独裁者・武田信玄

【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす

第三十九話 武田四天王と武田一族の対立

箏（こと）の音（ね）が、響いている。

美しい音色に……

その場にいる人々の多くが魅了されていた。

周囲から称賛を込めて『武田四天王』と呼ばれる2人の男とて例外ではない。

一人は山県昌景（やまがたまさかげ）と言い、もう一人は馬場信春（ばばのぶはる）と言う。

「信春（のぶはる）殿。

戦国乱世であることを忘れてしまいそうな音色だとは思わんか？

まるで、平和な世で生きているかのような……」

「おぬしの申す通りだ、昌景（まさかげ）殿」

「これが……

箏（そう）の琴（こと）［柱（じ）を立てて音を鳴らす十三弦（じゅうさんげん）あるいは十七弦（じゅうしちげん）の琴のこと］の音色なのか」

「それだけではあるまい。

弾いているのが、あの『御方』だからな」

「……ん？

あの御方が弾くと、何か違うのか？」

「おぬしは知らんのか？

箏（そう）の琴（こと）の名手だぞ、あの御方は」

「どうりで、心にまで響いてくるわけか」

「噂によると……

あの織田信長殿が、手元に置いて大切に育てていた愛娘らしい」

「手元に置いて育てただと？

あの信長殿が？

大名の身分でありながら、子供を手元に置いて育てるなど聞いたことがないぞ！

しかも……

実の娘ではなく、姪の一人ではなかったか？

姪だけでも大勢いたであろうに」

「よほど気に入ったのだろう。

相当な溺愛ぶりであったようだ」

「凛（りん）とした美しさ［心が美しいこと］に加え……

あれだけ清廉潔白（せいれんけっぱく）［心が清くて私欲がない人のことを指す］で実力にも秀でた女子（おなご）を、わしは見たことがない。

あの信長殿が溺愛したと聞いても何ら不思議に思わん。

そのような御方を正室（せいしつ）［本妻のこと］に迎えた勝頼様は、真（まこと）に羨（うらや）ましい限りよ」

「ただし……

喜怒哀楽がはっきりしているとも聞く。

よほど『気が強い』女子（おなご）なのだろう」

「真（まこと）か！？

それならば、わしの手には負えんな」

「酒に酔っておるのか？

心配せんでいい。

おぬしの手に負うことになる機会など、永遠にない」

「信春殿。

それは失礼な物言いだぞ！」

「昌景殿。

気が強いこと自体は……

悪いことではないと、それがしは思う。

清廉潔白（せいれんけっぱく）であればあるほど、気は強くなるのだからな」

「確かにそうかもしれん」

「ただし……

『仇（あだ）』とならねば良いが」

「仇！？」

「心が清くて私欲がない人ほど、欲深い者に対して『憎悪』を燃やすようになる。

特に武器商人のような、人の欲を煽って争いを引き起こす連中には……」

「人の欲を煽（あお）って争いを引き起こす連中に憎悪を燃やして何が悪い？

むしろ『良い』ことではないか」

「それ自体は良いことなのだが……

数百年に亘（わた）って裏から日ノ本（ひのもと）を支配する地位に就いていた連中だぞ？

甘く見るのは『危険』だと思うが」

「だからといって、連中に妥協しろと申すのか？

死んでも御免だぞ！

あんな連中、叩き潰してやるわ」

「昌景殿。

おぬしは……

この武田家において、文句なしに最強の武力を持つ武将だ」

「うむ」

「ところが……

あの御方はどうだ？

実力に秀でているとはいえ、何の武力も持たない一人の女子ではないか」

「信春殿。

おぬしとわしで、あの御方を守って差し上げよう。

武田四天王の2人が付いていれば何の心配もない！」

「そうだな」

　◇

武田四天王。

清廉潔白（せいれんけっぱく）［心が清くて私欲がない人のことを指す］で実力にも秀でた高坂昌信（こうさかまさのぶ）、山県昌景（やまがたまさかげ）、内藤昌豊（ないとうまさとよ）、馬場信春（ばばのぶはる）の4人の男のことを言う。

彼らは味方に限らず、敵からも非常に高い評価を受けた武将である。

57回にも及ぶ合戦に参加してかすり傷一つ負わず、戦国最強とも謳（うた）われた武将・本多忠勝（ほんだただかつ）［大河ドラマのどうする家康では山田裕貴さんが演じている］でさえ、武田四天王を相手に戦う際には激しい恐怖を感じたらしい。

