選』の方ではなく、『悪夢シュラン』の方なのだが、それはどうでも良い。
「ボスの悪い夢は、ボクがぜぇんぶ食べますからね。一人ぼっちになんてしませんからね。良い子良い子ですよぅ」
ぐすぐすと鼻を啜りつつ、「お腹が空いた」「一人は嫌だ」と幼い子どものように泣きながら眠る秋芳を、よしよし、とあやしながら、ふと窓を見る。カーテンの隙間から光が漏れている。いつの間にやら朝を迎えたらしい。
「はわ! もう朝でしたか! そろそろお迎えに行くですよ」
ぱんぱんに膨れた腹を擦りながら、象の鼻を離してトントンと肩を叩き、首をコキコキと鳴らしてから、けふぅ、と大きなげっぷをする。
うんせ、と身体を起こしつつ、「ではボス、もっかい失礼しますね」と、象の鼻を再び、ぴと、と秋芳の額につけた。
何もない、真っ白の空間である。
そこに、秋芳がぽつんと立っていた。
上も下も真っ黒の恰好で。
仕事をするとどうしても汚れるからと、彼は、靴も含め、黒い服しか着なくなった。透き通るような銀の髪と白い肌に映える、真っ黒の服。多々良にしてみれば、そこもまた「はわわ! 白と黒! 最高にきゃわたんですボス!」と絶叫するポイントである。
放心したように、ぼけっと佇んでいた秋芳は、そこに白黒おかっぱの多々良が現れると、やっと回線が繋がったような顔をして、「おあぁ、多々良」と気の抜けた声を発した。
「今日はどんな夢だったんだ」
きれいさっぱり食べられて、何もなくなった夢の世界である。
悪夢を見た、というぼんやりとした記憶はある。けれども、何を見ていたのかすら、もう思い出せない。
「今日はですねぇ、ハンドアックスを振り回すペストマスク殺人鬼から無様に逃げる夢でしたねぇ」
「無様に、って……。ていうか、完全にさっきの映画の影響じゃないか。そんなベタなやつでも、本当に美味いのか?」
「美味しかったですよぅ。にゃはは、ボスったら、必死に逃げ回ってるんですもん。色んな所に隠れるんですけどぉ、ぜぇーんぶ見つかってて。ボクに言わせれば、隠れ方が甘いんですよねぇ。あんなの、映画だったら真っ先に殺されるやつですよ。すぐ死ぬのは駄目です。夢がすぐ終わっちゃうんですから」
「そんなこと言われても、仕方ないだろ」
「だから、もっとたくさん見て勉強しましょ、っていっつも言ってるじゃないですかぁ」
「勉強って、ホラー映画だろ? 嫌だよ。僕はもっとのんきでほのぼのしたやつが見たい」
「ボスはいつものんきにほのぼの生きてるんですから、わざわざ見なくても良いじゃないですかぁ。もっとスリルを求めましょうよぉ」
「嫌だよ」
じたじたと手足をばたつかせる多々良の手を取って、「ほら、もう起きないと」と引く。
「伏木さん、泊まってったのかな」
「どうでしょう」
「いたら朝ご飯準備しないとな」
「ボスは何食べます?」
「昨日テイクアウトしたやつ」
「温めますか?」
「良いよ。そのままで」
そんな会話をしながら、多々良が、夢の端をびりりと破る。その隙間に二人同時に、にゅ、と顔をねじ込ませると――……
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