裕揮−16
翌日、日曜日、俺は哲志と二人で、新しい部屋に運んだ荷物を再び元のマンションへ戻そうと朝から奮闘していた。
もう手伝わないと言っていた有司くんと瑞希くんも、俺たちが上の部屋でドタバタしている物音に気づいて結局出てきてくれて、俺たちと一緒に哲志の車に荷物を運び入れるのを手伝ってくれた。
有司くんの実家提供の布団は、結局、一回しか使わなかったものの、哲志がどうしても全部クリーニングに出して有司くんの実家に宅配便で送り届けると言って聞かず、必死で遠慮していた有司くんも最後には観念したのか面倒くさくなったのかしぶしぶ了承していた。教えてもらった住所を見たら、有司くんの実家は割とここからすぐ近くで驚いた。
そして次の日から、俺の小児科での研修が始まった。
施設で育ったせいか子どもには慣れている。ただ、問題はコミュニケーションで、俺は積極的に子どもの目線、心配する親御さんの目線に気を配りながら、言い足りないことはないか常に考えながら話をするように努力した。
結果、俺は病棟に入院する子どもたちから親しみを込めて『イケメン先生』という、有り難くないニックネームを承ることになり、看護師たちにクスクスと笑われるはめとなった。
哲志との生活は順調だ。だからといって、いつもラブラブイチャイチャしていたわけではない。ただ、これからは仕事じゃないときはなるべく指輪をしていよう、という約束をした。
俺は元のマンションに戻ってから、入院中に町田先生に言われた、思ったことを紙に書いてみる、ということを毎日実践するようになっていた。と言っても、思ったその場ですぐ紙に書く訳ではなく、一日一回、寝る前などに、その日にあったことで印象に残ったことをノートに書き記すようにしていたので、結果、日記のような形になったのだが、その日記療法を始めてから、俺がどれだけたくさんのことを、言わずにそのまま飲み込んでしまっているかを思い知らされびっくりした。
最初の数ページは、ほとんどが哲志に対する愚痴だった。何でも強引に進めようとするところ。俺に対して過保護すぎるところ。変なところで子どもっぽいところ。潔癖が過ぎるところ。たまにこっちのペースを考えないところ。我が強過ぎて面倒くさいところ。などなど。
これはとても他人には見せられないな、と俺はそのノートを、いつも鞄に入れて持ち歩いていた。
町田先生のカウンセリングは月に一回、受けていた。ノートのことを町田先生に話してみたら「とても良い事だと思いますよ。じゃあ、その中で、これだったら言えそうだな、と思うことを相手に伝えてみてはどうでしょう」とアドバイスを受けた。
そこで俺は哲志に「あの、疲れててもなるべく自分のことは自分でやりたいから、こっちからお願いするまでは放っておいて欲しいんだけど」と、恐る恐る言ってみた。すると哲志は驚くほどあっさりと「わかった」と言ってそれからはあまり干渉してこなくなった。こんな簡単なことがどうして今までできなかったのか不思議なくらいだった。
一番苦しかったのは、子どもの頃の気持ちをノートに起こす作業だった。母親に冷たい目を向けられたとき。火のついた煙草をお腹に押し付けられたとき。男に犯されていたとき。施設に入れられて、母はもう迎えに来ないのだと悟ったとき。そのときは生きるために必死で押し殺していた感情を、少しずつ解放してノートに書くという作業は、バンソーコーを貼って蓋をしていただけの傷をさらけ出してえぐるような行為であり、俺は途中で涙が溢れて止まらず書くことを中断してしまうこともしばしばだった。
それでも書き続けていくうち、俺はだんだんと、子どもだった自分を、辛かったね、と抱き締めて慈しんであげたい気持ちになっていった。
そのことを次のカウンセリングで話すと「ものすごくいい傾向ですね!」と町田先生は少し興奮気味で俺に言った。
そんな感じで俺はノートに自分の中に溜まっていた膿をどんどんと吐き出していった。そしてある程度吐き出したところで、まるでそれまでピンと張っていた糸がたわんでいくように、俺は色んなことに対してやる気をなくしていった。
仕事モードになるとスイッチが入って集中できる。でも仕事が終わると、スイッチが切れて何もかもどうでもよくなる。日常のことはできるので、生活は一見、穏やかだ。でも、俺の心は晴れない。先日、気分転換でもしようかと、俺だけが休みのとき一人で街の方まで出てみた。高校のときの同級生に会って、山口はどうしてるのか、と一葉のことを訊かれたときは少しドキッとしたけど、あとはもうどうでも良かった。
軽うつ、なのだろうか。町田先生に言えば、吉田先生の受診を勧められるかも知れない。薬はできれば飲みたくなかった。
鬱々としながらも、なんとか研修を続け、当直も少しずつ増やし、救急科での研修も剣崎先生の元、リベンジを果たし、研修二年目に入る頃、一葉と百花ちゃんに赤ちゃんが産まれた。
産まれたのは女の子で『
「千も咲くなんて、いいでしょ」
忙しくて会いに行くことができず、お祝いだけ送った俺と哲志に、お礼のビデオ通話をしながら一葉は誇らしげにそう言った。画面の向こうにいる、まだ産まれたばかりで目もほとんど開かない千咲ちゃんは、一葉の片腕にすっぽりと収まってしまうくらい小さくて儚くて、尊い。画面から外れたところで「百花も出る?」「えースッピンだから無理!一葉からよくお礼、言っといて」という夫婦の会話が聞こえた。いつも一人ぼっちを恐れていた一葉に家族がいる。これはすごいことだ。
もうひとつ変わったことがある。それは、有司くんと瑞希くんが引っ越してしまったことだ。
有司くんが、病院での研修を終え、以前から切望していたセクシャルマイノリティの当事者や周辺家族に対するカウンセリングを行っている会社に就職したため、今までの倹約生活で貯めたお金を頭金に、会社の近くにマンションを購入したのだ。瑞希くんは新しいマンションの側で、自分がマイノリティであることをカミングアウトした上で採用してくれる調剤薬局を見つけそこに転職した。それが二人の、かねてからの夢だったらしい。俺が未だにグズグズ二人のお世話になっていたら、二人の足を引っ張っていた事になっていたかも知れないと思うと、ここまで来られて本当に良かったと思う。
そして研修二年目も数ヶ月が過ぎ、俺もいよいよ専門科を決めなければいけない時期がやってきた。
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