裕揮−15
「あれ?」
車が走り始めて少し経った頃に気がついた。
「ねえ。こっち、逆じゃないの?帰るなら反対方向でしょ」
俺たちを乗せた車は、国道を来た方向と同じ向きで走っている。戻るなら逆の方向を向いていなければならない。
「ちょっと寄りたいところがあるんだ」
哲志はそれだけ言うと、あとは黙ってどんどん車を走らせた。
俺はポカーンとしながらも、仕方なく哲志の運転に身を任せる。
車は木々の間を抜けてぐんぐんと走っていき、やがて開けた場所に出ると、柵で囲まれた駐車場のようなところに入ってその動きを止めた。
なんだろう、ここは……。戸惑う俺をよそに、哲志が先に車を降りる。俺も後に続いてこわごわと降りる。
「あ」
車を降りて、ようやく気がついた。この場所は高台になっていて、駐車場の端から向こうを見渡せば、その下には海が拡がっているのだ。
「あっちが公園になってるんだ」
そう言って哲志が歩き出した先に、駐車場の柵の切れ目があり、そこから中に続く林道が見えた。俺たちはその林道を通り抜け、小さな公園に入っていった。人気はまったくないが、街中にあるようなものと同じ、アスレチック遊具のある児童公園といった感じの場所だ。ただ、普通の児童公園と違うところは、背もたれのついた木製のベンチが公園の中央ではなく、すべて海の方向を向いて並んでいるところだった。ここは、海を見渡すための公園なのだ。
「綺麗だね」
かろうじてまだ高いところに位置している太陽が、水面をキラキラと反射していて眩しい。そして霞がかった島のような陸地が、光る海を囲うように伸びて湾を作っており、俺は、こんなに美しい風景を見たのはどれくらいぶりだろうかと、すっかりその景色に見入ってしまっていた。そんな風に暫く景色に見とれていると、突然、隣にいたはずの哲志がフッと視界から消えた。
えっ、と横を見ると、哲志が俺に向かってひざまずいて頭を下げ、その頭上に両手を高く掲げている。その両手の中にあるのは――。
「お、お願いします」
俺は驚いて息を飲んだ。哲志の両手の上には、俺がゴミ箱に捨てたはずの、白いビロードに包まれた小さな箱が、こちらに向かって蓋を開けた状態で載せられていた。その箱の中には、もちろん二つのペアリングが差し込まれている。
「えっ、えっ、なんで、それ」
「ゴミ出し、してなかったみたいだからもしかしてと思ってゴミ箱探ったら出てきた」哲志が頭を下げたままゴニョゴニョと言った。
俺はもう、なんて言ったらいいのかわからなくて、ただただ、哲志の手の中のリングを見つめ続けていた。
「あの、できれば早く返事が欲しいんですけど。小っ恥ずかしくてたまらない」
さっきから頭を下げたまんまの哲志が珍しく困ったような声を出す。そしてその耳は真っ赤に染まっている。本当に恥ずかしいんだ、と、俺は可笑しいやら呆れるやらで、実は普段の雑な態度は、ただの照れ隠しなのかもしれない、とそこでようやくパートナーの本質に触れた気がした。
これ以上は拷問だろう、と理解した俺は、そっと両手を伸ばすと、腰を屈めて哲志の頭を抱き締め、左手を哲志の顔の前に差し出すと「哲志がはめてよ」と頼んだ。
「ん」
哲志が短く答えて、箱の中の指輪を確認すると、TtoHの方の指輪を抜き出して、残りの箱を膝と体の間に挟み、俺の左手を取って薬指に指輪をはめた。そして箱を持ってスクッと立ち上がると、自分の左手と指輪の箱を俺に差し出し「俺のは裕揮がはめてくれ」と真剣な顔をして言った。
「うん」
俺は素直に指輪を箱から抜き出すと、哲志の左手を取り、薬指にスッと指輪をはめた。よく考えたら、俺がこれを哲志の指にはめるのは、初めてのことだった。
指輪の交換が終わると、哲志はそっと俺の肩を抱き寄せた。俺も自然に哲志の背中に腕を回した。
ああ、これはもう、あれだ。今日が俺たちの結婚式だ。いつか俺が歳を取り、誰かに結婚の思い出を語るとき、きっと俺は今日この日のことを懐かしく語るだろう。
「あのさ」
頭上で哲志の声がした。
「ん?」
「言っておくけど、最初から今日のメインはこれだから。別に一葉に振られたらこうしようとか考えてたわけじゃないから」
「え?」
俺は哲志から体を離して、目の前の哲志のスーツの襟に触れた。
「じゃあ、この勝負服は……」
「だって最初に裕揮に指輪渡したときに言ってただろ?こういうのって、スーツ着て片膝ついて海の見える公園でとかって」
ああ、そういえばそんなことを言ったような……。
「え、じゃあこの場所もわざわざ探したとか?」
「グーグルマップのストリートビューで一番条件に合うとこ探した」
「……ちょいちょい、ベタだよね」
俺が呆れると、哲志はまた「うるせっ」と顔をしかめてプイと横を向いた。耳を真っ赤に染めながら。俺はその姿を見て、久しぶりに声をあげて笑った。
「で?二人でやり直すことにした、と?」
頭の上から、有司くんの尖った声が降ってきた。
俺と哲志は、有司くんと瑞希くんが暮らす部屋の玄関の三和土に並んで立っていて、その前には一段高くなった床の上で仁王立ちしてこっちを見下ろす有司くんがいる。
「ごめん、有司くん。裕揮のために遠くで待機していて欲しいと言われたのに無視して。他にも色々走り回ってくれたみたいで、そんな好意を裏切るような形になって本当に申し訳ないと思ってるんだけど、有司くんを見込んでお願いしたいんだ。図々しいのは、わかってる。でもなんとか二人で一緒にいながら、裕揮の心理療法を続けていくって方法はないだろうか」
哲志が更に頭を深く下げながら、必死に有司くんに訴えかけた。
有司くんは、はあ、と大きなため息をひとつつくと「ズルいなあ、その言い方。ていうか皆川さん、もう譲る気ゼロですよね?俺に対するこの前の仕返しかな」と、まるで宣戦布告、承りましたと言わんばかりに冷ややかに言い返す。え、仕返しって何?
