裕揮−last
「小林さん、気を付けてね」
「はいは〜い。裕揮先生、ありがとね~」
俺は、杖をつきながらゆっくりと歩く午前診療最後の患者の後ろについて、診療所の外まで出てその背中を見送ると、白衣のポケットに両手を突っ込み、ふうと息をついた。どこかで、ウグイスが一声、鳴いた。診療所の庭に一本だけ植えられているしだれ桜は満開を迎えている。思えば去年ここを訪れたときも、この桜が見事に咲き誇っていたから、あれから丁度一年経ったことになる。
ここに来たばかりの頃は大変だった。
最初の一ヶ月間は、前任者の友坂先生が引き継ぎを兼ねてずっと一緒に居てくれたのだが、親御さんの介護のために実家に戻るというくらいだからさぞかし優しい人物なのかと思ったらそうでもなく、結構な厳しい方で俺は毎日愛情のこもった怒声を浴びせられしごかれた。
やがて友坂先生が週一、そして隔週への通いに変わっていき、ホッとしたのも束の間、俺はすべての業務を村唯一の看護師、鞠江さんと二人でこなさなければならず、てんてこ舞いなところへ、鞠江さんは、お子さんの幼稚園のお迎えがあるので12時きっかりにはうちに帰ってしまう。そうなるともう俺一人であたふたとしてしまって、一度患者さんに「裕揮先生、これいつもの薬と違うけど間違っとるんじゃないかね」と指摘され肝を冷やしたこともあった。診療所内のことは村の人たちの方が詳しいくらいで、俺のほうが教えてもらうこともしょっちゅうだった。
夏には有司くんと瑞希くんが遊びに来てくれた。でも俺の方にまったく余裕がなく、ゆっくり村の案内をすることもできず、結局、有司くんには待ち合いにいる患者さんの話し相手を、瑞希くんには患者さんへ渡す薬の調剤を手伝ってもらっただけで、二人は夕方にはなくなってしまう一時間に一本しかないバスに乗って帰らせてしまうはめとなった。
一葉からは毎週のようにラインが送られてくる。内容はほぼ、動画を含めた千咲ちゃんの成長記録で、画面の外からはでちゅまちゅ言葉で話す一葉の声が聞こえ、呆れるくらい大した親バカぶりを発揮していた。しかし子どもの成長というのは本当に速い。先週はまだゴロゴロしていたのに今週はもうお座りをして、次の週には四つん這いになって今にもハイハイしそう、といった具合だ。俺はそれを専用のアルバムに入れて、まるで親戚の叔父さんのような気持ちで眺め癒やされていた。
そんなこんなでバタバタし通しの一年でも、最近ではようやく落ち着きつつあり、俺は自分のペースというものを確立していった。
哲志とは、あんまり連絡を取っていない。
最初の半年は俺に余裕がなくてあまり電話できず、後の半年は、なんだか哲志が忙しそうで、電話をかけても繋がらないことが多かった。
やっぱり距離が離れると、気持ちも離れていくのかな、と少し寂しく思いながら、俺はよく晴れた空に向かって、ん〜、と大きく伸びをして、は〜、と一気に脱力し、回れ右をして診療所の中に戻った。
診療所の待ち合い室には、古くなったアップライトのピアノが一台置いてある。
村に一校しかない小学校のピアノを新調したときに、古くなったものも捨てるのは勿体ないと、ここに運び込んだらしい。公民館とかに置けなかったんだろうかと思っていたら、公民館は公民館で、祭りで使う御神輿やら餅つきで使う杵と臼、ホワイトボード、長机、パイプ椅子、防災用品と物が溢れてピアノを置く場所などない。そんなわけでここにやってきた、らしい。
俺はピアノに近づいて蓋を開けると、鍵盤の上に敷かれたカバーをどかし、劣化してもう黄色くなってしまった白鍵の『ド』の位置に人差し指を置いて力を込めた。
ポー……ン、と誰も居ない待ち合い室に、調子っぱずれの音が響く。俺には絶対音感なんてないけど、哲志が弾いていたピアノの音をいつも聴いていたから、これがドの音でないことくらいは、わかる。
調律師さんは、こんな山奥まで来てくれるのだろうか。と思いながら、でも小学校にもピアノがあるのだから来てくれるんだろうな、と今度小学校に健診にいったとき訊いてみようと決めた。
診察室に入り、誰も居ない机の前に座って一番上の引き出しを開ける。
中からノートを取り出し、一番新しいページを捲り、シャーペンをペン立てから取り、カチカチと芯を出すと『小学校に行ったとき、調律師が来てくれるか訊いてみよう』と書きつけた。日記は今でも毎日書いている。前のページには『哲志に会いたい』と書いてある。その前の前のページには『哲志に抱かれたい』と書いてあって、読み直しただけで体がジワッと熱くなってしまった。