「わしは……

高坂（こうさか）を除く、山県（やまがた）、内藤（ないとう）、馬場（ばば）と戦った。

3人とも無類の戦上手（いくいさじょうず）で、戦う際は常に死と隣合（となりあ）わせであった。

だからこそ。

戦（いくさ）の後は、生きている喜びを全身で感じることができた。

その3人も長篠合戦（ながしのかっせん）で戦死してしまった。

嗚呼（ああ）……

武田四天王なき今、この血が騒ぐような戦は二度とないだろう」

と。

　◇

さて。

武田一族で最も実力があり、謙虚で、人望まで兼ね備えていた実の弟・信繁（のぶしげ）。

これほどの人物を上杉謙信（うえすぎけんしん）と激突した川中島合戦（かわなかじまかっせん）で失っていた武田信玄は……

日夜、激しい喪失感に苛（さいな）まれていた。

「武田一族の中で、信繁ほど優れた男は他にいない。

それどころか凡人（ぼんじん）［普通の人という意味］ばかりじゃ！

重要な役目など任せられるか」

やがて、一つの結論に至る。

「『一族』に拘（こだわ）る必要はない」

信玄は、『家臣』の中から優れた人物を選び始めた。

残念なことに……

信繁のような清廉潔白（せいれんけっぱく）さと秀でた実力を兼ね備える家臣は限られていたが、それでも4人を選び出すことはできた。

そして。

信繁（のぶしげ）が持っていた武田家ナンバー2の地位を、息子の信豊（のぶとよ）ではなく武田四天王に与えた。

人柄と実力で見れば当然の人事ではあるが……

問題は、武田四天王の『出身』にあったようだ。

山県昌景（やまがたまさかげ）と内藤昌豊（ないとうまさとよ）の2人は家臣の息子ではあるが、次男坊に過ぎない。

高坂昌信（こうさかまさのぶ）と馬場信春（ばばのぶはる）の2人に至っては素性すら怪しい。

出身に問題のある4人が、武田家ナンバー2の地位を与えられている現実。

信玄に最も近い武田一族の穴山信君（あなやまのぶただ）、地位を奪われた当人の武田信豊（たけだのぶとよ）にとっては耐え難い『屈辱』であったことは想像に難くない。

「なぜ……

あんな下賤（げせん）の奴らが重用（ちょうよう）されるのか！

納得できんぞ！」

武田四天王と武田一族の『対立』が始まった。

　◇

箏（そう）の琴（こと）の演奏が終わり、宴（うたげ）となる。

今川家への侵略を開始した武田軍は……

北条家の当主・氏康（うじやす）が率いる軍勢の激しい妨害を受けたが、結果的には駿河国（するがのくに）［現在の静岡県東部］の制圧に成功していた。

「我らはついに！

念願の、『海に面した港』を手に入れたのじゃ！」

甲斐国（かいのくに）［現在の山梨県］、信濃国（しなののくに）［現在の長野県］と海のない国しか治めていなかった貧しい武田家にとって……

喜びはひとしおであったことだろう。

戦勝祝いの宴（うたげ）は、時間と共に盛り上がりを見せていく。

ちなみに。

信玄は、駿河国の支配を既成事実とするための手を既に打っていた。

江尻（えじり）［現在の静岡県清水区］の地に馬場信春（ばばのぶはる）に命じて城を築かせ、城が完成すると山県昌景（やまがたまさかげ）率いる部隊を入れたのだ。

近隣の者たちは恐怖に震え上がった。

「江尻の地に……

赤一色に染め上げた軍勢が入っただと！？

誰もが見ただけで逃げ出すという、武田の『赤備（あかぞな）え』ではないか！」

武田軍最強を誇る山県昌景（やまがたまさかげ）の赤備えを知らぬ者はいない。

駿河国中の誰一人として、武田家に逆おうなどとは考えなくなった。

　◇

宴（うたげ）は、宴（えん）もたけなわになりつつある。

武田信玄の後継者である勝頼と、その妻である織田信長の愛娘の周りには……

自然と多くの人たちが集まっていた。

夫が中座するのを見て、ある男が近づく。

「御方様。

それがし、箏（そう）の琴（こと）の音色があんなに美しいとは知らず……

機会があればまたお聴きしたいと思っております」

「お褒め頂き、有り難く存じます。

初めてお目に掛かる御方でしょうか……？」

「挨拶が遅れて失礼致しました。

それがし、堺で商（あきな）いをしている者。

屋号（やごう）は前田屋（まえだや）にございます」

「前田屋殿ですか！

お会いできて嬉しゅうございます」

この美しい姫様が、自分のことを知っている！？

商人にとっては天にも昇る思いであった。

「お伝えしたいことがあるのですが……

お耳を拝借しても？」

自分に伝えたいこととは、何だろう！？

鼓動の高鳴りを抑えられない。

「はっ」

こう言って耳を近付けたが、受けた話はあまりにも衝撃的であった。

「あなたは……

『恥』という言葉を知っていますか？」

「えっ！？

は、恥！？」

「あなたは……

兵糧や武器弾薬を売るだけでは満足できず、戦（いくさ）の後の略奪にまで手を染めているようですね」

「そ、それは」

「『女子（おなご）と子供』も売り飛ばしていると聞きますが？」

「い、いや」

「あなたは……

銭［お金］のためなら、何をしても良いと考えているのですか？」

「違いまする」

「ここにおられる山県昌景（やまがたまさかげ）殿が、駿府（すんぷ）［現在の静岡市内］に入るなりすぐに火を放った理由をご存知ですか？」

「り、理由ですか？」

「あなたのような恥知らずに『略奪』をさせないためです！」

「ひ、姫様」

「あなたは……

人として、最も醜い行為が何かを知らないようですね」

「最も醜（みにく）い行為（こうい）？」

「お父上の信長様はこう仰（おお）せでした。

『己（おのれ）を安全な場所に置いて銭［お金］を儲けながら、他人を危険な場所に送り込んで血を流させている腐り果てた輩（やから）のことよ』

と」

「……」

「この恥知らずの、人でなし！

わたくしの側から離れなさい！

二度と、その醜（みにく）い面（つら）を見せるでない！」

【次話予告　第四十話　織田信長の愛娘、抹殺計画】

「武田勝頼の代になれば、わしは真っ先に始末される！

もはや一刻の猶予もない」

こう考えた前田屋は、ある決意をします。