2 秋芳の悪い夢

2-1 仕事終わりと秋芳の夢

『ぎゃああああああ!』

『ヨハン!? いやぁ! こっち来ないでぇ!』


 ホラー映画鑑賞会である。

 九時から始まる『金曜ホームシアター』には、何とかギリギリ間に合ったのだ。二人共もう何度も見ているらしい、スラッシャー映画『ザ・スケアリー・ナイト3』である。

 テーブルの真ん中には、多々良たたらが用意した山盛りのポップコーン二種と、飲みかけの缶チューハイ。伏木ふしきさんが飲み散らかした空き缶は既に僕の腹の中だ。


 ガシャン、バリン、と景気良く窓ガラスを割り、このシリーズのレギュラー殺人鬼である『JジョアンOオリバー・エイブラハム』が、トレードマークのペストマスクを装着し、愛用の刃物を持って登場すると、女性陣はキャー、と黄色い声を上げた。これはホラー映画の鑑賞法として色々おかしいんじゃないだろうか。


 ちなみに、二人の前では公式の愛称である『Jジェイ』ではなく、敬意を込めて『ジェイ』と呼ばなくてはならないし、刃物じゃなくてちゃんと『ハンドアックス』と言わないと怒られる。間違っても「バールのようなものじゃなかった?」などと言ってはならない。どうやらこの『ジェイさん』は手近なものを凶器として使用するタイプの殺人鬼らしい(特にお気に入りで登場時に持っているのがハンドアックス)のだが、頑なにバールだけは手に取らないのだ。シリーズを通して一度も使ったことがないのだとか。バールに何かトラウマでもあるのかな?


「いよっ! 待ってました、ジェイさーん!」

「ジェイさん、クールですよねぇ。黙々とるタイプっていうか。そもそもしゃべらないし」

「わかる〜! 何か色々趣向を凝らしてじわじわ追い詰めるやつもいるけど、彼は基本的に真正面から来るよね!」

「ボク、ペラペラしゃべるタイプとか、小粋なジョーク飛ばす系ってあんまり好きじゃなくて」

「はいはい、『ハロウィン・ナイトメア』シリーズのフランツ君みたいなやつね。それはさ、上司が秋芳君だから、ってのもあるんじゃない?」


 秋芳君も淡々とっていうか、黙々と食べるしさぁ、と言いながら、こちらをにやにやと見つめる。伏木さんはお酒が入るとちょっと女性っぽくなる。いや、元々女性なんだけど。


「まぁ、今日はなんか謎の食レポしてたけどね。何あれ」

「えへへ、今日のはボクのリクエストなんですぅ」

「あらっ、そうだったのね? まったく多々良には甘いんだからもぉ〜。それにこの見た目でワイルドなところもあるし? ギャップよねぇ~」

「ボスってば、そういうところあるんですよねぇ」

「またその話? ていうか、ワイルドって食べ方が汚いってやつでしょ? だからこれからはもっとちゃんと上品に食べるようにするってば」

「良いですよぉ、ボスはそのままで。ギャップ萌えですよ!」

「そうそう。私、秋芳君が最後這いつくばって床舐めてても全然引かないし」

「ボクだって引きません。むしろ、きれい好きだなぁって高評価ですよ」

「高評価なのはたぶんお前だけだぞ、多々良。いつだったか、女性の依頼人さんが汚物でも見るかのような目で僕を見てたの知ってるんだから」


 仕事食事にとりかかる前は「もし良かったらこの後一緒にお食事でも」なんて頬を染めていたのに。


「まぁ、並の女性には厳しいかもね? 謎のどす黒い液体を『もったいない』とか言って舐め取る天使みたいに儚げな美少年とか、負のギャップが過ぎるもんねぇ」

「やっぱり負のギャップなんじゃないか。だから、次からはちゃんとスプーンとかで掬って飲むようにするってば」

「うーん、そういうことじゃないっていうかさ」

「スプーンじゃなかった? スポイトの方が良いのかな」

「そういうことでもないんだよなぁ」

「ボスのそういう天然というか頓珍漢なところも、ボクは可愛いと思いますよ」


 にゃはは、と多々良が笑い、伏木さんもまた、胡坐をかいてアハハと笑う。その後も二人はきゃいきゃいと楽しげにホラー映画を見、ぽりぽりとポップコーンをつまみつつ、多々良はお茶を、伏木さんはお酒を飲んだ。もう何缶目かわからない、彼女の空き缶をもしゃもしゃと食べたり、ポップコーンを口の中に運んでもらっているうちに瞼が落ちてくる。


 視界が一瞬暗くなって、かく、と頭が大きく揺れた。


「あら、秋芳君てば、もうおねむなんじゃない? ぽやぽやしちゃって可愛いったらないわねぇ。お姉さんが食べちゃおうかしら。おーっほっほっほ」

「……伏木さんのキャラが変。ていうか、僕は男の恰好したお姉さんに食べられる趣味はないよ。あとね、いつも言うけど僕の方が全然年上だから」

「だって秋芳君、見た目若いんだもん。二十代前半……いいや、ぶっちゃけ十代でもイケるよね。それにあれよ? その時は私だってちゃんと女の恰好するよ? どう?」

「だとしても伏木さんは嫌だ。あぁでも、伏木さんが僕に食べられたいっていうならいつでも言って。骨も匂いも血の一滴も残さずに食べてあげるから。ただ僕、生きてるモノは余程のことがない限り食べないって決めてるから、その時は予め死んでおいてもらう必要があるけど」

「秋芳君が言うとシャレにならないというか、の意味合いが違うのよねぇ……。まぁ、この世から存在ごと消えたくなったらお願いするわ」


 そんな日が来たらね、と言って、僅かに残っていたレモン味のチューハイを飲み干す。下の方に水滴がついているその缶を僕に差し出して「これも食べる?」と聞かれたので「食べるよ」と答えた。だって僕は悪食だから、何でも食べるのだ。人間が食べられないモノだって、動物が食べられないモノだって、僕は食べる。生まれてこの方、我を失うほどの空腹なんてほとんど味わったことがない。もちろん、美味い不味いはあるし、僕にだって好き嫌いはあるけれど、選り好みさえしなければ、この世界は食べ物で溢れている。


「……多々良、僕もう限界。眠い」

「あいあい。それじゃあベッド行きましょうねぇ。えふふ、さてさて、ボクもやっとご飯ですよ」


 がじがじと噛んでいる最中の空き缶を「これはまた朝に食べてくださいねぇ」と没収され、よいしょ、と背負われる。多々良は実は僕より力持ちである。


明水あけみさん、もしお帰りなら鍵は郵便受けの中に入れてってください。テーブルもこのままで大丈夫なので。泊まってくなら、お布団は押し入れから勝手に出しちゃって構いません。ちゃぁんと干してあるやつですから」

「はいよー。お休み、秋芳君。また曰くつきが来たら頼むわぁ」


 多々良の小さな背中の上で、そんな伏木さんの声を聞いたが、眠さが限界で、返事をするのも億劫である。「うぃー」くらいは返したと思う、たぶん。




 寂れた村である。

 空の色だけはきれいな、何もない村だった。

 だけど空なんて全部繋がっているんだから、山の向こうにあるという豊かな村も町もきっと同じ色だ。だから本当に、良いところなんて何もない村だった。

 

 もともと大して作物が採れるところでもなかった。村のルーツをたどれば卑しい身分の者達を一箇所に閉じ込めるために作られた場所だったらしいから、水はけも悪いし、土地も痩せていた。けれど、そこから出ることは許されず、人も、その辺の草花と同じで、自然に枯れるのを待つのみである。


 そんな村に、僕はいた。

 下に年の離れた弟と妹がいて、僕は長男だった。父親はいない。食べ盛りの僕達のために食べ物を探してくると言って出てったきり、戻って来なかったのだ。村の外へ出ようとしたのを見つかって大人達に殴り殺されたらしいと知ったのは、随分後のことだった。


 村には、村民がギリギリ暮らせるほどの作物しか採れなかったけれど、お上からも見捨てられたようなところだったから、それをもむしり取られることはなかった。


 何事もなければ、生きていけるはずだった。お腹いっぱい食べることは出来なかったから、いつも空腹ではあったけど、家族四人、それでも生きていけるはずだったのである。


 ある日のことだ。

 それは空からやってきた。

 いつも真っ青に晴れていた空が、真っ黒になった。それが空を覆いつくすほどの夥しい量の虫だとわかった時には、もう手遅れだった。ありとあらゆる作物は彼らに食い荒らされてしまったのである。


 僕達はお腹いっぱい食べられないのに、その虫達はお腹いっぱい食べたのだ。

 その作物がすべて無事に育ったとしても、それでもみんなが満足するほどの量になんてならないのに。


 突然襲来した虫達を恨んでも、この地に生まれたことを呪っても、どうにもならない。憤っているうちにも腹は減り、死はひたひたと近付いてくる。ブンブンという羽音の聞こえる、死神の真っ黒な手が、最初に掴んだのは一番下の妹だった。その次に弟。たぶん次は僕だ。そう思っていたが、その次は母さんだった。母さんは僅かな食べ物も全部僕達に与えていたから。


 僕は一人ぼっちになった。

 仰向けに転がって、ぺたんこの腹を撫でる。死が近付いてくる。僕から家族を奪った、ブンブンという黒い羽音が忌々しい。


 死ぬのは怖くない。

 だって死んだらもうお腹は減らない。家族にもまた会えるだろう。

 だけど、死ぬ前に、お腹いっぱい食べてみたかった。

 僕はこの世に生まれて、果たして一度でもお腹がいっぱいになったことがあっただろうか。


 それだけが心残りである。


「お腹いっぱい食べたかったなぁ――……」

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