裕揮−17

 救急科はもう諦めた。まだ自分のメンタルが万全だとは思えなかったし、あのプレッシャーに耐えながら自分をコントロールしていくという自信がどうしても持てなかった。命を預かる、という意味ではそんなのどんな科でも同じことが言えるのだが、医者は続けたかったし、続ける限りはどこかを選択しなければならない。そんな風に自分の進むべき道に悩んでいた、ある日のことだった。


「あ〜困ったなあ、困ったなあ」

 俺が病院の廊下を歩いていると、思ったことがすぐに口に出てしまうという、医者としては致命的な欠点を持った小児科の松永先生が、ブツブツと呟きながらこちらに向かって歩いてきた。

「どうかしたんですか?」

 俺が声をかけると、松永先生は、初めて俺に気づいたというふうにハッとして顔をあげ「ああ、篠宮先生。実はね」と俺に向かって困っている理由を話し始めた。

 何でも松永先生の友人が、T県の山深いところにある診療所で僻地医療に携わっているのだが、最近、高齢となった親御さんの介護のために、診療所を離れて実家の近くに引っ越す決意を固めたらしい。でもその土地は今、医者が松永先生の友人一人しかおらず、無医村にしないためにも診療所を引き継いでくれる後継者をさがしているのだが、なかなか引き受けてくれる医師が見つからず、誰かいないだろうかという相談を松永先生が受けたのだという。

「僕じゃだめですか?!」

 俺は自分で意識をする前に声を上げていた。

「え?篠宮先生が?」松永先生が驚いてこちらを見る。俺はもう夢中になって松永先生に訴えた。

「僕、まだ初期研修も終わってないし、研修も結局なんか中途半端だし、経験もないけど、でも、でもやってみたいです!そこに行ってみたいです!」

 目の前の靄がスッと晴れていく感覚がした。行ってみたい。医者としての人生を、そこで歩んでいきたい。知っている人の誰も居ない、新しい場所で、俺ができることを精一杯やってみたい。久しぶりに気持ちが高揚しているのを感じた。

「どうだろう……。よし、一回訊いてみるよ!」

 松永先生は、そう言うと笑顔で手を掲げ、そこを去っていった。


『だからあ、結局、何を悩んでるわけ?』

 電話の向こうで一葉が不機嫌な声を出した。俺は病院のロッカールームの隅っこにしゃがみ込んで、電話口の向こうの一葉に向かって小声で話している。

「だからさ、T県の山奥なの、そこ」

『それは、さっき聞いたけど』

「哲志は会社があるじゃん?だからもしそこに行ったらさ、確実に俺と哲志は別居生活になるわけ」

『だろうね、距離的に』

「でも俺、行きたいんだよ、どうしても。どうすればいいと思う?」

 しばし黙って返事を待っていると、電話口から、はあああ〜という長〜いため息が聞こえた。

『そんなのどっちか選ぶしかないじゃん。両方が無理ならさ。てっしさんと居るために山奥の診療所を諦めるか、自分のやりたいことを選んで、てっしさんとは別々に暮らすか』

 そのとき電話の向こうから、バケツをひっくり返したような赤ん坊の泣き声が聞こえた。

『ああもう、ちぃちゃん起きちゃったから切るね』

 そうして電話は唐突に切られた。こんな夜中に起きるなんて、赤ん坊の体内時計は一体どうなっているんだ、とぼやきながらスマホをポケットに仕舞う。しかし子どもが産まれてからの一葉はどうも俺に対してトゲトゲとしている。そりゃ仕事で疲れて帰ってきて千咲ちゃんの子守りして、そのうえ俺の悩みをグチグチ聞かされた日には機嫌が悪くなるのも仕方なくはないが。

 でも……どっちか選ぶしかないじゃん、か。確かに、その通りだな、一葉。


「篠宮先生〜」

 後日、俺が再び病院の廊下を歩いていると、松永先生が笑顔で手を振りながら俺を追いかけてきた。俺は、胸がドキドキとして、これは、いい報せに違いない、と期待に胸を膨らませながら立ち止まって松永先生を待った。

「オーケーだったよ!とにかく医師がいてくれた方がいいって村役場の人たちもウェルカムでね。しかも、僕の友人、友坂先生と言うんだけど、彼もこのまま今まで診てきた村の人たちを置いて出るのは忍びないって、月に2〜3回なら、きみへの引き継ぎを兼ねて暫く通いで村まで行けるそうだから、彼から色々指導を仰ぐといいよ」

「あっ、は、はい!」

「まずは、こっちの研修を終わらせようね」

「はいっ」

 やった!やった、やった!俺の世界が再び彩りを取り戻した。生きていける。大袈裟だけど、まさにそんな気持ちになった。

 俺はスクラブから私服に着替えるためロッカールームに走った。今から家に帰るところだったのだ。そして大事なことを思い出す。哲志に、なんて伝える?

 去年、哲志が家を出ていったとき、俺はあんなに大騒ぎしたくせに、今度は俺が哲志を置いて家を出ようとしている。いや、家を出ようとしているどころじゃない。完全に、住む家を分けようとしている。でも、やめたくない。これは俺にとって、俺が医者を続けていくということにとって、大切な転機だと思った。伝えるしかない。一葉の声が聞こえる。選ぶしかないじゃん。その通りだ。


「ただいま〜」

 俺が、哲志が作り置きしておいてくれたお惣菜を食べ終わりシンクで食器を洗っていると、玄関から哲志の声が聞こえた。

「おかえり!」

 俺は玄関に向かって声をかけ、腹にぐっと力を入れる。言い負かされてはいけない。俺の研修に合わせて今のマンションに引っ越してくるとき、哲志は「別居は絶対あり得んからな」と言っていた。哲志の、我が強い性格もわかっている。でも、今回ばかりは、俺は譲るわけにはいかないのだ。使い古された言い回しだが、自分が自分であるために、必要なことだった。

 俺は洗い物を終えると、ベッドルームで着替えているはずの哲志の元へ向かった。

「あのさ、ちょっと話があるんだけど」

 俺がベッドルームに入って行くと、哲志はクローゼットの前で脱いだスーツのジャケットをハンガーにかけていた動作を止め「ん?」とこっちを向いた。

 俺は、すうっと息を吸い込む。

「俺、初期研修が終わったらT県にある蓮川村ってところに行こうと思うんだ。そこの診療所から医者が居なくなるから後継者を探してるんだって」

「え……」

「哲志が嫌になったわけじゃない。俺が行ってみたいんだ。だから……だから、暫く別々に暮らすことになると思う」

「暫く?」

「どれくらいになるかわからない。でも、もう決めたんだ」

 俺はそこまで一気に吐き出すと、哲志の、俺を凝視する視線に耐えかねて堪らず下を向いた。目の表面に滲んだ涙を隠すという意図もあった。

 暫く、沈黙が続いたあと、哲志は、まるで独り言のように「そうか」と呟いた。俺はそっと様子を伺うように視線を上げる。

 俺はこのときのことを生涯、忘れないだろう。

 哲志は、俺を止めるようなことは一切、言わなかった。

 その代わり、泣きそうに笑いながら俺を見ると「寂しいな」と、一言、そう言った。






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