俺はノートを閉じ、引き出しに仕舞うと、その横にあった、和紙を貼った5センチ四方くらいの小箱の蓋を開け、中からTtoHの刻印の入った指輪を取り出し指にはめた。いつも診察の前に外してここに入れ、診察が終わると取り出してまたはめている。哲志は、もうはめてはいないだろうか。そう考えながら、指輪を眺めていたときだった。
パッパーッ。
診療所の外からけたたましい車のクラクションが聞こえた。続けて「裕揮せんせー!」と大声で呼ぶ声。
なんだ?急患か?と急いで診療所の外へ飛び出すと、診療所の前に一台の軽トラが止まっている。運転席の窓を開けてこっちを見ているのは、この先に住む農家の長谷川さんだ。
「あ、裕揮先生!あんたんとこへ来たっちゅう客が道に迷っとったで、連れてきたったよ」
俺にそう告げる長谷川さんの向こうから、誰かが車を降りるのが見えた。
俺は、一瞬、目を疑った。
哲志が、軽トラの荷台に回ってスーツケースを下ろしている。そしてもう一度、車の中を覗いて「ありがとうございました。助かりました」と長谷川さんに声をかけている。
「はい、は〜い」
長谷川さんは軽く返事をすると軽トラを発進させ、行ってしまった。
軽トラが去ったあとに残ったのは「よお、裕揮。久しぶり」哲志がスーツケースをガラガラ引きながら、まるで「一週間ぶり」くらいの気軽さでこっちに向かって歩いてくる。
「なっ、どうしたの?急に……」
俺は、あ然として、診療所の庭に立ち尽くしていた。
「それがさあ、聞いてくれよ!」
哲志は俺のすぐ目の前まで来ると、ぱあっと目を輝かせて言った。はい、聞きますけど……。
「蒼介が見つかったんだよ!」
「えっ?!」
あの、万年行方不明の蒼介さんが?
「ありとあらゆるツテを辿って探しまくったらあいつ日本にいやがってさ、離島で漁師の真似事してたから引っ張ってきて会社のこと全部押し付けてやった」
哲志は、そう言うと、これ以上ないくらいのドヤ顔をしてみせた。俺は固まるしかない。
「そ、そんなことして大丈夫なの、会社」
「知らね。元々、俺んじゃないし。まあ半年もかけて引き継ぎしたし、親父も戻るようなこと言ってたから大丈夫じゃね?」
ああ、この駄々っ子な感じ。本物の哲志だ。
「そんでマンション片付けて車も処分して、俺の全財産、今こんだけ」
そう言うと哲志は、横にあったスーツケースの取っ手の上にパシッと手を置いた。
相変わらずムチャクチャだ。でも……てことは、もう哲志は帰らなくってもいいんだ、という喜びで胸が溢れそうになった、ところでいきなり思考が現実に戻る。
「いや、ちょっと待って。てことは哲志、今、無職だよね?俺、哲志のことまで養う余裕ないんだけど」
俺が言うと、哲志は、う〜ん、と診療所の周りの広大な土地を見渡して「ここで、ぶどう農園でもやろうかな」と本気とも冗談ともつかないことを言うが、この人は本当にやりそうだから怖い。
「それにしてもレトロだな〜」
青ざめている俺をよそに、哲志は「ボロい」を「レトロ」という言葉に置き換えて、もうかなり老朽化している木造の診療所を見上げた。
「ああ、うん。村の人たちが手を入れながら大事に使ってるんだけど、もう古くて」俺はそこまで言ったところで、ハッとナイスなサプライズを思いついた。
胸をドキドキとさせながら、哲志の顔を見て「でも一個、いいところがあるよ」と言ってニヤッと笑う。
「何?」
「中にアップライトのピアノがある」
哲志は一瞬大きく目を見開いて息を飲むと、次の瞬間には泣きそうに笑いながら「それは素晴らしいな」と感嘆のため息を漏らした。
俺はサプライズ成功に、ヨッシャ!と心のなかでガッツポーズを取ると、診療所の中へ招き入れるために哲志の手を取った。
時間というものを数直線で表すとして、ひとつの目盛りを瞬間とするなら、薄桃色のしだれ桜の花びら舞い散る診療所の庭で、お揃いの指輪をはめた手と手を重ねながら、俺はその瞬間、確かに「今、幸せだ」と感じていた。
〈了〉
あと少し世界が続いたらきっと泣き叫んでしまう 笹木シスコ @nobbit
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