透明人間のバラバラ死体からは夜の匂いがする

@kota1211

第1話 プロローグ

 夜には、独特の匂いがある。こんな風に夜の町を当てもなく歩いていると、いつもぼんやりと、そんなことを考える。

 朝には無い。昼にも無い。そもそも朝も昼も、もちろん夜も単なる時間の区分に過ぎないのだから、それらに匂いなど有るはずがないのだ。しかし、今まさに真夜中の冷たい空気に晒されている僕の鼻腔には、日中には決して存在しなかった種類の刺激を感じるのだ。

 どことなく、優しく包み込むような。それでいて、冷たく突き放すような。生気や活力といったものを感じさせない、例えるなら錆の入った金属を想起させるような、何とも名状しがたい不思議な匂いだ。そんな夜の匂いは、昔から僕の心をどうしようもなく惹きつけた。

 その「夜の匂い」は、僕が数年前から続けている趣味であり、今も行っている深夜の散歩へと僕を駆り出すものの一つではあるのだが、決して唯一の理由ではない。初めの頃はもっと大きな理由というか、目的のようなものがあった気がするのだが、あらゆる物事に積極性を欠く僕の性格もあってか、今ではただ散漫に歩き回り、魅力的な夜の空気を吸って、それを味わっては吐き出すといったことを繰り返すばかりになっていた。

 このように代わり映えしないルーティンを続けて三年が経とうかというこの日の散歩は、どことなくいつものものとは違う、という違和感があった。その違和感の正体を把握するには十分強の時間を要したが、いざそれに気付いた時、僕は背筋がゾクゾクするような不気味さと高揚感を同時に感じた。

 「夜の匂い」が、いつもより強い。遥かに強い。普段であれば、少し意識を集中させて初めて、その存在をはっきりと認識できるくらいの奥ゆかしさを備えているそれは、今日は不躾なまでにあからさまに、僕の嗅覚を刺激していた。加えて気付いたことには、この日以前は空気全体に均一に匂いが漂っていたのだが、今日は場所によって匂いに強弱があった。どうやらこの「夜の匂い」を発している何かが、そう遠くない所に存在しているようだ。そのことに気付いたとき、僕の足は殆ど無意識に、匂いのより強い方へ、強い方へと向かっていた。傍目にはさながら、街灯に引き寄せられる虫か何かのように見えたことだろう。

 十分も歩かないうちに、僕は匂いの発生源に辿り着いた。何の変哲もない袋小路だった。移動に要した時間よりずっと長い時間をかけて、何もないように見えるその袋小路を念入りに探索した。懸命な探索の結果、その場所は見た目通りの何もない、退屈な場所だということが判明すると、奇妙なまでに高揚していた気分が、急速に冷めていくのを感じた。何か具体的な期待があった訳ではないが、それでも僕の心を惹きつけてやまない匂いの発生源が、ある日突然現れたのである。そこに自らの琴線に触れる何かを期待してしまうのは、無理のない話だろう。

 如何ともし難い落胆を抱えたまま、なおも未練がましくその場に留まっていると、突然、その袋小路の一番奥の方から声が聞こえてきた。やけに耳馴染みの良い、女の声だ。

 「こんな時間に一人でやって来て、一体全体何の用かな……もし立ち小便とかなら、是非とも他所で済ませてほしい所だけれど」

 「え!?」

 「うわっ!」

 声に驚いて振り返ってみたが、依然として袋小路は閑散としたままであった。しかし、先程も今も、明らかにそこに誰かがいるとしか思えない程はっきりと声が聞こえたのだ。幻聴などではないはずだ。

 通りの街灯の灯りが淡く差し込んでいるだけの薄暗い空間に目を凝らしながら、恐る恐る足を進めてみる。すると、やはり奥の方から誰かが話しかけてきた。

 「いやその、あくまで独り言のつもりだったというか……まさか聞こえるとは思わなくてね。勿論君が今からここで何リットル放尿しようが、こちらには止める手段なんて無い訳だし、これ以上何も言うつもりはないからさ……だからそうやってじりじりにじり寄ってくるのはどうか止めてくれ、ってうおっ!眩し!」

 スマホのライトで照らしてみたが、やはり何も視認できない。にも関わらず、正体不明の声は益々流暢に喋り出した。

 「おい!せっかくこっちが歩み寄る姿勢を見せてやったというのに、いきなり目潰しとは礼儀知らずにも程があるだろう!今すぐ止め給え!そして誠意ある謝罪を要求させてもらうよ!」

 「いや、それは失礼……それにしても、アンタ今何処から喋ってるんだ……?」

 どれだけ目を皿のようにして探しても見つからない声の主に、このままでは埒が明かないので僕の方からも話しかけてみることにした。姿が見えない相手と会話するというのは、どうにも自分の頭が狂ってしまったような気がしてむず痒い心地がした。

 「何処って、君の眼の前に決まっているだろう」

 「眼の前……?」

 ライトを正面に向けてみる。そこには誰の姿も無かった。

 「違う、そうじゃない。もっと下だよ」

 慌ててライトを少し下に向けた。やはり誰も居ない。

 「どういうことだ……?」

 「え……?ああ、成程そういうことか。取り敢えず君、ライトを消してくれないか。そして、今君が照らした辺りを触ってみてくれ」

 相変わらず一切訳が分からなかったが、一先指示に従ってみることにした。スマホをポケットにしまい、恐る恐る手を伸ばしてみると、指先に何かが触れた感触があった。

 「うわっ!」

 改めて注意深く観察してみても、そこには何も見えない。しかし、たった今自分の指が何かに触れたのは確かだ。このサラサラとした感触は……

 「……髪?」

 「そうだとも。それにしても、女の髪に触れておいてその反応はあんまりじゃあないか、君」

 「いや、いやいや、有り得ないだろ……」

 女の言葉は無視して、僕は自分に言い聞かせる。百歩譲って、そこに見えない誰かが―先程から僕に話しかけている誰かが―いたとしよう。そうだとしても、この位置に手を伸ばして、触れるのが髪というのはどういうことだろう。これではこの人物が、地面から首だけ生えているような状態でなければ説明が付かない。

 「生首を見るのは初めてかい、少年。おっと、正確には見えていないんだっけか。まあこんな出会いこの先二度と起こり得ないだろうし、 精々仲良くやろうぜ」

 「生……首……」

 僕が引っ掛かっていた矛盾点は、女の簡単な自己紹介で見事に解消された。成程、今晩僕が出会ったのは透明人間の生首らしい。全くもって理解不能である。僕は思考を放棄して、まばらに星が散りばめられただけの黒い夜空を仰いだ。気付けば無意識のうちに、唇をひん曲げて声もなく笑っていた。

 兎にも角にもこの出会いは、僕のこの先の人生に多大な影響を与えることとなる。まあこんな珍妙な経験をして何の影響も受けない方がどうかしている気もするが。

 しかし厳密に言えば、この出来事は出会い等と呼べる代物ではないのかもしれない。僕はたまたまこの日、気付いただけなのだ。光の当たらない奥まった場所に、ずっと昔から潜んでいた、この気違い染みた存在に。

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