「とんでもない!本気で有司くんのこと、頼りにしてるんだ。もうこれ以上は何も望まない。俺のことはどう思ってくれてもいい。でも裕揮のことだけは、よろしくお願いします!」
最後の一押し、哲志が深々と頭を下げる。
有司くんが、何も言い返さず黙っていると、さっきまでダイニングチェアに座って成り行きを見守っていた瑞希くんが、トコトコと近づいてきて「向こうが一枚、うわ手だね。有司、観念しなよ」と後ろから有司くんの肩をぽんと叩いた。
それを合図に、今まで冷静だった有司くんの顔が一気に悔しそうに歪んで「まあ、町田先生に相談してみますよ。言っとくけど皆川さん!俺、アンタとは友だちになれそうにないですから!あと、向こうのマンションに戻るなら二人で勝手にやってくださいね。俺らもう手伝いませんので」と言い放ち、奥のベッドルームに入ると、ダイニングとの仕切りになっている扉をパシンと閉めてしまった。
「有司くん、怒っちゃった?」
俺がまだその場にいた瑞希くんに恐る恐る訊ねると「拗ねてるだけ〜」瑞希くんがいたずらっぽく舌を出した。
「大丈夫。有司は、悪いようにはしないから。でも皆川さんも大人げないね。相手が誰だろうが全力で潰しに掛かるタイプでしょ。いつか刺されないように気を付けてね」
物騒なことを言う瑞希くんに、哲志はさっきより少し優しい顔になって「誤解だよ。俺はそこまで策士じゃない。裕揮を失いたくなくて必死なだけだし」そして俺の方を見て「それで刺されるなら本望だ」と唇を横に引いた。
瑞希くんはそれを見て、ニヤッと笑ったあと「ところで俺は怒ってるよ?今日、病院行ったら裕揮くん居なくて超焦ったし、ライン見たら皆川さんといるとか言うし、正直、帰ってくるまで気が気じゃなかったよ?」と言って俺の方を見て表情を変えると「一発、殴っていい?」と拳を振り上げた。
うわっ、殴られる!と、ギュッと目を瞑ると「待ってくれ!殴るなら俺を殴ってくれ。今回のことは全部、俺が悪い。今日も俺が無理矢理連れ出したようなもんだ、だから」と哲志が俺と瑞希くんの間に割って入った。
「ふうん。俺、歳上だからって遠慮しないけど」瑞希くんが言うと「全然、構わない。思い切り殴ってくれ」と、哲志が、ギュッと目を瞑る。いや、ちょっと待って、何この展開!と俺も思わず目を瞑ると……突然ぐいと右手を引っ張られた。えっ?と目を開けると、瑞希くんの左手が俺の右手を掴み、瑞希くんの右手は哲志の左手を掴んでいる。瑞希くんは、そのまま俺の右手と哲志の左手をつながせると、まるで念でも込めるかのように、ギュッと俺たちのつながった手を上から両手で包み込んだ。
そして「じゃあ、またね」と微笑むと、サッサと玄関扉を開け、押し出すように俺たち二人を部屋の外へ出すと、ガチャリと扉を閉めた。
締め出されたような格好になった俺たちは、しばしマンションの通路でぽかんとしたまま、互いの顔を見つめ合い、やがて、ふはっと笑い合い、その手を繋いだまま、どちらからともなく歩き出した。俺たちがこれからも共に生きていく、あのマンションへ帰るために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます